タケイ・リエ『まひるにおよぐふたつの背骨』(思潮社、2011年10月30日発行)
タケイ・リエ『まひるにおよぐふたつの背骨』の「声」はとても不思議である。確かに、そこに「声」があるのだけれど、きのう読んだ宮尾節子『恋文病』のように、その「声」は明瞭には聞こえてこない。美しく聞こえてこない。とても濁っている。「喉」を感じない「声」である。
言い換えると、--詩で言い換えるとむずかしいので「声楽」で言い換えると、たとえばパバロッティの声を聞くと、こんなふうに歌えたら気持ちがいいだろうなあ、という欲望が生まれる。肉体がパバロッティの「喉」に反応する。「喉」を中心とした「肉体」に反応する。あまりいい表現ではないかもしれないが、パバロッティの声には、ひとつの「理想」がある。「望ましい声」がある。その「声」と一体になるとき(なれるとしたら、ということだが……)、とても気持ちがいいだろうなあ、と感じる。あんなふうに声を張り上げて歌ってみたい、という欲望が生まれる。
タケイ・リエの「声」は、なんといえばいいのか、そういう「望ましい声」ではないのだ。宮尾節子の「声」にも、ある種の「望ましい」感じがあるが、タケイ・リエの「声」にはそういうものが、ない。少なくとも私にはないように感じられる。聞き苦しい。聞いていいて、とても「肉体」が苦しくなる。
たとえば詩集の巻頭の「karman」。
何が書いてあるか、よくわからない。そのよくわからないことが、「指」「息」「毛」「両腕」「血」という「肉体」を指すことばをとおって動く。「弾く」「押さえこみ(押さえこむ)」「うつ伏せ(うつ伏せる)」「噛む」という「肉体」の動きをしめす動詞をとおって動く。そうすると、そのことばを「声」がとおるとき、私の肉体の「「指」「息」「毛」「両腕」「血」がざわめく。「弾く」「押さえこみ(押さえこむ)」「うつ伏せ(うつ伏せる)」「噛む」という「動作」につながる「肉体の内部(神経?)」もざわめく。ざわめくが--はっきりした何かに結晶しない。
違和感だけが残る。そして、これが実に気持ち悪い。困ったなあ、と思うのである。
ただし。
この「困ったなあ」が曲者なのである。いやだなあ、嫌いだなあ、と思いたいのだが、何か「肉体」の内部の何かが引き込まれてしまう。
また「歌」の例を出すと、昔(30-40年ほど前)西川峰子という歌手がいた。とても泥臭い、いやーな声の歌手だった。いやな声なのだが、肉体の内部に届いてくる。気持ち悪いのだけれど、私のなかにいやな部分と共鳴しているのだと思う。
タケイ・リエの「声」は、たとえて言えばそんな感じなのだ。だから、困るのである。拒絶したいが、拒絶したいという気持ちのバリアを突き破って、「声」が私の「肉体の内部」に届いてしまう。「肉体の内部」がつかまれてしまう。「喉」とか「鼓膜」という「一部」ではなく、先に引用した詩で言えば、「指」「息」「毛」「両腕」「血」をとおって、まだことばにされていない「肉体の内部」がつかみとられてしまう。遠くで、その「共鳴音」が聞こえるのだ。
これは、いったい、どういうことなのだろう。
「声(ことば)」は、たぶん、「肉体」をとおるとき、ふつうは「ひとつ」の「部位(器官)」をとおる。「ひとつ」の「感覚」をとおる。「肉体の部位(器官)」と「感覚」がきちんと結びついたとき、「声」は透明になる。たとえば、指が葡萄の丸みにふれ、その形のなめらかさを感じるとき、「指」と「触覚」がきちん結びつき、理解しやすいものになる。「葡萄に指でふれると、その丸みのなめらかさがわかった」という具合。
タケイのことばは、そういう具合に動かない。
「指」のなかでことばは完結せず(声にならないまま)、「息」で弾くという動きに映ってしまう。「息」のなかには「口」や「喉」もふくまれるかもしれない。その「息」の力で葡萄を弾くとき、「指」はどこへいった? 「指」は何をして、何を感じた? それは語られない。ことばにならないまま、「指」のなかに封印されている。とじこめられている。で、そのとじこめられたものが「見えない」状態なら、まあ、気持ち悪くはないのだが、1行目を読んでしまっているので、私は、「指」が感じるはずの何かがとじこめられている、ことばにならないうちに、次の行にいってしまっていると感じ、とても不思議な気持ちになる。ことば、声がとじこめられたまま、「指」が存在していると感じる。
気持ち悪さ--というのは、そのとき、「指」だけが見えて、「指」の「声」がきこえない。「指」がつかみとったものが「ことば」になっていないということだ。そして、ことばになっていないくせに、そこにはことばにならなかったゆえの、「聞こえない声」(不透明な声)が響いている。
