大橋政人『26個の風船』(榛名まほろば出版、2012年09月01日発行)
大橋政人『26個の風船』の詩篇は最後まで読まないとおもしろくろい。言い換えると書き出しにひかれて、そのままぐいぐいとことばにひっぱられ、どこか知らない世界へ迷い込んで行くという感じではない。ことばそのものが新しいわけではない。
最後まで読んで、そうか、と思うのは、実はストーリーに対する感想である。ストーリーのなかで、「私(大橋)」のこころが少しずつ形をとっていく。その変化をことばで定着させる。
「現代詩」は、いわばことばの冒険。ことばにはこんなことができるのだという実験言語のおもしろさがあるが、大橋の詩は、そういう運動とは違っている。ことばは新しくなるというより、なにか古くなる。知っているものへと帰っていく。知っていることばが、どこか遠い昔からやってくる。甦ってくる。
変わっていくのは、あくまで大橋のこころである。こころが何かを見つける。
大橋は詩の形にして書いているが、短編小説の形にした方がもっとおもしろくなるかもしれない。
抽象的なことをくりかえしてもしようがないか。
「ナマズを見ていた」はフリーマッケット(昔なら縁日の屋台というところか)で、メダカや金魚を売っている店がある。そこにはナマズも売っていた。「私(大橋)」はそれを見ている。メダカは売れるがナマズは売れない。その詩の最後。
この最後の最後に大橋の肉体(思想)がある。
で、私の「現代詩講座」では、こういう部分で、受講生に質問してみる。
私はいじわるでしょ? みんなが「わかっている」ということを、わざと「わらかなくさせる」。
この「質問ごっこ」は、ことばを変えていえば、自分の「体験」探し。自分が体験しながら、きちんとことばにしてこなかったものを探してみること。ほんとうは何に共感したのかを、丁寧に調べてみること。それを探しあてるというか、その自分の体験してきたことと大橋のことばの重なりを探す--そうしてそこから大橋を見つめなおし、同時に自分を見つめなおすこと。
いつもは、「それじゃあ、これを自分のことばで言いなおしてみて」と質問する。
で、先の質問で浮かび上がったことを踏まえてさらに質問をするなら。
これはきっとだれも答えられない。わかりすぎていて、ほかに言いようがない。
それはたぶん大橋についても言えることだと思う。「悪い気がして」としか言いようがない。ほかにいいかきかない。言い換えがきかないことば--それを私は「思想(肉体)」と定義している。キーワードと呼ぶこともある。
ここに大橋の詩を読むときのポイントのようなものがある。それを確かめて上で。
質問を変える。答えが出てこないことを確認した上で、次のようにつづける。
わかっているのに、というか、大橋の書いていることに「共感」するのに、その「共感」を自分のことばで、ナマズをつかって言おうとするとうまくいえない。うまくいえないのは、そこに書かれていることが「受講生」の「思想」ではなく大橋の「思想」であり、大橋のものでしかないからだね。大橋のものでしかないのに、共感する--そこが、人間の不思議なところ。
道でだれかが腹を抱えて倒れてうなっている。あ、腹が痛いんだ。自分の体ではないのに、その痛みを感じる(共感する)。そういう不思議な能力が人間にはある。大橋の詩を読んで感じる「共感」はそれに似ている。
ナマズ、にとらわれるからいけないんじゃないかな? 違う見方が必要なんじゃないかな、と私は思う。
と、困らせるだけ困らせて、私は自分の考えを言う。困っているあいだに、受講生のこころのなかで、ことばを求める気持ちが強くなる。こういうとき、「飛躍」しても大丈夫。ことばが欠落した状態(ことばの酸欠状態)だから、どんなことばにも飛びついてくる。そういう力を借りて、私は強引にことばを飛躍させる。つまり、説明を省いて(説明を拒否して)、勝手なことを言うのである。
こんなふうに。
大橋が「悪いような気がして」というとき、その相手は「ナマズをみつめてしまった自分」に対してじゃないかなあ。
というより、大橋は「ナマズに対して悪い」ということを書きたいのではなく、もしかしたら「気がして」ということを書きたいのじゃないのかなあ。「気」の存在じゃないかなあ。
そうだね。同じことばでしか言いあらわもないけれど、何かしら「こころ」につながるものだね。体のなかで動いている何かだね。体を動かしているものだね。
大橋は、たぶん、人間にはそういう「こころ」があるということを書きたかったんだと思う。こころはどんなときにもある。それは何か立派な哲学や人生について考えているときにだけ動くのではなく、何にもしていないようなときにも「こころ」はある。
そういうことが書きたかった。
そういうこころは、ふつうはほおっておくのだけれど、ほおっておいたままでは「悪い気がする」。その「こころ」に対して。「こころ」はいつでも何かを感じたがっている。でも、うまくその感じたがっているこころに対して、こころを感じるように差し向けることができない。
そういう視点から詩を読み直すといいんじゃないかな?
