時里二郎「『《mozu》声のためのテクスチュア』についての補足」(「Loggia」10、2011年06月13日発行)
散文詩にはいろいろな形がある。一昨日、昨日とつづけて読んだ金子鉄夫、榎本櫻子の作品は何が書いてあるか、その「内容(意味)」がよくわからない。ことばが、瞬間瞬間に爆発し、暴走していく。そのときの、爆発の仕方、そしてそこからはじまる暴走の勢いを楽しいと感じれば、まあ、その「楽しい」という感じの瞬間に、私は金子や榎本と出会っていることになる--と私は単純に考えている。だいたい現実の人間のつきあいというのも「意味」ではなく「楽しい」が優先してしまう。それでいいと、私は思っている。
時里二郎の作品の場合は、事情がかなり違う。「内容(意味)」を私が理解しているかどうかわからないが、金子や榎本の作品に比べると、何といえばいいのか、要約が可能である。つまり、なんとなく「わかった」という感じがする。「わかる/わからない」とは、ようするに自分のことばで要約できるかできないか、ということにつきるからね。
で、「『《mozu》声のためのテクスチュア』についての補足」は、どう要約できるか。ある日本人作曲家が北欧の寒村で生涯を終えた。彼は「テクスト」を残していた。「私(時里と考えると理解しやすいが、架空の話者である)」はそれを読み、感想を持つ。その「テクスト」と「感想」のあいだをことばが動いている。--と、要約できる。
要約はできるが、しかし、それで「理解」したことになるかといえば、これがまた面倒くさい。要約できた分だけ、金子や榎本の詩よりも、難しいかもしれない。私がいったい時里のことばのどこに共鳴し、楽しいと感じたのか語ろうとすると、簡単にことばが動いてはくれない。
だいたい、最初の「テクスト」がほんものなのか、架空なのか、ということろからつまずいてしまう。もし、それが架空のものなら、その架空のテクストに触れて動く「私(時里--と書いておく。これは、谷内、と区別するためである)」はいったいどういう存在なのだろうか。「私(時里)」も架空の存在にならないだろうか。ほんとうの「時里」は、架空のテクストに触れてことばを動かしている「私(時里)」をことばのなかで動かしているのであって、詩のなかに出てくる「私(時里)」はことばに過ぎない。
でも、こういう論理がほんとうに成り立つかどうか、わからない。たとえば時里が現実の風景を書いて、そこに「私(時里)」を登場させたとしても、それが果して「ほんとうの時里」であるという保証はない。「私(時里)」は架空の存在である、ことばのなかだけにしか存在しないと言わないだけなのかもしれない。
どんなふうに書こうと、それがことばで書かれた存在である限り、それが「ほんもの」か「架空」かという区別は読者にはできない。
時里のことばがめんどうくさいのは、その「区別できない」ということを意識するように仕向けてくることばだからである。常に、そこに書かれているのは「ほんもの」とは判断できない。いや、それ以上に、時里は、ここに書かれていることは「架空」によって動いている世界であるといいつづける。
時里にとって、「架空」と「書く」は同義なのである。まるで悪質な冗談のようだが、書くとは「架空」を生きることであり、「架空」のなかで「書く」行為が鍛えられる。別のことばで言うと、ことばがことばの自由を獲得する。
で、その「自由」のために、「自由」を暴走させるために、時里はこの詩ではさらに「ずるい」ことをしている。「架空」から出発し、「架空」を相手にするだけではなく、「補足」をつけくわえる。まあ、この「補足」を最初の「架空のテクスト」に対する「補足」とみれば、それほど「ずるい」とはいえないかもしれないけれど、「架空のテクスト」を読んだ自分自身の考えの点検(補足)ととらえるとどうなるだろう。ただでさえ「架空」なのに、「架空」の二乗、あるいは三乗(さらには複数乗)ということが起きないか。何かをわかったような気になるが、それは「ほんとう」のことではなく、「架空」の「架空」の「架空」、つまり、現実としては何も知らないということにならないか。
変だよねえ。これが変とわかっていても、あ、時里のことばは楽しい--と思ってしまう。
なぜ?
「架空」の「架空」の「架空」のなかで、現実のことばが抱え込んでいる「論理」以外のものが振り落とされ、「純粋論理」(透明論理?)のようなものが見えてくるようで、それが快感なのである。その「架空」の「架空」の「架空」のことばを動かしているのは時里なのだが、そのことばを追いかけ、ついていけている(つまり、要約できるくらいには理解できている)と思うとき、何といえばいいのだろう、そのことばを動かしているのは時里なのに、私(谷内)もそんなふうにことばを動かして何かを考えられるのではないか、と錯覚してしまう。
しかも。
そのときのことばというのは、先に書いたことと重なるのだけれど、とっても透明。とっても論理的。--に感じられる。たとえば、 9ページの終わりの方から10ページにかけて。
「男の声と女の声」云々、「ノイズ」云々、「電子的処理」云々は、まあ、うるさい。何かめんどうくさいことを書いている。しかし、
ここがすごいねえ。それって、いったい何、と考えはじめるとわからないのだけれど、美しいなあ。ことばになる萌芽としての《声》か。あこがれちゃうね。声のなかに、ことば--つまり「意味」をつくりだしていくものがある。その「意味」は「感情」でもあるんだろうなあ。「肉体の音」としての「声」、ことば以前の響き。
それが、ふいに聴こえたような気持ちになるでしょ? 錯覚するでしょ? そして、それが「わかる」ということは、私(谷内/読者)も、それを共有したということでしょ? うーん、「誤解」(誤読)なんだろうけれど、何だか、その純粋論理(透明論理)を自分で発見したような興奮につつまれる。「抽象」に達した興奮、と言い換えることができるかもしれない。
詩は(詩のことばの運動は)、「結論」を求めるものではないけれど、時里のことばは一種の「結論」へと突き進む運動の純粋さ、強靱さのようなものを強く感じさせる。「架空」からはじまる「物語」だから、「結論」も「架空」に過ぎないのだけれど、そのとき動くことばの強さゆえに「結論も架空である」ということを忘れて興奮してしまう。「架空」は「抽象」である、と錯覚してしまう。「具象」から余分なもの(?)をそぎ落として、純粋に到達した「美」がそこにあると錯覚してしまう。
時里のことばは「架空」を現実にしてしまう。「抽象」を現実であると、錯覚させてしまう。そして、その錯覚を時里は「論理」で支える。ことばを積み重ねることで、階段を一段一段のぼるように、「純粋」になっていくと感じさせる。
それは、もしかすると「混沌」なのかもしれないけれど、「論理」が強靱なために、そこにある世界を「混沌」ではなく、「透明」と感じてしまうのかもしれない。
金子や榎本のことばは、こういう「論理」を感じさせないのと対照的だ。
散文詩にはいろいろな形がある。一昨日、昨日とつづけて読んだ金子鉄夫、榎本櫻子の作品は何が書いてあるか、その「内容(意味)」がよくわからない。ことばが、瞬間瞬間に爆発し、暴走していく。そのときの、爆発の仕方、そしてそこからはじまる暴走の勢いを楽しいと感じれば、まあ、その「楽しい」という感じの瞬間に、私は金子や榎本と出会っていることになる--と私は単純に考えている。だいたい現実の人間のつきあいというのも「意味」ではなく「楽しい」が優先してしまう。それでいいと、私は思っている。
時里二郎の作品の場合は、事情がかなり違う。「内容(意味)」を私が理解しているかどうかわからないが、金子や榎本の作品に比べると、何といえばいいのか、要約が可能である。つまり、なんとなく「わかった」という感じがする。「わかる/わからない」とは、ようするに自分のことばで要約できるかできないか、ということにつきるからね。
で、「『《mozu》声のためのテクスチュア』についての補足」は、どう要約できるか。ある日本人作曲家が北欧の寒村で生涯を終えた。彼は「テクスト」を残していた。「私(時里と考えると理解しやすいが、架空の話者である)」はそれを読み、感想を持つ。その「テクスト」と「感想」のあいだをことばが動いている。--と、要約できる。
要約はできるが、しかし、それで「理解」したことになるかといえば、これがまた面倒くさい。要約できた分だけ、金子や榎本の詩よりも、難しいかもしれない。私がいったい時里のことばのどこに共鳴し、楽しいと感じたのか語ろうとすると、簡単にことばが動いてはくれない。
だいたい、最初の「テクスト」がほんものなのか、架空なのか、ということろからつまずいてしまう。もし、それが架空のものなら、その架空のテクストに触れて動く「私(時里--と書いておく。これは、谷内、と区別するためである)」はいったいどういう存在なのだろうか。「私(時里)」も架空の存在にならないだろうか。ほんとうの「時里」は、架空のテクストに触れてことばを動かしている「私(時里)」をことばのなかで動かしているのであって、詩のなかに出てくる「私(時里)」はことばに過ぎない。
でも、こういう論理がほんとうに成り立つかどうか、わからない。たとえば時里が現実の風景を書いて、そこに「私(時里)」を登場させたとしても、それが果して「ほんとうの時里」であるという保証はない。「私(時里)」は架空の存在である、ことばのなかだけにしか存在しないと言わないだけなのかもしれない。
どんなふうに書こうと、それがことばで書かれた存在である限り、それが「ほんもの」か「架空」かという区別は読者にはできない。
時里のことばがめんどうくさいのは、その「区別できない」ということを意識するように仕向けてくることばだからである。常に、そこに書かれているのは「ほんもの」とは判断できない。いや、それ以上に、時里は、ここに書かれていることは「架空」によって動いている世界であるといいつづける。
時里にとって、「架空」と「書く」は同義なのである。まるで悪質な冗談のようだが、書くとは「架空」を生きることであり、「架空」のなかで「書く」行為が鍛えられる。別のことばで言うと、ことばがことばの自由を獲得する。
で、その「自由」のために、「自由」を暴走させるために、時里はこの詩ではさらに「ずるい」ことをしている。「架空」から出発し、「架空」を相手にするだけではなく、「補足」をつけくわえる。まあ、この「補足」を最初の「架空のテクスト」に対する「補足」とみれば、それほど「ずるい」とはいえないかもしれないけれど、「架空のテクスト」を読んだ自分自身の考えの点検(補足)ととらえるとどうなるだろう。ただでさえ「架空」なのに、「架空」の二乗、あるいは三乗(さらには複数乗)ということが起きないか。何かをわかったような気になるが、それは「ほんとう」のことではなく、「架空」の「架空」の「架空」、つまり、現実としては何も知らないということにならないか。
変だよねえ。これが変とわかっていても、あ、時里のことばは楽しい--と思ってしまう。
なぜ?