しかも。
それは「指」なのかだけではないのだ。「指」のなからだけなら、「声」は聞こえたことになる。「指」のなかで「声」になるべきだった何かが、「息」に移っていき、さらに「毛」や「両腕」「血」へと移っていく。「血が滲むまで噛む」だから、書かれていないから「歯」にも移っていく。さらに、もし「血が滲む」部位が「唇」なら「唇」も含んでしまう。
タケイのことばは、いくつもの「肉体(の部位/器官)」を移動しながら「声」になろうとうごめいているのだ。「感覚」は「ひとつ」に統合されない。そして、この動きが、私には何か、タケイが「肉体」のあらゆるところに放火しているような感じにも思えるのだ。とても危険で、何かしらとても魅力的なのだ。危ない感じがあって、ぞくぞくしてしまうのである。
タケイはいったい何をめざしているのか。タケイのことばは、いったい何になろうとしているのか。よくわからないが、次の4行を強引に「論理化」できるかもしれない。
「水脈」の後ろの方である。「声」がわりと聞き取りやすい。
ある「もの」が「肉体」の「ある部位(器官)」を「経由」して、「別の部位(器官)」に接近する。そのとき、「肉体」を「経由」してきた「もの」は、「第三の肉体の部位(器官)」で何かを見るのだ。
何かを見るためには、新しい何かを見て、それをことば(声)にするためには、ことばは肉体の複数の部位(器官)を「経由」しなければならない。複数を経由することで、ことばは複数の肉体に汚れ、同時に、その複数を渡り歩くだけの力を蓄え、何かを強靱にする。その、強靱に生まれ変わった力が、新しい何か、「第三の存在」を「ことば」にする。それが、詩。
その「答え」をタケイは、いま、その「疑問形」でとらえている。まだ「声」にはなっていないのかもしれない。でも、「声」の予感がいたることろに満ちている。噴出している。私は、そのタケイの「声」を正確には聞き取れないけれど、あ、ここに「声」が確かにあると感じる。
聞き取れないのに、感じる--この矛盾が、私がタケイの「声」を気持ち悪く感じる理由かもしれない。
タケイ・リエ『まひるにおよぐふたつの背骨』の「声」はとても不思議である。確かに、そこに「声」があるのだけれど、きのう読んだ宮尾節子『恋文病』のように、その「声」は明瞭には聞こえてこない。美しく聞こえてこない。とても濁っている。「喉」を感じない「声」である。
言い換えると、--詩で言い換えるとむずかしいので「声楽」で言い換えると、たとえばパバロッティの声を聞くと、こんなふうに歌えたら気持ちがいいだろうなあ、という欲望が生まれる。肉体がパバロッティの「喉」に反応する。「喉」を中心とした「肉体」に反応する。あまりいい表現ではないかもしれないが、パバロッティの声には、ひとつの「理想」がある。「望ましい声」がある。その「声」と一体になるとき(なれるとしたら、ということだが……)、とても気持ちがいいだろうなあ、と感じる。あんなふうに声を張り上げて歌ってみたい、という欲望が生まれる。
タケイ・リエの「声」は、なんといえばいいのか、そういう「望ましい声」ではないのだ。宮尾節子の「声」にも、ある種の「望ましい」感じがあるが、タケイ・リエの「声」にはそういうものが、ない。少なくとも私にはないように感じられる。聞き苦しい。聞いていいて、とても「肉体」が苦しくなる。
たとえば詩集の巻頭の「karman」。
指になじんだひとつの
熟れた葡萄を荒れた息で弾く
育った毛を両腕で押さえこみ
うつ伏せに暮れはじめて
感嘆符を血が滲むまで噛んでいる
何が書いてあるか、よくわからない。そのよくわからないことが、「指」「息」「毛」「両腕」「血」という「肉体」を指すことばをとおって動く。「弾く」「押さえこみ(押さえこむ)」「うつ伏せ(うつ伏せる)」「噛む」という「肉体」の動きをしめす動詞をとおって動く。そうすると、そのことばを「声」がとおるとき、私の肉体の「「指」「息」「毛」「両腕」「血」がざわめく。「弾く」「押さえこみ(押さえこむ)」「うつ伏せ(うつ伏せる)」「噛む」という「動作」につながる「肉体の内部(神経?)」もざわめく。ざわめくが--はっきりした何かに結晶しない。
違和感だけが残る。そして、これが実に気持ち悪い。困ったなあ、と思うのである。
ただし。
この「困ったなあ」が曲者なのである。いやだなあ、嫌いだなあ、と思いたいのだが、何か「肉体」の内部の何かが引き込まれてしまう。
また「歌」の例を出すと、昔(30-40年ほど前)西川峰子という歌手がいた。とても泥臭い、いやーな声の歌手だった。いやな声なのだが、肉体の内部に届いてくる。気持ち悪いのだけれど、私のなかにいやな部分と共鳴しているのだと思う。
タケイ・リエの「声」は、たとえて言えばそんな感じなのだ。だから、困るのである。拒絶したいが、拒絶したいという気持ちのバリアを突き破って、「声」が私の「肉体の内部」に届いてしまう。「肉体の内部」がつかまれてしまう。「喉」とか「鼓膜」という「一部」ではなく、先に引用した詩で言えば、「指」「息」「毛」「両腕」「血」をとおって、まだことばにされていない「肉体の内部」がつかみとられてしまう。遠くで、その「共鳴音」が聞こえるのだ。
これは、いったい、どういうことなのだろう。
「声(ことば)」は、たぶん、「肉体」をとおるとき、ふつうは「ひとつ」の「部位(器官)」をとおる。「ひとつ」の「感覚」をとおる。「肉体の部位(器官)」と「感覚」がきちんと結びついたとき、「声」は透明になる。たとえば、指が葡萄の丸みにふれ、その形のなめらかさを感じるとき、「指」と「触覚」がきちん結びつき、理解しやすいものになる。「葡萄に指でふれると、その丸みのなめらかさがわかった」という具合。
タケイのことばは、そういう具合に動かない。
指になじんだひとつの
熟れた葡萄を荒れた息で弾く
「指」のなかでことばは完結せず(声にならないまま)、「息」で弾くという動きに映ってしまう。「息」のなかには「口」や「喉」もふくまれるかもしれない。その「息」の力で葡萄を弾くとき、「指」はどこへいった? 「指」は何をして、何を感じた? それは語られない。ことばにならないまま、「指」のなかに封印されている。とじこめられている。で、そのとじこめられたものが「見えない」状態なら、まあ、気持ち悪くはないのだが、1行目を読んでしまっているので、私は、「指」が感じるはずの何かがとじこめられている、ことばにならないうちに、次の行にいってしまっていると感じ、とても不思議な気持ちになる。ことば、声がとじこめられたまま、「指」が存在していると感じる。
気持ち悪さ--というのは、そのとき、「指」だけが見えて、「指」の「声」がきこえない。「指」がつかみとったものが「ことば」になっていないということだ。そして、ことばになっていないくせに、そこにはことばにならなかったゆえの、「聞こえない声」(不透明な声)が響いている。
しかも。
それは「指」なのかだけではないのだ。「指」のなからだけなら、「声」は聞こえたことになる。「指」のなかで「声」になるべきだった何かが、「息」に移っていき、さらに「毛」や「両腕」「血」へと移っていく。「血が滲むまで噛む」だから、書かれていないから「歯」にも移っていく。さらに、もし「血が滲む」部位が「唇」なら「唇」も含んでしまう。
タケイのことばは、いくつもの「肉体(の部位/器官)」を移動しながら「声」になろうとうごめいているのだ。「感覚」は「ひとつ」に統合されない。そして、この動きが、私には何か、タケイが「肉体」のあらゆるところに放火しているような感じにも思えるのだ。とても危険で、何かしらとても魅力的なのだ。危ない感じがあって、ぞくぞくしてしまうのである。
タケイはいったい何をめざしているのか。タケイのことばは、いったい何になろうとしているのか。よくわからないが、次の4行を強引に「論理化」できるかもしれない。
「水脈」の後ろの方である。「声」がわりと聞き取りやすい。
眠っている土の湿り気が上がってくる
あしうらを経由して
眉間をめざしてくる
その第三の目で何が見えるの
ある「もの」が「肉体」の「ある部位(器官)」を「経由」して、「別の部位(器官)」に接近する。そのとき、「肉体」を「経由」してきた「もの」は、「第三の肉体の部位(器官)」で何かを見るのだ。
何かを見るためには、新しい何かを見て、それをことば(声)にするためには、ことばは肉体の複数の部位(器官)を「経由」しなければならない。複数を経由することで、ことばは複数の肉体に汚れ、同時に、その複数を渡り歩くだけの力を蓄え、何かを強靱にする。その、強靱に生まれ変わった力が、新しい何か、「第三の存在」を「ことば」にする。それが、詩。
第三の目で何が見えるの
その「答え」をタケイは、いま、その「疑問形」でとらえている。まだ「声」にはなっていないのかもしれない。でも、「声」の予感がいたることろに満ちている。噴出している。私は、そのタケイの「声」を正確には聞き取れないけれど、あ、ここに「声」が確かにあると感じる。
聞き取れないのに、感じる--この矛盾が、私がタケイの「声」を気持ち悪く感じる理由かもしれない。
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