フリーマーケットへ行った。そこにはメダカを売っている店があった。ナマズも売っている。珍しいね。珍しいから、その珍しいという「気(感じ)」から何かをもっと感じてみたかった。もしかしたら面白い詩でも書けるんじゃないかと、ちょっとよくも働いた。でも、うまくいかない。面白いことは起きない。
ナマズだから、それについて描けば面白いことばが動き詩になる、と考えたことはナマズに対して「悪い」ことかな? まあ、そういうこともあるかもしれないけれど、書きたいのは、きっとそういう「気」があるということ。そういう「気」を見つけた、ということだろうと思う。
「気」を発見するために、「こころ」を発見するために、大橋は詩を書いている。「こころ」がどんなときでも存在するという発見が大橋の「思想」なのだと思う。
言い換えると、大橋は「悪い気がして」ということばを書きたいからこの詩を書いた。そして、その「悪い気がして」ということばのなかでも「気」ということばを書きたくて、この詩を書いたのだと思う。
「気」を発見し、それをことばにする、ということを大橋はしている。だから、そのことばは「発見」の過程をていねいにたどるということもする。どんな具合に、それを発見したか。ストーリーが必然的に、大橋の詩には組み込まれる。
ちょっと、前半が長くなりすぎた。「気の発見」と「ストーリー」の関係は、「水仙」にとてもわかりやすい形で結晶している。
水仙の花を孫といっしょに見ている。(えっ、大橋って孫がいる世代なの、と私は驚いたのだが……。)その途中から。
「気」が出てくる。
この「気がつかない」は「悪い気がして」の「気」とは違う。違うのだけれど同じ「気」ということばがつかわれる。
ここに大橋の「思想(肉体)」のあり方がいちばんよく出ている。
水仙の花が九十度首が折れているというのは「事実」であり、それに「気がつく」というのは目で見て事実を確認するという客観的なことがらである。ところがナマズの詩の「悪い気がして」の「気」は客観的ではない。あくまで主観的である。
客観と主観が同じ「気」であらわされる。大橋にとっては、詩のなかに書かれていることは、客観と主観の区別がないということである。
だから、
ここは、水仙が九十度首を折れているということを「ゴメンナサイ」している、という擬人法ではないことばで説明したいということ、客観的な表現を目指している、という思う(気持ち)を告白していることになるが……。
大橋は、ほら、やっぱり「気(持ち)」を書いていることになる。「気」があるということを書いている。「なんとか表現しなければならない」という「気持ち」ではなく、実際に客観的な表現をしてしまえばいいのかもしれないけれど--そいういう表現をしてしまっては、「気(持ち)」の存在を描けない。あくまで「しなければならない」という「気」の存在を明確にする。
こうの矛盾のなかで、大橋は「客観」ではなく「主観」の存在を選び取り、それが「ある」と書く。
「客観」と「主観」を区別しないのだが、それは大橋の場合「主観」が「客観」をつつみこむ形で統合した場合、まあ、落ち着くんだろうなあ。その過程、「主観」が「客観」をつつみこむ過程を描いたのが大橋の詩である。「主観」を何よりも重視する、「主観」を人間存在の奥底からひっぱりだしてくる--それがあまりにも「基本的」な文学の運動に感じられるから、そこに「古い」という感じも、私は、感じとってしまう。主観・客観の二元論を主観のなかで統合する(一元論化する)というのは、何といえばいいのか、うーん、一種の「精神論」のように思えてしまう。そういう印象がどうしても残る。
ここまで書いてしまうのは、私がひねくれているからなのかもしれないなあ。大橋の詩を紹介するには、私のような正確の人間には適していないのかもしれない。
