宮尾節子『恋文病』(微風通信、2011年09月13日発行、精巧堂出版発売)
宮尾節子『恋文病』は非常に読みやすい。ことばを「目」ではなく、「喉」で書いている。「耳」、というより、も。
「いいよ」という作品。
子どもが成長し、宮尾を「踏み台」にして、家を出ていく。親離れしてしまう。そのときの気持ちを書いているのだと思う。
「こころの垣根」という比喩、そしてそれにつづいて宮尾と子どもとの関係が抽象的に書かれている。この、比喩と抽象が、すぐに「猫のおしっこや 花や/土のにおいが近づく」という具体的なものによって乗り越えられる。このタイミングというのか、スピードがとてもいい。そのあとの「なつかしい/このひくさを/からだが覚えている」もすばらしい。
「このひくさ」の「ひくさ」は「垣根」よりももっと抽象的である。「垣根」はまだ「具体的なもの」をつかった比喩だが、「ひくさ」は概念である。けれど、その抽象的な概念が、すっーと「肉体」へ入ってくる。
「からだが覚えている」と宮尾は書いているが、その「からだ」と「覚えている」の関係が親密である。しっかりしている。「頭」で覚えているのではなく、「からだ」が覚えている。「からだ」が知っている。「からだ」がわかっている。
子どものとき、自分が土台になるようにして育てた。(背負って、育てた--というのは、「からだ」が覚えている感覚である。)その子どもがいま自分を乗り越えていく。それを宮尾は「頭」ではなく、「からだ」で感じる。
その「からだ」は、「猫のおしっこや 花や/土のにおい」ということばのなかでは「におい」とともにある。嗅覚だ。この「頭」から「からだ」そのものの感覚への広がりがとても自然だ。
そして、その「におい」が「地面」に近い場所と結びついて、それが「ひくさ」にかわるところ。「ひくさ」とひらがなで書いているところ--そこに、この詩人の良質な部分が結晶している。(直前には「こころの垣根を/低くして」と漢字で書いている。)
「頭」ではなく、「からだ」でことばを動かしている。(「肉体」で、と私はいつも書いているのだが、きょうは宮尾のつかっている「からだ」を借りて書いておく。)
この「からだ」でことばを動かすということは、「音」にも反映している。それも耳で聞いて感じる音ではなく、声に出すことよって生まれる音(変な書き方だね)、喉にむりのない音--。たぶん、宮尾は、話すときにつかうことば、喉をとおることばしか書かないのである。ことばが喉をとおるとき、そのことばは「からだ」を駆け回って、それから「頭」へやってくる。ことばと「喉」とは密着しているが、ことばと「頭」はちょっと距離がある。「間」がある。その「間」を、なんといえばいいのだろう、こころが埋める。こころとは、「からだ」のすみずみ、感覚のすみずみ、ということかもしれない。この詩で言えば、「におい」を感じる鼻をとおって、「いいよ」ということばが「いいよ」になる。子どもの「土台」になりうる力を持つ。
ことばの動きをもう一回整理すると、
ということになるが、この「間」としての「(こころ(からだ)」は、一種のクッションのようなもの。クッションといっても、そのクッションが受け止めるのは、「こころ(からだ)」そのものなのだけれど。つまり、一人二役をしているようなものなのだけれど。
あ、こういうこことは説明がむずかしいのだけれど、その一人二役のなかで、なにかが往復する。それこそ「こころ」が「からだ」になって、「からだ」が「こころ」になってという往復をする。この往復を「矛盾」といってもいいかもしれない。(混沌、というと哲学的になりすぎるかな?)
この「よくない」と「いいよ」の往復。何度も往復し、「こころ」と「にくたい」をなじませる。そして「いいよ」ということばを最後に選び出す。「それでも いいよ」の「それでも」には、「こころ」と「からだ」を往復した「かなしみ」が小さな傷になって残っている。「それでも いいよ」は「それじゃないほうが、もっといい」ということなのだが、そのほんとうはいいたいことばを「からだ(喉の奥)」にしまいこむ。
自分のいいたいことを、ぐいと飲み込み、喉の奥にとどめる。その「からだ」の動きが「こころの垣根を/低くして/きみを受け入れる」ということなのだ。
「こころ(の垣根)」を低くするとは「からだ」を低くする--地面に近づける、しゃがむということと重なる。だから、そのあと「地面」が自然にことばになる。猫のおしっこ、花、土のにおいが、そのまま「からだ」に入ってくる。
その「からだ」が覚えている「ひくさ」を、宮尾は「なつかしい」とも呼んでいる。これは、単に「土」が「なつかしい」のではなく、自分の「からだ」そのものがなつかしいのである。自分の「からだ」のなかにあった「力」を、宮尾は再発見しているのである。もう一度、子どもの「踏み台」になれる。そんな力があったことを再発見して「なつかしい」と呼んでいる。
かなしいけれど、うれしい。
うれしいけれど、かなしい。
この「矛盾」が、この作品のなかで往復している。「頭」のなかではなく「からだ」のなかを「こころ」となって動いている。ことばが「喉」をとおることで、その往復が、「からだ」そのものの厚みになる。
声に出してみるとわかる。喉がどんなふうに動くか、ためしてみると、わかる。
宮尾節子『恋文病』は非常に読みやすい。ことばを「目」ではなく、「喉」で書いている。「耳」、というより、も。
「いいよ」という作品。
よくない
いいわけがない
のに
いいよ という
いいよ
それでも いいよ
こころの垣根を
低くして
きみを受け入れると
猫のおしっこや 花や
土のにおいが近づく
なつかしい
このひくさを
からだが覚えている
しゃがんで背負った
小さな おまえを
いいよ
こんどは
越えて行かせるために
子どもが成長し、宮尾を「踏み台」にして、家を出ていく。親離れしてしまう。そのときの気持ちを書いているのだと思う。
「こころの垣根」という比喩、そしてそれにつづいて宮尾と子どもとの関係が抽象的に書かれている。この、比喩と抽象が、すぐに「猫のおしっこや 花や/土のにおいが近づく」という具体的なものによって乗り越えられる。このタイミングというのか、スピードがとてもいい。そのあとの「なつかしい/このひくさを/からだが覚えている」もすばらしい。
「このひくさ」の「ひくさ」は「垣根」よりももっと抽象的である。「垣根」はまだ「具体的なもの」をつかった比喩だが、「ひくさ」は概念である。けれど、その抽象的な概念が、すっーと「肉体」へ入ってくる。
「からだが覚えている」と宮尾は書いているが、その「からだ」と「覚えている」の関係が親密である。しっかりしている。「頭」で覚えているのではなく、「からだ」が覚えている。「からだ」が知っている。「からだ」がわかっている。
子どものとき、自分が土台になるようにして育てた。(背負って、育てた--というのは、「からだ」が覚えている感覚である。)その子どもがいま自分を乗り越えていく。それを宮尾は「頭」ではなく、「からだ」で感じる。
その「からだ」は、「猫のおしっこや 花や/土のにおい」ということばのなかでは「におい」とともにある。嗅覚だ。この「頭」から「からだ」そのものの感覚への広がりがとても自然だ。
そして、その「におい」が「地面」に近い場所と結びついて、それが「ひくさ」にかわるところ。「ひくさ」とひらがなで書いているところ--そこに、この詩人の良質な部分が結晶している。(直前には「こころの垣根を/低くして」と漢字で書いている。)
「頭」ではなく、「からだ」でことばを動かしている。(「肉体」で、と私はいつも書いているのだが、きょうは宮尾のつかっている「からだ」を借りて書いておく。)
この「からだ」でことばを動かすということは、「音」にも反映している。それも耳で聞いて感じる音ではなく、声に出すことよって生まれる音(変な書き方だね)、喉にむりのない音--。たぶん、宮尾は、話すときにつかうことば、喉をとおることばしか書かないのである。ことばが喉をとおるとき、そのことばは「からだ」を駆け回って、それから「頭」へやってくる。ことばと「喉」とは密着しているが、ことばと「頭」はちょっと距離がある。「間」がある。その「間」を、なんといえばいいのだろう、こころが埋める。こころとは、「からだ」のすみずみ、感覚のすみずみ、ということかもしれない。この詩で言えば、「におい」を感じる鼻をとおって、「いいよ」ということばが「いいよ」になる。子どもの「土台」になりうる力を持つ。
ことばの動きをもう一回整理すると、
喉→こころ(からだ)→頭。
ということになるが、この「間」としての「(こころ(からだ)」は、一種のクッションのようなもの。クッションといっても、そのクッションが受け止めるのは、「こころ(からだ)」そのものなのだけれど。つまり、一人二役をしているようなものなのだけれど。
あ、こういうこことは説明がむずかしいのだけれど、その一人二役のなかで、なにかが往復する。それこそ「こころ」が「からだ」になって、「からだ」が「こころ」になってという往復をする。この往復を「矛盾」といってもいいかもしれない。(混沌、というと哲学的になりすぎるかな?)
よくない
いいわけがない
のに
いいよ という
いいよ
それでも いいよ
この「よくない」と「いいよ」の往復。何度も往復し、「こころ」と「にくたい」をなじませる。そして「いいよ」ということばを最後に選び出す。「それでも いいよ」の「それでも」には、「こころ」と「からだ」を往復した「かなしみ」が小さな傷になって残っている。「それでも いいよ」は「それじゃないほうが、もっといい」ということなのだが、そのほんとうはいいたいことばを「からだ(喉の奥)」にしまいこむ。
自分のいいたいことを、ぐいと飲み込み、喉の奥にとどめる。その「からだ」の動きが「こころの垣根を/低くして/きみを受け入れる」ということなのだ。
「こころ(の垣根)」を低くするとは「からだ」を低くする--地面に近づける、しゃがむということと重なる。だから、そのあと「地面」が自然にことばになる。猫のおしっこ、花、土のにおいが、そのまま「からだ」に入ってくる。
その「からだ」が覚えている「ひくさ」を、宮尾は「なつかしい」とも呼んでいる。これは、単に「土」が「なつかしい」のではなく、自分の「からだ」そのものがなつかしいのである。自分の「からだ」のなかにあった「力」を、宮尾は再発見しているのである。もう一度、子どもの「踏み台」になれる。そんな力があったことを再発見して「なつかしい」と呼んでいる。
かなしいけれど、うれしい。
うれしいけれど、かなしい。
この「矛盾」が、この作品のなかで往復している。「頭」のなかではなく「からだ」のなかを「こころ」となって動いている。ことばが「喉」をとおることで、その往復が、「からだ」そのものの厚みになる。
声に出してみるとわかる。喉がどんなふうに動くか、ためしてみると、わかる。
いいよ
それでも いいよ
かぐや姫の開封―宮尾節子詩集 | |
宮尾 節子 | |
思潮社 |