榎本櫻子「蜜柑の樹になる一角獣」(「さくらこいずビューティフルと愉快な仲間たち」4、2011年11月01日発行)
榎本櫻子「蜜柑の樹になる一角獣」は、きのう読んだ金子鉄夫「ゴッホ」と同じように、「意味」を求めても何もみつからないだろうと思う。「意味」はそこに書かれたことばの「全体」からは見えて来ない。(と、私は、思う。)つまり、「結論」というものがない。榎本を動かしているもの、榎本のことばが動いている「理由」は「結論」ではない。--という言い方が正確かどうかはわからない。私には「意味」がみつからないだけで、ほんとうはあるのかもしれない。私の読み方が「誤読」に偏りすぎているのかもしれない。
「意味」や「結論」ではなく、では、私は榎本のことばに何を読んでいるのか。
「微熱をおびた壁」というようなことば--それが文全体のなかでどのような「意味」を担っているのか私にはわからないが、そのことばに私は反応する。そのことば、そしてそのことばが指し示すものが、全体から独立して、そこに存在する。その「独立して存在する」という力に、私はひかれる。「意味」を破壊して(「意味」を無視して)、ただ、そこにあることば。それは文の「意味」から独立しているだけではなく、独立することで、乖離し、私のことばを刺激する。
--と書くと、何のことかわからない?
言い方を変えると、あ、このことば、もしかしたらつかえるかもしれない。いつかつかってみよう、という気持ちを私におこさせるということである。榎本の「意図」は無視して、私は私のことばのなかに、強引にそのことばを組み込み、その瞬間に生まれる「違和」を手がかりに、私自身のことばを破ってしまいたいと、ひそかに思うのである。
こういうことばがあると、私は、その詩が好きになる。詩は、ようするにことばなのだ。「意味」ではなく、「もの」のようにして、そこにある素材。それは、ある日突然、何か特別なものにかわる。ほかのことばに出会うことによって。
これはなんだろうか。たとえば、太陽に照らされ、徐々に熱を帯びてくる壁か。近くに火があるのか。あるいは、太陽が沈み、しだいに壁から日中の熱が消えていく状況なのか。--でも、こういう読み方は、つまらない。
私は「微熱をおびた壁」ということばに触れた瞬間、壁が生きていると感じた。
「微熱」は基本的には人間をはじめとして生きているものの変化である。ウィルスの侵入に肉体が抵抗するとき、熱が出る。発熱する。その熱がまだおだやかな状態が微熱。壁にはそういうことが起きない。起きないのだけれど、「微熱をおびた壁」と書いた瞬間に、それが起きてしまう。この、ことばの運動が「現実」を動かしてしまう(歪めてしまう)がおもしろいのだ。壁が人間のように、何かにおかされて、熱をもってくる。壁のなかで何かが動きはじめている。
榎本はそんなことを書きたいのではないかもしれない。--でも、私は、そう読みたいのである。
このことばもとても気に入った。特に「拡散を放射する」がいい。文字も美しいし、音も美しい。
「優しい」という屁のようなことばが冠についているのがちょっと気に食わないといえば気に食わないけれど、
では、ことばが続かない。リズムが続かない。「斑に覆われた蒸された部屋の湿り気に」が重たすぎる。その重さをいったん「優しい」で受け止め、吸収してしまわないと「拡散を放射する」というスピード感あふれることばにならない。
「優しい」に「意味」(文のなかで占める「位置」)があるとすれば、前のことばを一気に引き受け、前のことばを「無意味」にするという「意味」がある。そこで働いているのは、いわゆる「意味の経済」(どういう表現をすれば「内容」が正確につたわるか、という経済学)ではなく、どうすれば次のことばが動きやすくなるかという「ことばの運動学」、「ことばの肉体の経済学」である。
正確な「比喩」にはならないが、「優しい」は水泳で言えばクロールの「息継ぎ」のようなものなのだ。息継ぎのために顔をあげるとスピードが落ちるから、はやく泳ぐだけのためなら息継ぎをしないでがんばればいい。でも、それでは持続しない。持続のために、きちんと息継ぎをする。それは「肉体」の本能である。欲望である。ことばの肉体にもそういうものが働く。
で、こういう詩をどう「評価」するか。私は、詩のなかに、おもしろいことばがあるかどうか、で判断している。おもしろいことばが多ければ、「好き」というだけなのだ。「好き」と感じたあと、まあ、適当に「理由」を捏造する。女を口説くようなものである。最初からいいたいことがあって口説く男などいないだろう。口説きなんて、口からでまかせである。どこまででまかせをつづけられるかが、口説きの勝負どころである。
あ、余分なことを書いてしまった。
で、詩にもどる。
途中を省略して、50ページの次の行。
わくわくしない? どきどきしない? 何が書いてあるかはわからない。特に「素数の分だけ割かれた世界を往還する」はいったい何語? 日本語で書いてね、といいたいくらいだけれど、音がきれいだなあ。「素数」と「割かれた」が美しく響く。「往還」のゆったりした音と「素数」も響き合うねえ。
それに先立つ「肛門は幾何学模様で圧迫された心臓の悲鳴」が、また、むちゃくちゃでおもしろい。「肛門」と「心臓」が「幾何学模様」でつながってしまうところが、過激でかっこいい。その「幾何学模様」が「素数」と呼吸し合う。
榎本のことばには、何やら余分な皮下脂肪のようなものがたくさんあって、それがことばの筋肉をもったりさせている。シャープな印象を疎外している。けれど、これはアスリートがパフォーマンスをつづける内に、最適な肉体の形に到達するように、しだいにそぎ落とされていくものだろう。
そのときまで、私はここが好きだけれど……とだけ私は書きつづけたい。
榎本櫻子「蜜柑の樹になる一角獣」は、きのう読んだ金子鉄夫「ゴッホ」と同じように、「意味」を求めても何もみつからないだろうと思う。「意味」はそこに書かれたことばの「全体」からは見えて来ない。(と、私は、思う。)つまり、「結論」というものがない。榎本を動かしているもの、榎本のことばが動いている「理由」は「結論」ではない。--という言い方が正確かどうかはわからない。私には「意味」がみつからないだけで、ほんとうはあるのかもしれない。私の読み方が「誤読」に偏りすぎているのかもしれない。
「意味」や「結論」ではなく、では、私は榎本のことばに何を読んでいるのか。
しどけない微熱をおびた壁に浸して(なにを?)、気の抜けた炭酸水に芍薬が生けてある、斑に覆われた蒸された部屋の湿り気に、優しい拡散を放射する球面、ゆるやかに滲む霙の幻影の繊細さ、雪の筋力に喚く喫茶店の色硝子で百合を象った照明器具が、絶対的な根拠を産み戻そうとしている、という風景と石鹸とのあいだに、どのような関係があるのか、説明しなさい、
「微熱をおびた壁」というようなことば--それが文全体のなかでどのような「意味」を担っているのか私にはわからないが、そのことばに私は反応する。そのことば、そしてそのことばが指し示すものが、全体から独立して、そこに存在する。その「独立して存在する」という力に、私はひかれる。「意味」を破壊して(「意味」を無視して)、ただ、そこにあることば。それは文の「意味」から独立しているだけではなく、独立することで、乖離し、私のことばを刺激する。
--と書くと、何のことかわからない?
言い方を変えると、あ、このことば、もしかしたらつかえるかもしれない。いつかつかってみよう、という気持ちを私におこさせるということである。榎本の「意図」は無視して、私は私のことばのなかに、強引にそのことばを組み込み、その瞬間に生まれる「違和」を手がかりに、私自身のことばを破ってしまいたいと、ひそかに思うのである。
こういうことばがあると、私は、その詩が好きになる。詩は、ようするにことばなのだ。「意味」ではなく、「もの」のようにして、そこにある素材。それは、ある日突然、何か特別なものにかわる。ほかのことばに出会うことによって。
微熱をおびた壁
これはなんだろうか。たとえば、太陽に照らされ、徐々に熱を帯びてくる壁か。近くに火があるのか。あるいは、太陽が沈み、しだいに壁から日中の熱が消えていく状況なのか。--でも、こういう読み方は、つまらない。
私は「微熱をおびた壁」ということばに触れた瞬間、壁が生きていると感じた。
「微熱」は基本的には人間をはじめとして生きているものの変化である。ウィルスの侵入に肉体が抵抗するとき、熱が出る。発熱する。その熱がまだおだやかな状態が微熱。壁にはそういうことが起きない。起きないのだけれど、「微熱をおびた壁」と書いた瞬間に、それが起きてしまう。この、ことばの運動が「現実」を動かしてしまう(歪めてしまう)がおもしろいのだ。壁が人間のように、何かにおかされて、熱をもってくる。壁のなかで何かが動きはじめている。
榎本はそんなことを書きたいのではないかもしれない。--でも、私は、そう読みたいのである。
優しい拡散を放射する球面、
このことばもとても気に入った。特に「拡散を放射する」がいい。文字も美しいし、音も美しい。
「優しい」という屁のようなことばが冠についているのがちょっと気に食わないといえば気に食わないけれど、
斑に覆われた蒸された部屋の湿り気に、拡散を放射する球面、
では、ことばが続かない。リズムが続かない。「斑に覆われた蒸された部屋の湿り気に」が重たすぎる。その重さをいったん「優しい」で受け止め、吸収してしまわないと「拡散を放射する」というスピード感あふれることばにならない。
「優しい」に「意味」(文のなかで占める「位置」)があるとすれば、前のことばを一気に引き受け、前のことばを「無意味」にするという「意味」がある。そこで働いているのは、いわゆる「意味の経済」(どういう表現をすれば「内容」が正確につたわるか、という経済学)ではなく、どうすれば次のことばが動きやすくなるかという「ことばの運動学」、「ことばの肉体の経済学」である。
正確な「比喩」にはならないが、「優しい」は水泳で言えばクロールの「息継ぎ」のようなものなのだ。息継ぎのために顔をあげるとスピードが落ちるから、はやく泳ぐだけのためなら息継ぎをしないでがんばればいい。でも、それでは持続しない。持続のために、きちんと息継ぎをする。それは「肉体」の本能である。欲望である。ことばの肉体にもそういうものが働く。
で、こういう詩をどう「評価」するか。私は、詩のなかに、おもしろいことばがあるかどうか、で判断している。おもしろいことばが多ければ、「好き」というだけなのだ。「好き」と感じたあと、まあ、適当に「理由」を捏造する。女を口説くようなものである。最初からいいたいことがあって口説く男などいないだろう。口説きなんて、口からでまかせである。どこまででまかせをつづけられるかが、口説きの勝負どころである。
あ、余分なことを書いてしまった。
で、詩にもどる。
途中を省略して、50ページの次の行。
肛門は幾何学模様で圧迫された心臓の悲鳴、素数の分だけ割かれた世界を往還する
わくわくしない? どきどきしない? 何が書いてあるかはわからない。特に「素数の分だけ割かれた世界を往還する」はいったい何語? 日本語で書いてね、といいたいくらいだけれど、音がきれいだなあ。「素数」と「割かれた」が美しく響く。「往還」のゆったりした音と「素数」も響き合うねえ。
それに先立つ「肛門は幾何学模様で圧迫された心臓の悲鳴」が、また、むちゃくちゃでおもしろい。「肛門」と「心臓」が「幾何学模様」でつながってしまうところが、過激でかっこいい。その「幾何学模様」が「素数」と呼吸し合う。
榎本のことばには、何やら余分な皮下脂肪のようなものがたくさんあって、それがことばの筋肉をもったりさせている。シャープな印象を疎外している。けれど、これはアスリートがパフォーマンスをつづける内に、最適な肉体の形に到達するように、しだいにそぎ落とされていくものだろう。
そのときまで、私はここが好きだけれど……とだけ私は書きつづけたい。