大橋政人『26個の風船』の詩篇は最後まで読まないとおもしろくろい。言い換えると書き出しにひかれて、そのままぐいぐいとことばにひっぱられ、どこか知らない世界へ迷い込んで行くという感じではない。ことばそのものが新しいわけではない。
最後まで読んで、そうか、と思うのは、実はストーリーに対する感想である。ストーリーのなかで、「私(大橋)」のこころが少しずつ形をとっていく。その変化をことばで定着させる。
「現代詩」は、いわばことばの冒険。ことばにはこんなことができるのだという実験言語のおもしろさがあるが、大橋の詩は、そういう運動とは違っている。ことばは新しくなるというより、なにか古くなる。知っているものへと帰っていく。知っていることばが、どこか遠い昔からやってくる。甦ってくる。
変わっていくのは、あくまで大橋のこころである。こころが何かを見つける。
大橋は詩の形にして書いているが、短編小説の形にした方がもっとおもしろくなるかもしれない。
抽象的なことをくりかえしてもしようがないか。
「ナマズを見ていた」はフリーマッケット(昔なら縁日の屋台というところか)で、メダカや金魚を売っている店がある。そこにはナマズも売っていた。「私(大橋)」はそれを見ている。メダカは売れるがナマズは売れない。その詩の最後。
私は結局、何も買わなかった
パッチワーク用の古布を探しに行った女房が戻るまで
私はナマズをじっと見ていた
全然動かないし
面白くもなんともないけど
見なければ悪いような気がしてずっと見ていた
この最後の最後に大橋の肉体(思想)がある。
で、私の「現代詩講座」では、こういう部分で、受講生に質問してみる。
<質問>書かれていることばで知らないことば、わからないことば、ってある?
<受講生>ありません。
<質問>書いてある「気持ち」、大橋の気持ちって、どう?
<受講生>わかる、そういう気持ちになるのはよくわかる。
<質問>では、ここからがほんとうの質問。「見なければ悪いような気がしてずっと見て
いた」の「悪いような気がして」って、だれに対して?
<受講生1>えっ、ナマズに対して、でしょ?
<質問>ナマズに対して「悪い気がした」ってこと、体験したことある?
<受講生2>ないなあ。
<質問>そうすると、みなさんが「悪い気がして」ということばに共感したとするなら、
それは大橋がナマズに対して「悪い気がした」って思った、ということじゃないの
じゃないのかな? あ、なんだか、ごちごちゃしたね。
自分も感じたことがある、というのが共感、それ、わかる、ということだからね。
私はいじわるでしょ? みんなが「わかっている」ということを、わざと「わらかなくさせる」。
この「質問ごっこ」は、ことばを変えていえば、自分の「体験」探し。自分が体験しながら、きちんとことばにしてこなかったものを探してみること。ほんとうは何に共感したのかを、丁寧に調べてみること。それを探しあてるというか、その自分の体験してきたことと大橋のことばの重なりを探す--そうしてそこから大橋を見つめなおし、同時に自分を見つめなおすこと。
いつもは、「それじゃあ、これを自分のことばで言いなおしてみて」と質問する。
で、先の質問で浮かび上がったことを踏まえてさらに質問をするなら。
<質問>「悪い気がして」を自分のことばで言いなおしてみて。
これはきっとだれも答えられない。わかりすぎていて、ほかに言いようがない。
それはたぶん大橋についても言えることだと思う。「悪い気がして」としか言いようがない。ほかにいいかきかない。言い換えがきかないことば--それを私は「思想(肉体)」と定義している。キーワードと呼ぶこともある。
ここに大橋の詩を読むときのポイントのようなものがある。それを確かめて上で。
質問を変える。答えが出てこないことを確認した上で、次のようにつづける。
<質問>「悪い気がして」って、どういうときにつかう?
<受講生3>だれかに迷惑をかけたときとか、お世話になったときとか。何か自分がしな ければならないのに、何もできないときに、そういうふうに感じる。
<質問>それって、「見なければ」とうまいぐあいにつながる? 悪い気がするなら、大 橋が買えば?
<受講生1>あ、それは違う。
<質問>どう違うんだろう。
<受講生>……。
わかっているのに、というか、大橋の書いていることに「共感」するのに、その「共感」を自分のことばで、ナマズをつかって言おうとするとうまくいえない。うまくいえないのは、そこに書かれていることが「受講生」の「思想」ではなく大橋の「思想」であり、大橋のものでしかないからだね。大橋のものでしかないのに、共感する--そこが、人間の不思議なところ。
道でだれかが腹を抱えて倒れてうなっている。あ、腹が痛いんだ。自分の体ではないのに、その痛みを感じる(共感する)。そういう不思議な能力が人間にはある。大橋の詩を読んで感じる「共感」はそれに似ている。
ナマズ、にとらわれるからいけないんじゃないかな? 違う見方が必要なんじゃないかな、と私は思う。
と、困らせるだけ困らせて、私は自分の考えを言う。困っているあいだに、受講生のこころのなかで、ことばを求める気持ちが強くなる。こういうとき、「飛躍」しても大丈夫。ことばが欠落した状態(ことばの酸欠状態)だから、どんなことばにも飛びついてくる。そういう力を借りて、私は強引にことばを飛躍させる。つまり、説明を省いて(説明を拒否して)、勝手なことを言うのである。
こんなふうに。
大橋が「悪いような気がして」というとき、その相手は「ナマズをみつめてしまった自分」に対してじゃないかなあ。
というより、大橋は「ナマズに対して悪い」ということを書きたいのではなく、もしかしたら「気がして」ということを書きたいのじゃないのかなあ。「気」の存在じゃないかなあ。
<質問>「気がして」って、自分のことばで言い換えると、どうなる?
<受講生1>……と思って、……と感じて。
<質問>「気」「思う」「感じる」に共通することって何かなあ。
<受講生2>気持ち、こころ……。
そうだね。同じことばでしか言いあらわもないけれど、何かしら「こころ」につながるものだね。体のなかで動いている何かだね。体を動かしているものだね。
大橋は、たぶん、人間にはそういう「こころ」があるということを書きたかったんだと思う。こころはどんなときにもある。それは何か立派な哲学や人生について考えているときにだけ動くのではなく、何にもしていないようなときにも「こころ」はある。
そういうことが書きたかった。
そういうこころは、ふつうはほおっておくのだけれど、ほおっておいたままでは「悪い気がする」。その「こころ」に対して。「こころ」はいつでも何かを感じたがっている。でも、うまくその感じたがっているこころに対して、こころを感じるように差し向けることができない。
そういう視点から詩を読み直すといいんじゃないかな?
フリーマーケットへ行った。そこにはメダカを売っている店があった。ナマズも売っている。珍しいね。珍しいから、その珍しいという「気(感じ)」から何かをもっと感じてみたかった。もしかしたら面白い詩でも書けるんじゃないかと、ちょっとよくも働いた。でも、うまくいかない。面白いことは起きない。
ナマズだから、それについて描けば面白いことばが動き詩になる、と考えたことはナマズに対して「悪い」ことかな? まあ、そういうこともあるかもしれないけれど、書きたいのは、きっとそういう「気」があるということ。そういう「気」を見つけた、ということだろうと思う。
「気」を発見するために、「こころ」を発見するために、大橋は詩を書いている。「こころ」がどんなときでも存在するという発見が大橋の「思想」なのだと思う。
言い換えると、大橋は「悪い気がして」ということばを書きたいからこの詩を書いた。そして、その「悪い気がして」ということばのなかでも「気」ということばを書きたくて、この詩を書いたのだと思う。
「気」を発見し、それをことばにする、ということを大橋はしている。だから、そのことばは「発見」の過程をていねいにたどるということもする。どんな具合に、それを発見したか。ストーリーが必然的に、大橋の詩には組み込まれる。
ちょっと、前半が長くなりすぎた。「気の発見」と「ストーリー」の関係は、「水仙」にとてもわかりやすい形で結晶している。
水仙の花を孫といっしょに見ている。(えっ、大橋って孫がいる世代なの、と私は驚いたのだが……。)その途中から。
なんで
水仙のお花は
みんな下向いて
ゴメンナサイ
してるの?
と質問されてしまった
うん?
と思って
横にまわって
よく見たら
どの水仙も
首のところで
ほぼ九十度
ガクッと曲がっている
四歳に負けてくやしいが
言われるまで
まったく気がつかなかった
「気」が出てくる。
この「気がつかない」は「悪い気がして」の「気」とは違う。違うのだけれど同じ「気」ということばがつかわれる。
ここに大橋の「思想(肉体)」のあり方がいちばんよく出ている。
水仙の花が九十度首が折れているというのは「事実」であり、それに「気がつく」というのは目で見て事実を確認するという客観的なことがらである。ところがナマズの詩の「悪い気がして」の「気」は客観的ではない。あくまで主観的である。
客観と主観が同じ「気」であらわされる。大橋にとっては、詩のなかに書かれていることは、客観と主観の区別がないということである。
だから、
なんと答えようか
なんとも言葉が出てこないが
私は大人なんだから
その不思議を
擬人法を使わないで
なんとか正確に表現しなければならない
ここは、水仙が九十度首を折れているということを「ゴメンナサイ」している、という擬人法ではないことばで説明したいということ、客観的な表現を目指している、という思う(気持ち)を告白していることになるが……。
大橋は、ほら、やっぱり「気(持ち)」を書いていることになる。「気」があるということを書いている。「なんとか表現しなければならない」という「気持ち」ではなく、実際に客観的な表現をしてしまえばいいのかもしれないけれど--そいういう表現をしてしまっては、「気(持ち)」の存在を描けない。あくまで「しなければならない」という「気」の存在を明確にする。
こうの矛盾のなかで、大橋は「客観」ではなく「主観」の存在を選び取り、それが「ある」と書く。
「客観」と「主観」を区別しないのだが、それは大橋の場合「主観」が「客観」をつつみこむ形で統合した場合、まあ、落ち着くんだろうなあ。その過程、「主観」が「客観」をつつみこむ過程を描いたのが大橋の詩である。「主観」を何よりも重視する、「主観」を人間存在の奥底からひっぱりだしてくる--それがあまりにも「基本的」な文学の運動に感じられるから、そこに「古い」という感じも、私は、感じとってしまう。主観・客観の二元論を主観のなかで統合する(一元論化する)というのは、何といえばいいのか、うーん、一種の「精神論」のように思えてしまう。そういう印象がどうしても残る。
ここまで書いてしまうのは、私がひねくれているからなのかもしれないなあ。大橋の詩を紹介するには、私のような正確の人間には適していないのかもしれない。
26個の風船―大橋政人詩集 | |
大橋 政人 | |
榛名まほろば出版 |