「架空」の「架空」の「架空」のなかで、現実のことばが抱え込んでいる「論理」以外のものが振り落とされ、「純粋論理」(透明論理?)のようなものが見えてくるようで、それが快感なのである。その「架空」の「架空」の「架空」のことばを動かしているのは時里なのだが、そのことばを追いかけ、ついていけている(つまり、要約できるくらいには理解できている)と思うとき、何といえばいいのだろう、そのことばを動かしているのは時里なのに、私(谷内)もそんなふうにことばを動かして何かを考えられるのではないか、と錯覚してしまう。
しかも。
そのときのことばというのは、先に書いたことと重なるのだけれど、とっても透明。とっても論理的。--に感じられる。たとえば、 9ページの終わりの方から10ページにかけて。
男の声と女の声、それから男とも女とも識別できない中性的な声(おそらく電子的処理をほどこされたもの)。男女とも年齢の階層が幼年期から老年期まで、三-四種類ほどの声が識別できる。それらの声と、さまざまなノイズ(ホワイトの伊豆のような電気的な発生音ばかりでなく、どこから採取してきたものなのか不明な雑音)とを電子処理した作品なのだが、どの作品も、作り手の初々しいおどろきと発見と、未知なものへの不安な手探りを、その手探り状態のまま投げ出したような、そしてそれが彼の生得の感性とでもいうべき音楽的なポエジーと結びついて、ほとんど奇跡的な《詩》のフレーズと紛ごうばかりの《ことば》の萌芽を認めることができた。ことばになる萌芽のその芯に含んでいるような《声》、ことばを胚胎した《声》、ことばと声との間で揺れ動く音の運動、その接近と後退を、繊細にしかしくっきりと表現して見せた作品だった。
「男の声と女の声」云々、「ノイズ」云々、「電子的処理」云々は、まあ、うるさい。何かめんどうくさいことを書いている。しかし、
ことばになる萌芽のその芯に含んでいるような《声》、ことばを胚胎した《声》、ことばと声との間で揺れ動く音の運動、
ここがすごいねえ。それって、いったい何、と考えはじめるとわからないのだけれど、美しいなあ。ことばになる萌芽としての《声》か。あこがれちゃうね。声のなかに、ことば--つまり「意味」をつくりだしていくものがある。その「意味」は「感情」でもあるんだろうなあ。「肉体の音」としての「声」、ことば以前の響き。
それが、ふいに聴こえたような気持ちになるでしょ? 錯覚するでしょ? そして、それが「わかる」ということは、私(谷内/読者)も、それを共有したということでしょ? うーん、「誤解」(誤読)なんだろうけれど、何だか、その純粋論理(透明論理)を自分で発見したような興奮につつまれる。「抽象」に達した興奮、と言い換えることができるかもしれない。
詩は(詩のことばの運動は)、「結論」を求めるものではないけれど、時里のことばは一種の「結論」へと突き進む運動の純粋さ、強靱さのようなものを強く感じさせる。「架空」からはじまる「物語」だから、「結論」も「架空」に過ぎないのだけれど、そのとき動くことばの強さゆえに「結論も架空である」ということを忘れて興奮してしまう。「架空」は「抽象」である、と錯覚してしまう。「具象」から余分なもの(?)をそぎ落として、純粋に到達した「美」がそこにあると錯覚してしまう。
時里のことばは「架空」を現実にしてしまう。「抽象」を現実であると、錯覚させてしまう。そして、その錯覚を時里は「論理」で支える。ことばを積み重ねることで、階段を一段一段のぼるように、「純粋」になっていくと感じさせる。
それは、もしかすると「混沌」なのかもしれないけれど、「論理」が強靱なために、そこにある世界を「混沌」ではなく、「透明」と感じてしまうのかもしれない。
金子や榎本のことばは、こういう「論理」を感じさせないのと対照的だ。
ジパング | |
時里 二郎 | |
思潮社 |