詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中清光『三千の日』

2011-11-11 23:59:59 | 詩集
田中清光『三千の日』(思潮社、2011年10月31日発行)

 八柳李花『サンクチュアリ』を読んだとき、私は「はざま」ということばにひかれた。八柳の思想(肉体)は「はざま」ということばといっしょに動いていると感じた。その「はざま」を、田中清光は「繋ぐ」ということばで書き表わしている。『三千の日』を読み、そう思った。
 「繋ぐ」は「ひらけ」という詩に書かれている。

この世という断片 断片の集積
繋ぐのは言葉か 感情か
消滅する物質 記憶 を繋げるか
世界像をつくりえないままに いつか創造の原初からはなれ
歌ってきた月 収穫(とりいれ)のための種子 惑星のめぐりの宙の青さ

 「はざま」は八柳にとっては、実は存在しないものだった。存在しないから、ことばで作り上げていく。ことばで「はざま」をつくり、「はざま」をより具体的にしていくことが詩であった。
 田中にとっとは「はざま」は最初から存在する。「断片」は「断片」自身として存在するのではない。「断片」が「断片」であるためには、それは「分離」していないといけない。その「分離」が「はざま」であり、その「はざま」を田中は「繋ぐ」。つまり、接近させる。
 八柳と田中はまったく逆のことをしているのだが、逆だからこそ、どこかでぴったりと重なる。「はざま」と「繋ぐ」ということばで、それは重なりあう。

 田中のことばで、私が、はっと驚いたのは、「繋ぐ」と同時に、「感情」である。

繋ぐのは言葉か 感情か

 こう書くとき、「言葉」と「感情」は同義のものだと思うが、八柳の詩に「感情」ということばはでてきたっけ? 読み返して調べないとはっきりしたことは言えないのだが、印象に残っていない。八柳は「はざま」を「感情」で埋めるのだが(あるいは「はざま」を「感情」で耕すのだが)、「感情」を生きているからこそ(書いているからこそ)、そこから「感情」ということばが欠落する。つまり「感情」を別なことばで言いなおしたのが八柳の詩である。
 では、「感情」ということばをつかっている田中は「感情」を書いていないのか。
 書いていない--と言い切ってしまうと、たぶん激しい「誤読」になってしまうのだが、私は、あえて書いていないと言いたい。
 田中が「感情」ということばで書いているのは、私のことばで言いなおせば「意味」である。田中にとって「感情」はすべて「意味」なのだと思う。「感情」は田中ひとりの「肉体」のなかにとどまらず、他人へとつながっていく。そして、その「繋ぐ」とき「感情」は「感情」をこえた「何か」になっている。
 「悲しい」はたとえば「戦争反対」という「意味」になることで、田中と他人を「繋ぐ」。田中のことばは、「他人」と「繋がる」ためにある。「言葉」は「意味」であり、「意味」になることで、「他人」と共有される。

 八柳のことばも「他人」と共有されることで「詩」になるが--たぶん「意味」にはならない。「意味」を「解体」し、「はざま」(繋がりを欠いた領域)をただ広げるだけである。「繋がらない」ということで、八柳は他人と出会う。
 田中は他人と出会うだけではなく、どうしても「繋がる」ことを欲望するのだ。「繋がりたい」。「意味」になりたい。

 余分なことを書きすぎたかもしれない。--だんだん、最初に書こうと思っていたことと違ったふうに書いてしまっている。もう、戻ることはできないので、違う形で書き直してみる。(私はいつでも最初に書こうと思っていたこととは違ったことを書いてしまう癖がある。)



繋ぐのは言葉か 感情か 

 このとき「言葉」は「感情」と同義である。(ここだけ、私が最初に書いたことを繰り返してみる。)
 では、どうしたら「言葉」は「感情」になり、「感情」は「言葉」になるのか。
 これは、難しい。
 「感情」を「言葉」でつくりだし動かしていく、そのとき「言葉」の動きが詩であるのか、あるいは「言葉」で「感情」をつくりだして動かすとき、それが詩なのか。「新しい感情」の誕生が詩なのだ。
 そうではなく、その往復が詩なのだ。
 --というようなことは、全部「意味」であるような気がする。
 田中は「意味」の詩人であり、その「意味」にひっぱられて、私も「意味」の感想を書いてしまう。

 でも、「意味」とは何?
 八柳のことばとの対比で少し考えたが、そのことはいったん打ち捨てて、あらためて考えてみる。
 「意味」とは何か。

幾時代を過ぎても 韻律と連れ立つ言の葉が
生き永らえ
我らの犯してきた数多くの過誤--
だが発生の現場というものに立ち
物質の無について語ってきたか
もっとも純粋に近い
思考を眼覚めさせてきたか

見えない巨大な塔
砂でできた都会
そこでは無とはすでに絶対として反言語であり
そこからすべての生命と死とは
影となる                           (「ひらけ」)

 ここには「意味」は定義されていない。「意味」ではないものが「定義」されている。「意味とではないもの」とは「反言語」である。
 言葉=感情(意味)であるとき、意味ではないものは「反言語」である。
 そして「反言語」=「無」という定義に従うなら、「意味」とは「無」の対極にあるものになる。
 「無」の対極。それは「物質」か。そうではない。「発生」である。
 「発生」するものが、「意味」である。
 だから。
 「言葉」で「意味」を「発生」させる。「言葉」で「感情」を「発生」させる。
 --田中は、この詩で、田中の詩を定義しているのである。
 「言葉」で「意味(感情)」を「発生」させる。つまり、生き生きと動き回る状態にさせる。そして、その「意味(感情)」をエネルギーとして、「言葉」をより鍛練していく。その往復運動。それが、詩、である。

