詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柴田千晶『生家へ』(2)

2012-10-14 19:49:00 | 詩集
柴田千晶『生家へ』(2)(思潮社、2012年10月01日発行)

 柴田千晶『生家へ』はどんなふうに読むことができるのか。「俳句+散文詩」というのが出版社(柴田?)の「売りことば」なのだが、まあ、宣伝だね。こういうものを気にしなければいいのかもしれない。
 「俳句」ではなく「1行現代詩」、「散文詩」ではなく「散文」。いや、そういう枠をとっぱらって、「5・7・5」という「定型」と「否定形」。それもとっぱらって、ただの「ことば」。そう読むといいのかもしれない。
 私は「俳句」ということば、その「定義」にひっかかってしまうのである。「俳句」を「散文」で「これは、こういう背景のあることばなのです、と説明するときの、そのことばの構図にひっかかってしまうのである。

 俳句とは何か。
 たとえば、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」。ここには「法隆寺」という「固有名詞」がある。だから、ここに書かれている寺が「法隆寺」であることはたしかなのだが、そのほかのことは、どうだろう。「柿」はどんな柿? 鐘は法隆寺の鐘? それともどこか遠くの寺の鐘? だいたいこのとき子規はどこにいたんだろうか。法隆寺で柿を食った? まさかね。では、どこ? 自分の家、というか、逗留先?
 わからないことはいっぱいある。いっぱいあっても、子規が柿を食ったということはわかる。鐘が鳴ったということもわかる。法隆寺を思っている(?)ということもわかる。こんな句なんて、「ありのまま」じゃないか。その「ありのまま」がわかってしまうので、それ以外は、まあ、関係がない。そこにどんな「過去」があるか、これからどんな「未来」が始まるか、まったく関係ない。子規という人間さえ関係がない。そういう無関係の関係のなかに、そのことばを読むと誘い込まれ、読者(私)とことばがひとつになるということが俳句なのだと思う。
 芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」。これだって、池に蛙が飛び込めば水の音がするなんて「ありのまま」。「ありのまま」すぎて、わかりすぎて、そのことが不安になると、この「古池」がどこの池なのか、蛙は一匹なのか複数なのか、水の音はどぼんなのか、ぽちゃんなのか。時間は何時ごろなのか--というようなことを気にしはじめる。つまり、芭蕉は「いつ/どこで」この句を詠んだのか。でも、そういうことは、関係がない。どこだっていい。どの池であっても「古池」であり、どんな蛙であっても「蛙」、どんな水の音であっても「水の音」。「ありのまま」なのだから、そしてその「ありのまま」という「ありかた」というのは、あらゆる「古池」、あらゆる「蛙」、あらゆる「水の音」でありながら、たったひとつの古池、蛙、水の音である、ということだ。「あらゆる」が「ひとつ」という矛盾が俳句なのである。
 「あらゆる・ひとつ」というのは矛盾であるからこそ、ほら、学校で初めて「古池や蛙飛び込む水の音」という句を「名句」であると習ったとき、変な気持ちになったでしょ? 何これ? 蛙が池に飛び込んで水の音がした--それがどうしたの? 「あたりまえ」でしょ? 「ありのまま」でしょ? 「ありのまま」では、どこがいいのか子どもにはわからない。しかも、その「ありのまま」というのは「矛盾」していることなのだから、こどもにはわからない。子どもには「矛盾」がわからない。というか、「矛盾」を受け入れることができない。知らないことを、知っていることに置き換えて、知っていることを少しずつ増やしていくことが、子どもにとって「わかる」ということなのだ。
 「矛盾」がわかるようになるのは、おとなになって、自分の肉体のなかに「矛盾」がたまってきたときである。「矛盾」があっても、「いま/ここ」にこうして人間が生きているということが納得できるようになって、ようやく「矛盾」を受け入れることができる。あらゆることが「矛」であり「盾」であり、それは「表裏一体」である。「わかる」は「理解する」ということではないのだ。受け入れることなのだ。
 「古池や蛙飛び込む水の音」のことばのなかには、そのことばだけではなく、あらゆることばが同時に存在している。ひとつと無数が「表裏一体」になっている。そして、それが「表裏一体」だからこそ、私たちはそこに私自身の「古池や蛙飛び込む水の音」を溶け込ませることができる。というか、読んだ瞬間に、そこに「私」が溶け込んでしまい、そのことばを境目(?)にして、私と芭蕉が「表裏一体」になる。
 だから--というのは変かな?
 この句を読んだ瞬間、これが俳句なら自分にでも書ける、そう思わなかった?
 古池やどんぐり落ちる水の音
 古池や緑の水に赤い鯉
 どこが違うのか、小学生にはわからない。
 つまり、小学生であっても「古池や蛙飛び込む水の音」は、そのまま自分の世界そのものになる。「ありのまま」にのみこまれ、同化してしまう。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」も同じだね。読んだ瞬間に、そのことばが自分のものになり、どこが特別なのかわからないというのが、きっと俳句の真骨頂である。そして、そこには「無数」と「ひとつ」の「表裏一体」がある、というのが「俳句の正直」なのだ。「無数」と「ひとつ」が「表裏一体」であるから、そこには「私」は存在しないという形でしか存在できない。存在しないことが存在することなのだ。つまり、「矛盾」が俳句なのだ。
 だから。
 この「だから」というのは、一種の「飛躍」なのだが、

袋綴ぢのヌード春の鉄匂ふ                   (「汐まねき」)

