詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子鉄夫「ゴッホ」

2011-11-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「ゴッホ」(「さくらこいずビューティフルと愉快な仲間たち」4、2011年11月01日発行)

 金子鉄夫「ゴッホ」には、ところどころおもしろいところがある。ところどころ、というのは何だか書いていて申し訳ないが、それが私の実感である。

まず脱いで白い紙の上に置いておく美しい美しいこどものこどもの目玉が見る、見るのは痛々しい遺体、僕の遺体だ。その傍で喚く実体のないサルばかりの図式、それからは「それからを」チューブに詰めて食べようとしたところで「したところ」に似た恋をしようがへばりついて離れないガムみたいに泣くから

 ことばが動いていくとき、たぶんその運動の先には何かがある。その何かを「目的」と仮に呼んでみる。(結論、でもいいかもしれないが……。)それは、まあ、話者がことばを発するときに想定している何か、ということになる。
 しかし、実際に話者がことばを「目的」にむけて動かすとき、ことばが話者の思い通りに動いてくれないときがある。
 --というのは、ふつうは、話者が明確に語りたいことを整理していない(目的が事前に明確に想定されていない)ために起きることのように思われている。きちんと語りたいことを整理してことばを動かせば、ことばは話者の精神の動きにあわせて動く、と思われている。
 --というのは、ほんとうはそうではなくて、話者の精神のあり方とことばの運動が整然と目的に向かって動いているのを読むと、読者が安心するというだけのことかもしれない。話者の精神とことばの一致を、「わかりやすい」という表現でくくり、読者が安心するために考え出された、一種の「ことばの経済学」かもしれない。
 --と長々と、どうでもいいことを書いて、やっと金子の詩に私はもどろうとしている。

 金子の詩のことばの運動は、「わかりやすい」(流通しやすい、学校教科書の散文)運動に逆らっている。簡単に言うと、「目的」にさっさと進まない。ことばがあるところまで進むと、自己反芻する。同じことばが繰り返され、ことばは目的に向かって動く金子の精神ではなく、ことばそのものの内部(?)に向かって動く。動こうとして、立ち止まる。
 これはもちろん、逆の言い方もできる。
 ことばが勝手に「目的」をめざして動くことに対して金子の精神が異議を唱え、金子の精神そのものの内部へ向かって動こうとする。そして、立ち止まってしまう。
 両方の言い方が成立するのは、どっちでもいい、どっちにしても同じことであるということかもしれないが、それは違うことによってはじめて同じになりうる何かということもできるかもしれない。

 何を書いているかわからない?

 あ、そうだねえ。私もよく整理できていないのだ。わからないことがあるのだが、それを書くことで少しでも納得できるものにしたいと私は思うのだけれど、その瞬間、その「……したいと思う」という気持ちがことばのなかに混じってきて、ごちゃごちゃする。
 で、その、私のなかの「ごちゃごちゃ」が一瞬、金子のことばを読むと重なったような気になるところがある。
 そこに、私は「おもしろみ」を感じている。

 何を書いているかわからない? そうでしょうねえ。でも、もう少し、私のことばの動きにつきあってみてください。
 具体的に書きますから。

 引用部分でいうと、「美しい美しいこどものこどもの目玉が見る、見るのは痛々しい遺体、僕の遺体だ。」という「しりとり」のような部分は、おもしろくない。「痛い」が「遺体」に転換するのは、ことばの「立ち止まり」というより「飛躍」で、詩は、たぶんそういう「飛躍」のなかにあると定義されることが多いと思うが、そこはちょっとおもしろくない。
 それよりももっとおもしろい部分がある。

それからは「それからを」チューブに詰めて食べようとしたところで「したところ」に似た恋をしようがへばりついて離れないガムみたいに泣くから

 「したところ」というカギ括弧で括られたことば。ここには「意味」はあるのかな? 何か「意味」ではないものが、ある。
 「意味」は、私の「用語」では「頭で把握する整理したことがら(論理の経済学)」なのだが、私の定義に従えば、金子の書いている「したところ」は「意味」ではない。この「意味」ではないという感覚を別のことばで言えば、「言い換えができない」ということにもなる。「したところ」をほかのことばを補足しながら、私の頭で理解できるものにしようとすると、とってもめんどくさいのである。めんどうくさいから、私は「できない」と言ってしまうのだが……。

 と、ここで私が言いよどんでいるのは。

 めんどうくさくて説明できないくせに、私はその「したことろ」が「わかる」のである。私の「肉体」がわかってしまう。いや、私の肉体のなかにある「ことばの肉体」がわかってしまうのである。
 あ、それ。
 何というのだろうか、たとえば背中がかゆい。「背中をかいて」と家人にたのむ。なかなかかゆいところに届かないのだが、ある瞬間、ぴたっと当たる。その瞬間の「あ、そこ」というのに似ている。
 私には確実に「わかる」、けれど他人には「わからない」。その「わからない」が偶然「わかる」と重なって、ひとつになる。

 あ、それ。ここがいい。

 そういう声が思わず出てしまうのである。--これは、しかし、私以外にはわからないよね。背中のかゆいところが私にしかわからないようなものだ。
 この、不思議な気持ちよさ--それが、この詩には、あと少し出てくる。

そんなことはどうだっていい、どっだっていいって言っているのがママ、ママっだったりするのだけれど「するのだけれど」があまりに豚臭がキツくて、そんなことをいまさら言われても「言われても」が腫れてしがみついているパパ

 「するのだけれど」がいいなあ。そこには「意味」ではなく、きっと「こと」があるのだ。動いている何か、動くことで存在する何か、がある。「意味」のように固定できない何かと言い換えることもできるかもしれない。ことばが動きときの、「遊び(余裕)」のようなもの。「遊び」がないと、機械は傷む。同じように、ことばも「遊び」がないときっと傷んでしまって動いていけない。
 そういうものに金子は触れながら、ことばといっしょに動いている。そういう感じがする。そこがおもしろい。

 ただし、「言われても」は窮屈である。「遊び」が少ない。最初に引用した部分の「それからを」はもっと窮屈である。
 で、私の希望というか、要望というか、まあ、欲望の方が正確かもしれないのだが。「したところ」「するのだけれど」というカギ括弧の繰り返しに通じることばをもっとたくさん詩のなかに組み込んで、ことばの肉体を生々しい感じにしてもらえたら最高なんだけれどなあ、ということ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする