詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬『焼け跡』

2012-10-01 11:00:49 | 詩集
望月遊馬『焼け跡』(思潮社、2012年07月31日発行)

 望月遊馬『焼け跡』は小さい文字の書かれたところと、大きい文字で書かれたところがある。小さい文字は、きのうの感想のつづきで言えば「目次」である。「内容」はあとのほうでゆっくり読んでください。「目次」でだいたいの構成をつかんでください。構成がわかれば内容もわかります--と言っている具合だ。
 で、その最初の「目次」。

夢のまわりベッドのなかでも指をくわえていた。指がふたつ。ならんでいるから(異常に冷たい)砂にベンチが置かれていた(日)のどこか遠ざかっていくような雨のことや、潮がいくつもみえる。泳いでいる。泳いでいない。パンを食べる。パンの赤いジャムをゆっく(衛星)りと飲みこむ。アルバムのなかの画像が歪んだ。テレビのなかでも、指がふたつ、ならんでいる(から異常に冷たい)ならんでいるように見えるだけだ。

 「主語」と「述語」の関係がわからない。どこからどこまでが「修飾節」なのかもわからない。
 書き出しの「夢のまわりベッドのなかでも指をくわえていた。」これは「夢のまわりベッド」なのか。「夢の/まわりベッド」なのか。あるいは「夢のまわり/ベッド」なのか。つまり理想的なまわりベッドなのか、夢のなかにでてきたまわりベッドなのか、あるいは夢のまわり(周辺にある)ベッドなのか。最初からイメージが散らばってしまう。「指をくわえていた」のはだれか。そのだれかはひとりか複数か、それさえもわからない。
 「指がふたつ。」これは指が2本ということか。ひとりの人間の指の2本か。あるいは二人の人間の指の1本と1本、あわせて2本か。
 こんなことを思うのは、そのことばの直後に「ならんでいるから」ということばがくるからである。「指がふたつ。ならんでいるから……」ということばは句点「。」で区切られているから、学校文法的には「指がならんでいる」という意味にはならないが、これが「目次」だとするならば、目次とはもともと「ひとつづきの内容」を分断して提示したものだから、それをつないで読んでしまっても不都合はない。
 実際(と、いうことばのつかい方でいいのかな?)、私には「指がふたつ(ある)。そしてその指はならんでいるからふたつということが認識できる」、そしてその「ならんでいる」ということばは、海辺の砂の上に置かれていた(ならべられていた)ベンチを思い起こささせる。」それは雨の日(遠い過去の日)だったので、砂は冷たい。異常に冷たい。そのとき、潮がいくつも見えた--という具合に、ことばを重複させながら、私はイメージを受け取るのである。
 イメージはことばを重複させることで次第に明確になっていく。
 潮が見え、その潮のながれのなかにひとが泳いでいる。いや、泳いではいなかった。
 私は、その海を、あるいはベンチを、あるいはそのベンチにいるはずの恋人を、砂浜ではなく、たとえば砂浜の見える、海の見えるホテルの部屋から見ている。パンを食べながら。パンには赤いジャムをぬる。パンはゆっくりと喉を通っていくが、それは「衛星」が暗い宇宙を移動するような、ゆっくりした感じである。
 いや、私はパンは食べているが、ほんとうは海辺のホテルにはいない。ホテルではなく、たとえば自分の家。そこでアルバムを見ている。思い出の海が写っている。ベンチが写っている。そのシーンに似た海が、いま、テレビでも映っている。そのテレビのなかでは、「指がふたつ」ならんでいる。
 いや、そうではなく、テレビのなかに指がふたつならんでいるのを見たとき、すべての過去がそのように見えた。

 イメージはことばを重複させることで次第に明確になっていく--と書いたが、これは正確な書き方ではない。望月は述語を省いた「主語」を断片としてほうりだしている。それを私がかってに結びつけて「述語」を補ってイメージにしている。イメージというのは「固定化した映像、定着した画像」ではなく、動きながらそこに「物語」をかかえこむものである。「述語」を必然的に含むものである。そして「主語」が何度も繰り返し出てくると、その「主語」が必然的に「述語」を呼び寄せてしまう。「主語」のもっている肉体が「述語」を呼び寄せるのである。「主語」がある場所から別の場所へ動くとき、そこに「述語」が必然的に生まれてくるのである。
 「指をくわえていた」と書いたとき、指は「主語」ではない。しかし「指がふたつ」と書いたとき、指は主語になり、同時に指がふたつ「ある」という述語を引き寄せる。この省略された「ある」は「ならんでいるから」の「いる」へと引き継がれる。「ある」と「いる」は日本語で考えると「ひとつ」の動詞には見えにくいが、たとえば英語では「be動詞」に収斂するだろう。
 「ある」「いる」は「存在する」でもある。「述語」は「述語」で、こんどは「主語」を要求する。そしてその「述語」がたんに「ある」「いる」ではなく、別の要素をかかえこんでいるとき、「主語」はある「限定」を引き受ける。
 「ならんで+いる」。ならんで存在することができるもの--たとえば「ベンチ」である。ただし、この「ベンチ」は複数(ふたつ)である必要はかならずしも、ない。砂(砂浜)とベンチという併存(共存)は可能だし、さらに「海」を共存させることも、「雨」を共存させることもできる。「ならんで」ということばがなくても、そういうものは「ある」という「述語」で共存できるが、「ならんで」ということばがあるほうが自然にまわりに集まってくる。
 そうした「共存」、「もの」の複数化は、「場所」をも複数化させる。共存させる。「ある」「いる」ということばが、そこから一種の「存在論」を構成する。
 こういうことを、私は「述語」の「主語化」と呼んでいる。変な言い方だが、「述語」が「主役」になって、主語を支配しはじめる。主語を結びつけ、そこに世界をつくる。主語が増えてくると世界は賑やかになるが、そこにはほんとうは述語はひとつ、というシンプルな関係がある。
 この構図のなかに、「わたしはここにいる」ということつけくわえると、それは、望月の「存在論」というか、一種の「方法叙説」になる。
 このとき、そこに一種の「抒情」(センチメンタリズム)がただようが、それはそこに散らかされた「ベッド」だとか「指」だとか「ベンチ」「砂」「雨」「潮」「アルバム」が恋愛の「流通言語」だからである。
 まあ、それは、別にして。

 望月のこの詩のことばの特徴は「みえる」「見える」と区別して書き分けてるのかどうかよくわからないが、繰り返されている「見える」という動詞にある。「私には見える」という意味だと思う。そこには「私」という「主語」が隠されていると思う。
 だからこそ、私は、この詩は望月の「方法叙説」だというのだが……。言い換えると「私には見える、ゆえに私は存在する」ということになると思うのだが……。
 そこから、私はちょっと「飛躍」したい。つまり、説明できないこと、説明を省略したことをつけくわえたい。
 「私には見える」というとき「見える」は「動詞」であるはずなのだが、どうも私には「見える」という動詞が動詞に感じられない。望月は「見える」を「名詞」、あるいは「主語」として把握しているように感じられる。
 「見える」を含んで、「名詞」、「主語」になっている、というべきなのか。

夢のまわりベッドのなかでも指をくわえていた「のが見える」。指がふたつ「見える」。ならんでいるから(異常に冷たい)砂にベンチが置かれていた(「のが見えた」日)のどこか遠ざかっていくような「(に)見えた」雨のことや、潮がいくつもみえる。泳いでいる「のが見える」。泳いでいない「のが見える」。パンを食べる「のが見える」。パンの赤いジャムをゆっく(衛星)りと飲みこむ「のが見える」。アルバムのなかの画像が歪んだ「ように見える」。テレビのなかでも、指がふたつ「見える」、ならんでいる(から異常に冷たい)ならんでいるように見えるだけだ。
 
 あらゆるところに「見える」を補うことができる。そして、

パンを食べる「のが見える」。

 にすると、私に見えるのは私以外のひと恋人になるのがふつうなのだが、望月の場合はそうではなく、「私には、私がパンを食べるのが見える」なのである。「見る」ではなく、あくまで「見える」。
 受け身。
 受け身にすることによって動詞の述語としての力が弱まる--というのは、まあ、強引な言い方になるけれど、受け身の場合、ほんとうの動詞は「作用」してくる側にある。作用を受ける人は自分からは動いてはいない。
 だから、そのことを取り上げて、私は「見える」を含めて「名詞」あるいは「主語」になっている、というのである。

 で、というか、だからこそ、望月の詩は「目次」というのである。「目次」はたいてい名詞(テーマ)の羅列である。ほんとうの「述語」は本文のなかにある。
 つづきはあした--といいたいけれど、どうなるかなあ。最初の1ページだけでこんなに手間取ってしまった。長くなってしまった。



焼け跡
望月 遊馬
思潮社
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