 あ、でも、こういうことを書いても感想にはならないなあ。
 田中が実際に、どんな「断片」を「繋ぎ」、その「言葉」によってどんな「意味」をつくっていったのか(生み出したのか)、それについて書かないと感想を書いたことにはならないなあ。
                             (あすに、つづく。)



田中清光詩集 (Shichosha現代詩文庫)
田中 清光
思潮社
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フェルザン・オズペテク監督「あしたのパスタはアルデンテ」(★★★)

2011-11-11 23:17:47 | 映画
監督 フェルザン・オズペテク 出演 リッカルド・スカマルチョ、ニコール・グリマウド

 家族がゲイだったら……というのは、もう珍しいテーマではない。どう乗り越えるかといっても、まあ、受け入れるしかない。
 この映画で魅力的なのは、おばあさんである。ほんとうは結婚相手である男の弟が好きだった。けれど人の(たぶん両親の)望みにしたがって兄の方と結婚した。そして、いつまでもいつまでも弟のことを思っている。かなえられない恋--それは消えることがない。思いは、いつまでも消えない。
 この苦悩、この悲しみが、他者へのあたたかい理解へとかわる。恋する人間を責めない。それを台詞ではなく、まなざしで表現する。ゆったりとした肉体の動きで表現する。それが、この映画の基底を支えている。
 それにしても--。このおばあさんと、冒頭のシーン、あるいはときどき挿入される思い出のシーンの「花嫁(おばあさんの若いとき)」が、そっくり。まるで、若い女優が老人になるのを待って撮ったのではと思わせるくらいそっくりなのである。メイクによって似るようにしているのだろうけれど、それにしても「親子」以上にそっくりなのである。そして、それゆえに、この映画が説得力をもつのである。
 このおばあさんのなかに、いつまでもあの若い女性の悲しみと、またよろこびがあるのだとわかる。それは「記憶」ではなく、「いま」なのである。おばあさんの「人の望みにしたがって生きるのはつまらない」「かなえられない恋は消えない(思いは消えない)」というせりふが、「ことば」ではなく「肉体」として伝わってくる。おばあさんは、思い出として、そのことを語っているのではない。「いま」の自分の問題として語っているのである。
 だから、主人公の「いま」とも重なる。ひとのこころが重なるのは、「いま」が重なるのである。
 これは主人公とプラトニックな恋に落ちる若い女性についても言える。パスタ工場の合併相手の責任者(?)なのだが、彼女には、人に語れない悲しみがある。一時期精神が不安定だったのだ。いまでも、気に食わないだれかの車に平気で傷をつけて復讐したりする。だから、人の目が気になる。どこかで、自分を隠している。抑えている。--自分を隠しているからこそ、彼女は、主人公が自分を隠していることを見抜く。ゲイであり、それを他人に隠していることを見抜く。
 この「いま」の重なり、「いま」の融合というのは、なかなかむずかしい。だれでも家族なら理解し合わなければいけないとはわかっている。けれど、それができないときがある。それぞれの「過去」というか、「過去-いま」の「時間」が違っているからである。同じ「いま」を生きているようでも、ほんとうはそれぞれの「過去」を生きている。
 たとえば主人公の男の父親は、男はマッチョであらねばならないという「過去」の「男性像」を生きている。ゲイなんて、嘲笑の対象である。(途中で、ゲイを題材にしたジョークが出てくる。父親のお気に入りである。)母親も、やはり「男はゲイであってはならない」という「過去」にしばられている。両親は「いま」を生きているようでも、実は「過去」を生きている。息子たちとは違った「過去-いま」という時間を生きている。その「いま」は出会いはしても、重ならない。
 この重ならない「過去-いま」が「いま」として重なるためには、めんどうくさいが、やはり「時間」がかかる。「いま」のなかに、「過去」をていねいにつないでみせる「時間」が必要なのだ。他人の「過去」は、そのひとにしかわからない。その「過去」をわかってもらうには「時間」がかかる。「過去」が、そうやってわかる(理解される)というは、矛盾した言い方になるが「過去」が消えるということでもある。「過去」は死んでしまい、「いま」だけが「ここ」にある。
 それを象徴するように、おばあさんが死ぬ、そしてその葬式で家族が「ひとつ」にもどるシーンが最後に描かれる。このときのおばあさんの死も、とってもいいなあ。糖尿病なのだろう。甘い菓子は禁じられている。けれど、おばあさんは最後に大好きな大好きなケーキを着飾って、化粧して、むしゃぶりついて、死ぬ。「甘いものを食べたい」という「望み」を残して、ではなく、完全に消化して、死ぬ。それは「生きる」ということと同じである。「死にざま」とは「生きる」ことである--とあらためて思った。

 という哲学(?)を、この映画は、イタリアっぽくというのだろうか、明るく、笑いとともに描いて見せている。女性のファッションに詳しい、ダンスが好き、おもしろいことをすぐにコピーして笑いのなかで共有するというゲイの風俗(?)をちりばめて「娯楽」にしたてている。主人公の恋人、友人がローマから押しかけてきてのドタバタがとても楽しい。ノイズっぽい声の「5000の涙……」という歌もなかなか味があるなあ、と思った。

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