 というような、「わからない」ことばがあると、それは俳句ではないのだ。
 言い換えると。
 この柴田の俳句を小学生に読ませてみるといい。なぜ「春の鉄」なの、それが「わからない」というだろう。思春期の男子なら「袋綴ぢのヌード」に反応して教室に笑い声がひろがるかもしれない。つまり、それは「わかる」からだ。けれど、やっぱり「春の鉄匂ふ」につまずく。「これ、いったい何?」
 こういう組み合わせを「おもしろい」(わかる)と感じる(錯覚する)のは、ひねくれた「現代詩」愛好家だけである。詩とは異質なものの出会いである、ということを唯一の真理と信じている「現代詩人」だけである。
 ここにあるのは「作為」(わざと)だけである。(わざと、が詩である--というのは、西脇順三郎の詩の定義である。)

 で、私がきのう書いたのは、そういう「俳句」の感覚と柴田の書いている「俳句」が相いれないだけではなく、「俳句」を「散文」によって解説してしまうと、「表裏一体」が完全に分離する、分離してしまって、「俳句」は完全に否定されてしまうということなのだ。
 私は俳句をつくっているわけではないが、そこのところにつまずく。
 これを俳句ではなく「一行詩」ととらえなおせば、少し、違った感じになる。--なるかな、と少しは思うので、その方向にことばを動かしていってみようか。

   袋綴ぢのヌード春の鉄匂ふ

黒崎課長が死んだ。四日前、課長はすでに死んでいた。赤髪町のビジネスホテル
の一室で、黒崎課長は服を着たまま、浅く湯を張ったバスタブに浸かっていた。
死因は心不全と伝えられたが、なぜ服を着たままだったのか、なぜ着てきたはず
の背広だけがどこにも見つからなかったのか、不可解なことだらけの黒崎課長の
死だった。

 この「汐まねき」の「一行詩」と「散文」の関係は、ここまで読んだだけではわからない。「わざと」が、さらに「わざと」を呼び寄せている。「課長の死」という事件を「わざと」向き合わせている。
 しかし、そこには「死んでいた」「服を着たまま」「不可解」ということばが「ヌード」と呼びあい、そこに「セックス」が浮かび上がる。「袋綴ぢ」と「服を着たまま」の呼応など、作為(わざと)が見え透いていて、あざとい感じすらするが、見方によっては「ていねいな伏線」ということになる。(これを「伏線」と感じるひとには、柴田のことばは「巧み」だなあ、という印象を与えると思う。いい詩だなあ、という印象をあたえると思う。)
 さらに「鉄匂ふ」は「血の匂い(鉄分があるからね)」を連想させし、課長とビジネスホテルの組み合わせは、なるほどね、ラブホテルじゃなくてビジネスホテルをつかっていたんだね、というようなことも連想させる。今度はそうしよう、ポケットから領収書がでてきても言い訳がしやすいからね、とか……。(このありりの工夫にも、「柴田はうまいなあ」と思うひとがいると思う。)
 で、この連想のなかに、「一体感」はあるのかな?
 まあ、そうだね。ここにも、強引に言えば、個別のセックス(黒崎課長)と複数のセックスの「表裏一体」があり、その「表裏一体」のなかに、読者(私)が融合し、「一体感」を感じると言えないこともない。
 そんな具合に、実際、柴田のことばは動いていくのだけれど。
 でも、柴田って「黒崎課長」と同性? つまり、男?
 私は柴田に会ったことはないのでよくわからないけれど。

 まあ、この「むり」には柴田自身が気づいて、

   茫茫と牛乳流す春の川

ひと月前に黒崎課長が宿泊した606号室は、まるで何事もなかったかのように
客室として使用されていた。課長が浸かっていたというバスタブに触れると耳鳴
りがして、排水口からゴボッゴボと水が逆流してきた。課長はまだここにいるの
かもしれない。裸のままベッドに俯せて私を待っているのかもしれない。

 という具合に、なんだかわけのわからない俳句を挟んで、強引に「女」をわりこませる。事件(?)のなかの「女」と柴田の性を「一体化」する。
 この「わざと」は「現代詩」の「わざと」を超えるね。
 つまり。
 手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い、美術館と便器と「泉」の出会いは「無意味」によって「驚き」を引き起こす。「笑い」を引き起こすが、柴田がここに書いている「わざと」は「無意味」とは正反対。「意味」でありすぎる。男と女がビジネスホテルでセックスをするというのは「わざと」というよりは、あまりにも常識的すぎる。つまり「悪趣味」ということになる。
 こうなってしまうと、もう俳句どころではない。
 どうやって「わざと」のなかに「現代」を盛り込み、「意味」を「悪趣味」から「現実」(実感)に変えていくかということが、ことばの課題になってしまう。
 柴田はそれを一生懸命にやっている。
 で、一生懸命にやればやるほど、それが「物語」になってしまう。「流通可能なストーリー」になってしまう。そして、その結果、「一行詩」は、やはり「流通可能な象徴詩」にかわってしまう。
 何といえばいいのかよくわからないが、「一行詩」と「散文」が出会い、それが一生懸命に互いをふくらませようとしているのだが、どうも私には、それが「相乗効果」というよりは「相殺効果」のように思えてしまう。
 「詩」が強烈に浮かび上がるというよりも、「一行詩」がもっていたはずの「詩」がそぎ落とされ「流通言語」が残る、「風俗」が浮かび上がってくる、という感じがする。

 「わざと」をたくさん含んだ「一行詩」を「俳句」と呼ぶのは、それはそれでおもしろいと思う。でも、その「俳句」を「散文」と組み合わせ、向かい合わせにすることで「流通可能なストーリー」に仕立てるというのは、どうも、俳句に申し訳ない感じがするなあ。
 俳句を専門につくっているひとは、この詩集をどんな具合に読むのかな?
 それを聞いてみたい感じがする。




セラフィタ氏
柴田 千晶
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする