詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫『あなたの前に』

2011-11-06 23:59:59 | 詩集
林嗣夫『あなたの前に』(ふたば工房、2011年09月20日発行)

 林嗣夫『あなたの前に』は「ことば」をテーマに書かれた詩が多い。「あなたの前に」は、その「総括」のような作品である。

一般的な「グラス」そのもの、というようなものは
この世のどこにもない
と、ものの本に書いてある
仕事のあとのそれにビールをついでぐいぐいと飲む時
初めてそれは「グラス」として立ち現われるのだ、と
飲む前から「グラス」だったのではない、と
もしぱんと割って破片で人に切りつけたら
その時「グラス」ではなく「凶器」として立ち現われる
水を少し注いで箸でぴんとたたいたら
それは小さな「楽器」として立ち現われる
そのような行為(関係)から離れて
一般的な「グラス」そのものなんてどこにもない、と

 この場合「ことば」は「名前」である。--と、書いた瞬間、私は、いままで書こうとしていたこととまったく別なことを思いついてしまったのだが、それはあとにして、とりあえず書こうと思っていたことを先に書いておく。
 林がここで紹介しているのはだれの考えかよくわからないけれど、林はそれを自分にあてはめて点検しようとしている。そこに、不思議な、林の正直があらわれている。
 もし、「グラス」そのものというものがこの世にないのだとしたら、「林嗣夫」はどうか。

「林嗣夫」なんてこの世のどこにもない
と、ものの本に書いてある
(略)
一つ一つの行為(関係)に先立つ「林嗣夫」なんて
ほんとうはどこにもないんだ、と
では
水を飲む前のわたしは
何だったのだろう
無辺に散らばる水素の類か
うっすらとこの世をさまよう千の風、
だったのか

まあそれはそれでいいとして
でも……
とつぶやく声がどこからか聞こえてくる
か細い声が聞こえてくる
ある日
ほかでもないあなたの目の前に
くっきりとしたわたしの姿で
わたしの新しい名で
立ち現われたい、と
これはものの本には書いてない

 だれかのいったことを否定はしない。そこに書かれていることを受け入れる。そのうえで、異義をとなえる。
 林は、行為(関係)で「林嗣夫」になるのだとしても、「あなた」の目の前に立つ時と、そういう「一般的(?)」な行為・関係によって「意味」づけられた林ではなく、まだ「意味」づけられていないひとりの人間でありたい--と願っている。その願いは、本には書いてはない。
 「新しい名」とは、それまでの行為(関係)とは、別の行為(関係)である。だからこそ、「新しい名」が必要になる。「あなた」だけにとっての「名」が必要になる。そういう「名」でありたい。
 この「名」は行為(関係)を含む。したがって「新しい名」とは、「新しい行為(関係)」に他ならない。
 まだ、だれも行為していない行為、関係をつくっていない関係--それを文学の用語では「詩」という。それは「新しいことば」でもある。それまでの「意味(行為/関係を説明するもの)」を超えた「ことば」。
 --こんなふうに、あくまで、他人の論理に従いながら、その論理をところまで、ことばを動かしていく。そして、それを「詩」にする。
 論理を守ることで、論理を超越する。そうして、その「超越」を「詩」の運動とする。超越するまで、ていねいにていねいにことばを追う--その正直さが、とても美しい形で結晶している作品である。

 林の詩が、美しく、しかも落ち着いて感じられるのは、たぶん、この論理をきちんと守ることばの運動に負うところが大きい。論理は、美しいし、その論理を超える運動はなお美しい。
 --ということを、私は、林の詩集を読みながら書きたいと思っていた。(ほんとうはもっとていねいに書きたいと思っていた。)そして、実際に、そんなふうに大急ぎで書いたのだが……。

 この場合「ことば」は「名前」である。--こう書いた時、つまり、林の詩の感想を書きはじめた時、私は、実は書き間違えている。ふと思いついたことに黄をとられて、ことばが走ってしまい、大切な何かをいくつも落としている。
 ほんとうは、この詩の場合、林がテーマととしている「ことば」とは「ものの名前」のことである。--と書かないと、「グラス」というある「ものの名前」のことへと論理はつながっていかない。
 「もの」には「名前」がある。たとえば「グラス」という「名前」がある。けれど、その「名前(ことば)」は行為(関係)によってかわるというのが「本」に書かれていることである。その論理をあてはめると「林嗣夫」という「ひとの名前」はどうなるか……と林は考え、その論理を超えてみせた--というのが、きっと正しい(?)書き方である。それは

