詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部日奈子『キンディッシュ』

2012-10-15 10:45:50 | 詩集
阿部日奈子『キンディッシュ』(書肆山田、2012年10月15日発行)

 きのう(おとつい)読んだ柴田千晶『生家へ』の俳句には「わざと」が見えて、それが私にはいい気もちはしなかった。
 阿部日奈子『キンディッシュ』も「わざと」が目立つことばなのだが、阿部の詩の場合は「わざと」が気にならない。阿部は「ありのまま」を求めていない--というと誤解を招く表現になってしまうが、「ありのまま」のあり方が「俳句」における「ありのまま」とはかなり違うのだ。というような抽象的なことを書いていても感想にはならないので……。
 「行商人」という作品。

冬のあいだに作りためたボタンを車に積んで
行商の旅に出る
売掛帳に記された仕立屋や洋裁学校を
街道に沿ってまわる
七日間の旅程
荷台で揺れる小抽斗のなかは矩形に区切られて
春夏向きの貝ボタンだけでも十数種類がそろっている

すみれ服飾学院は
洋装店二階のこぢんまりした教室
裁ち台に広げた生地にボタンを置いてゆく
花形に削った白蝶貝のボタンは クレープデシンのワンピースに
タイシルクのコートには 斑猫を模した七宝のボタン
木目がきれいなナットボタンは 麻のスーに
切子細工のガラスボタンは 綿ヴォイルのシャツブラウスに

 書き出しの「冬のあいだに作りためたボタンを車に積んで/行商の旅に出る」の「主語」は誰か。「私」なのだろうけれど、「私」は誰か。まさか阿部ではあるまい。ということは、この作品、このことばは阿部の「過去」をもっていない。このことばのなかには阿部の「過去」が含まれていない。ことばは虚構を動いている。ここにかかれていることは、いわば「うそ」である。「わざと」うそが書かれている。
 柴田の詩も、そこに書かれているセックスが「ほんとう」というよりは、「うそ」を含んだ「わざと」なのだろうけれど、阿部の「うそ」と柴田の「うそ」はまったく違う。「わざと」のあり方が違う。
 柴田は「流通する風俗」というものを意識し、その風俗のなかにいわば柴田自身をみせながら隠している。見せれば見させるほど柴田は隠れてしまう。そのかわり「風俗の肉体」が見える--というところまでことばが突き進めばそれはそれでおもしろいのかもしれないが、そういう「散文」の粘着力、粘りを発揮するのではなく、俳句を利用して「断面」としての「象徴」で問題を解決してしまう。その手際は、テキパキしているといえばテキパキしているのだが、そのテキパキが目立ってしまうと、なんだか柴田の「頭のよさ」だけを見せつけられたような気がする。そこが、私には、まあ、不満だね。
 脱線した。
 阿部にもどる。

 阿部の「過去」をもたないことば。つまり、阿部は実際に冬のあいだボタン作りをしたわけでも、春になってボタンの行商をしたわけでもないのに、なぜこんなことを「わざと」書くのか。
 その理由は、そのまま考えていくと、わけがわからなくなる。書きたいから書いただけでおしまいになる。
 で、ちょっと違った方向からことばを見ていく。
 「過去」をもたないことばというのは可能なのか。まあ、書かれているから、可能である、と結論は出ているのだけれど。では、なぜ、可能なのか。この「なぜ」に阿部のことばの運動の秘密と、阿部の「肉体(思想)」がある。
 阿部のこの詩のことばが阿部の過去(体験)とは無縁であるとしたら、では何と関係があるのか。体験していないことばを阿部はどこから自分のものにしたのか。
 先行することばの運動--つまり、「本」から獲得したのだ。「本」以外のことば、たとえば映画や芝居や、身の回りの会話でもいいが、自分以外のひとのことばから獲得したのである。そこから学んだのである。
 いわば、ここには他人のことばがあるのだが、他人のことばがなぜ阿部のことばになりうるのか。自分の「過去」でもないものを、なぜ自分の「過去」のように書くことができるのか。
 ことばにはことばの肉体があるからだ。ことば自身の「過去」があるからだ。それは「文学の過去」と言ってもいい。「文法の過去」と言ってもいい。そしてそれは「文学の肉体」「文法の肉体」と言ってもいい。「過去」とは「肉体」であり、「過去」とは「肉体」のなかにしみついた「無意識」である。
 あることばは別のことばを好んでくっつきたがる。ほかのことばではいや、という好き嫌いがある。いやなことばが出合うと、とても耳障りである。
 (柴田の俳句と散文の組み合わせに感じたのは、その「耳障り」である。まあ、どんな音の結びつきも音楽の可能性であり、それを耳障りと批判するのは可能性の否定である--といわれれば、その通りである。また、脱線した。)
 ことばはどんな組み合わせでも可能なようであって、なかなかそうはいかない。音楽の和音のように、一種の組み合わせがある。まだ「文学のアルキメデス」は誕生していないので、だれも「ことばの和音」を数式化していないが、それは確実に存在する。
 その「ことばの和音」は阿部の詩を読むと、はっきりと感じることができる。「ことばの肉体」がつかんできた「ことばの運動のなじみ」というものがはっきりと感じられる。
 たとえば「行商」。それは「売掛帳」ということばとしっくりなじむ。そういうことばがあるかどうかわからないが、たとえば「販売実績記録簿」ということばは「行商」にはにあわない。「バランスシート」というようなことばもここにはにあわない。
 そういうことばをもってきて、「行商」ということばを活性化(?)させるということも可能かもしれないが(柴田のしているのは、好意的に考えればそういう方法なのだろうけれど)、阿部はそういう方法をとらない。あくまで「ことばの肉体」「ことばの記憶」をたどり、それを「正直」に「ありのまま」に存在させようとする。
 行商、売掛帳、仕立屋、洋裁学校、街道、旅程、荷台、小抽斗、矩形……。どのことばも同じ「過去」(同じ時間)をもっていることがわかる。どのことばも「いま/ここ」(現代の風俗)とは違う。阿部はその「過去」を「過去」の時間のままに(ありのままに)統一する。
 ここに阿部の「わざと」がある。そして、その「わざと」には乱れがない。いわば、とても正確な「和音」がひびきあっている。
 阿部がここで書いているのは、いわばそういう「ことばの和音」であり、ことばの数学なのである。同じような詩人に、たとえば高柳誠がいる。那珂太郎も実は「ことばの和音」という視点でとらえていくと、同じ系列に属する。彼らがやっていることは、あくまで「ことばの音楽」であり、いわばことばのアルキメデス派なのだ。ことばは、「ことばの和音」を求めて、自在にそれ自身の力で運動する--そういう可能性を、阿部は提示しているのである。

 こういう「ことばの和音(音楽)」追求には、ことばの歴史(過去)が反映しているのだけれど、そういう「ことばの音楽の運動」には「個性」が反映しないかというと、そうではない。「音楽」が「和音」を守りながらも個性があるように、たとえば「赤い靴」(童謡)も「恋人よ」(五輪真弓)も「ふれあい」(中村雅俊)も「ダンシングオールナイト」(モンタ&ブラザーズ)も「ラシドレミ」と同じ音で始まるが違うように、阿部のことばも「ことばの和音」を踏まえながら、阿部独自のものとなっている。そこには、阿部の「好み」(どうすることもできない本能)がやはりあらわれてくる。
 なぜ「すみれ服飾学院」なのか。なぜ「リンドウ洋装学校」ではないのか。この違いのなかへ踏み込み、それを明確にすることはむずかしい。それは、その違いを識別し、それを選ぶという意識が、もうすっかり阿部の肉体になってしまっているからだ。そういう肉体が、2連目の「個別のボタン」「個別の生地・洋服の形」になってあらわれている。
 その「和音」を楽しいと思うか、思わないか--詩の評価の分かれ目は、そこにあらわれてくる。どんなことばでも「和音」であるはずなのに、(それがいままで聞いたことがある和音か、聞いたことがない新規の和音かの違いであっても、組み合わせがあるかぎり「和音」であっていいはずなのだが)、それに読者がなじむかどうかが、詩の分かれ目である。
 こう書いてしまうと、詩の評価などいいかげんなものだが、まあ、いいかげんでいいのだ。詩なのだから。
 他人のことはさておいて、私は阿部のことばの和音の作り方、あるいは高柳誠、那珂太郎のことばの和音の作り方は、とても気持ちがいい。気持ちよく響く。そこには「風俗的な肉体の匂い」がない。架空のものだけがもつ透明感がある。和音のための、「わざと」つくられた「構造」が、「わざと」なのに、あるいは「わざと」だからなのかもしれないけれど、ゆるぎがない。強固である。そこに安心感がある。「ことば」なのだ。という安心感--ことばは、こうやって他人と共有されることばそのものになるのだ、という力がある。そういうことばの力が、それが「わざと」書かれたものであるのに、「ありのまま」の力を明確にするために書かれたものという印象をあたえる。そういう印象を感じる。「わざと」なのに「ありのまま」に触れることができる。

笑いさんざめくお嬢さんがたは
年々幼くなるように見えてならない
産毛がひかる水蜜桃の頬っぺたでもうじき結婚だなんて
心配を通りこして痛ましくさえ思うのだが
みごとな銀髪の女学院長が含みのある笑顔で目配せするので
行商人は黙って
陽光の溶けこんだ紅茶を啜っている

 阿部は最後になって「行商人」という主人公を明確にすることで、つまり、この詩のことばが「行商人」という第三者の視点によって統一されたものであると明確にすることで、物語のなかに「作者」として「溶けこんで」ゆく。紅茶のなかの陽光のように、輝きながら。
 物語ることの楽しさ、物語らずにはいられない「ことばの肉体」が、読み終わったあと、紅茶のように読者の「臓腑(肉体の奥)」に広がってくる。



海曜日の女たち
阿部 日奈子
書肆山田
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