この場合「ことば」は「名前」である。

 と書いた瞬間に気がついたのだが、どうしても直せなかった。直していると、ことばがぐずぐずして進まないからである。で、間違えたまま、私はことばを動かした。
 --と、ことわって、これからほんとうに書きたかったことを書く。たぶん林のことばの運動を離れてしまう。いきなり林のことばの運動を離れてことばをうごかせば、林の詩の感想にはならない。だから、私は、あえて間違いを知っていて、そう書いたのだ。(と、同じことを、私はくりかえしているね。)

 私が書きたかったこと。

 林はなぜ「ものの名前」(グラス)について書かれていることを信じてしまったのだろうか。
 「ものの名前(ことば)」が行為(関係)よって変化する、流動的なものである、というはたしかに正しいかもしれない。けれど、この論理には、ひとつ、とても変なところがある。いや、論理に変なところがある、のではなく、その論理を点検するにあたって、林が「グラス」のかわりに「林嗣夫」をもってきたところが変であるというべきか……。
 「ことば」には大きくわけて種類が二つある--と国語の先生(たしか林は国語の先生だったと思う)に私がいうようなことではないのだが……。
 その二つとは「体言」と「用言」。簡単に言いなおすと、ことばには「主語」と「述語」があり、その二つが組み合わさって文になる。
 で、そのとき、つまり林がだれかの論を点検するとき、林は「主語(体言)」を入れ換えて点検しているが、なぜ「述語」を入れ換えて点検しなかったのか、という疑問が、私を突然襲ってきたのである。
 
 これは、林を責めているのではない。

 不思議なことだが、私たちは、おうおうにして「主語」を入れ換えることで「詩」をつくっている。「主語」を「比喩」によって入れ換えることで「詩」をつくっている。
 たとえば「石灰」という詩では、石灰を「女性の肌」という「比喩」によって「詩」にしている。畑仕事をしていて、石灰をまこうとして、袋の中に手を入れた瞬間、石灰ではなく「女性の肌」に触れた--そう書くことから、詩が始まっている。
 「主語」を「比喩」によって入れ換える。そのあとで、「述語(用言)」をととのえ直していく。

なんとういなめらかな存在だろう
つかみ直しても指から流れ去っていく軽やかさ
さらに押さえると物質の重い密度
空(くう)であり 色(しき)であるもの

 「主語」はさらに「物質の重い密度」にかわり、「空」にかわり、「色」にかわる。それにあわせて「述語(用言)」がかわっていくのだが、そうして、こういうことばの運動を私たちは(私は、と限定すべきか)、詩と感じているのだが……。

 もしかすると、私たち/私は、たいへんな「罠」に陥っていないだろうか。
 「主語」を変えて点検するのではなく、「述語」を変えて点検し、「述語」の変化を「主語」に反映させない時、ことばはどうなるか--それを点検しないといけないのではないか。
 もっと言うなら、
 行為(関係)がかわるとき、「ものの名前」は変わる。つまり、あのときは「グラス」、あるときは「凶器」というふうに、「ものの名前」は変わる。
 という「述語」のありよう、そのものを点検しないといけないのではないだろうか。
 
 言いなおすと。

 私たち/私は、なぜ、その「述語」を信じてしまったのだろうか。
 「述語」の運動、「用言」の運動には、何か、私たち/私が見落としているおそろしいものがないだろうか。
 ある「述語」の運動、「用言」の運動を私たち/私が正しいと信じるとき、その「正しい」の根拠は何なのか。
 林の詩の向こう側から、その暗い声が聞こえてくる。考えよ、と迫ってくる。

 --これは、林の作品に対する直接的な感想ではない。けれど、直接的な感想以上に、林のことばが私に強く影響して動いていることばかもしれない。





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林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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