詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤健一「太陽」ほか

2012-10-20 10:28:25 | 詩集
斎藤健一「太陽」ほか(「乾河」65、2012年10月01日発行)

 私は斎藤健一の詩が好きである。なぜ好きなのか。ときどき考えるが、好きに理由などない。私の肉体と波長があうのである。これは、まあ、一方的な感覚であって、いわば片思いみたいなものだ。
 「太陽」という作品。

舌はひりつく。あかるい空が震動する。眠ってしまうこ
とは許されないのである。緑色に墜落する海。ビロード
のような水滴。湾が見わたせる。ぼくは喘ぎながらじっ
とながめる。整った胴体とまるい眼鏡。おとなしく愚か
な食欲におびえているのだ。

 たとえば「眠ってしまうことは許されないのである。」この文章の主語は? 「ぼく(斎藤)」だろうか。単純に考えると、そうなるだろう。私は何らかの理由で眠ることが禁じられている。
 あるいは「舌」だろうか。最後の「食欲」ということばが、主語は「舌」だと言っている。舌は食欲のために眠ることができない。飢えがはげしく、常に舌を刺激する。これなら、「許されない」の理由がわかる。理由というより、この場合は原因である。
 あるいは直前の「あかるい空」だろうか。あるいは、「海」だろうか。「眠ってしまうことが許されない」ので「震動する」。「眠ってしまうことが許されない」ので「緑色に墜落する」。この場合、「眠ってしまうことが許されない」の方が理由や原因になる。
 斎藤は、眠ってしまうこと「が」許されないではなく、眠ってしまうこと「は」許されないと書いているのだから、私の感想は、完全な「誤読」なのだが、何かしら「誤読」を誘うものが斎藤の文体にある。
 いや、何かしらというあいまいなものではないね。斎藤のことばは「主語」を切断している。あるいは「動詞」を切断している。たとえば「ビロードのような水滴。」には「動詞」がない。つまり「述語」がない。「述語」がない、という点からみれば「緑色に墜落する海。」にも「述語」がない。このために、文書を「正確」に読むことができない。
 「主語」「動詞(述語)」を切断してしまっているから、読者は(私は)何かしらのことばを補う必要がある。もし、この詩を理解しようとすれば。勝手にことばを補うわけだから、それは「誤読」でしかない。
 一方、切り捨てられた「主語」「動詞」のかわりに、何かが強引に「接続」される。句点「。」である。すべてを、そのことばだけで終わらせてしまう。閉じ込めてしまう。
 この瞬間、ことばの「孤独」と「誤読」が韻を踏む形で交錯する。
 斎藤が書くことば自身の「孤独」に「誤読」が重なり、その瞬間、それは斎藤のことばではなくなる--私のことばになってしまう。
 これは、一種の錯乱のようなものだが、読みながら、このことばは斎藤のことばではない、私のことばだと思ってしまうのである。
 「舌はひりつく。」舌がひりつく渇きを私は知っている。
 「あかるい空が震動する。」あかるい空がふるえるように感じられることがある。私はそれを知っている。
 「眠ってしまうことは許されないのである。」そう、許されないことがあるということを私は知っている。
 「緑色に墜落する海。」私はそれを見たことがある。
 「ビロードのような水滴。」これも知っている。
 「湾が見わたせる。」湾を見わたしたことがある。
 全部知っている。それだけではなく、覚えている。だから、これは斎藤のことばであっても、斎藤のことばではない。私のことばだ。私はそのことばを全部自分なりに「接続」し、そこで世界をつくることができる。
 「正解」はどうでもいいのだ。そこにあることばに向かって、私の知っていること、覚えていることが結晶していく。そこに私の「感覚」がある。そう思える。
 これでは感想を書いたことにはならない。しかし、そういうふうにしか感想が描けない。

 「失念」という作品。

足はむきだしである。上昇の飛行機。金属の光が降る。
而して海の揺籃へ傾きながら滑り込む。熱くこめかみが
脈打つ。つめたい突きでた頬骨だ。直進するぼく。歯。
屈曲する陸。空気の航跡が白い花をひらく。少しずつ水
につかってゆくのだ。歩行に努力を認める。疲労と汗に
まみれる。梨の枝。音は沸かずに蒼ざめる。ざわめき。
みちる沈黙。知らぬ半身を折る。近視の硝子を拭うのだ。

 ふたつの詩を重ね合わせると、斎藤が「ぜんそく(喘ぐからの連想)」かなにかで病院に入院している。病院は海に面したところにあり、斎藤はときどき海辺を散歩する。そして、その光景のなかで肉体を解放している、という姿が浮かんでくる。斎藤は眼鏡をかけている--ということも想像できる。
 で、そういう一種の強引な連想のあいだに、

梨の枝。

 唐突にとびこむことばがある。梨は、「空気の航跡が白い花をひらく。」の「白い花」と関係しているかもしれないが、「梨の花」ではなく「梨の枝」であるから、違っているかもしれない。
 この突然の「切断」というか、「わりこみ」というか、「飛躍」。
 その瞬間、やはり、私は「孤独」と「誤読」に引きつけられるのだ。何かわからない。わからないけれど、ぐいっと引きつけられる。
 いいなあ、と思う。
 この「いいなあ」という印象の奥に、私は、ひそかに「音楽」を感じている。
 斎藤の書いていることばは、私にはモンクのピアノの音のように、むだをそぎ落とした音となって響いている。
 「蒼ざめる」「ざわめき」--こういう音のつながりのなかに、「意味」ではないもの、何か不思議な感覚のつながりを感じる。それは句点「。」によって切断されることによって、より深くなる。強くなる。切断されているから、そこには存在しないはずなのに、切断することによって、逆に意識化されるつながりを感じるのである。
 
 きょう書いたことは、全部、私の「感覚の意見」である。



 夏目美和子「微睡(まどろ)みの中で」は列車に乗って海を見にゆく詩である。その2連目。

駅を出た列車は、町を抜けると、それまでの用心深さを捨
てスピードをあげる。あとはひたすら秋の野と山である。
起伏の激しい地形のそここににある僅かな荒涼。
一心に走る列車が急に穏やかになったことで解った。差し
かかったあたりで微睡んだらしい。目を閉じたまま、私は
大きくカーヴする車体の動きを感じている。

 (略)

列車は私を運んでいく。見なくてもいい。その必要はない。
私は微睡みの中で既に放棄していた。外には輝く美しい海。
片側の紅葉。目を瞑ったままでも感じる。あれ程見たかっ
た景色の中を、私は包まれるようにして、黙って運ばれて
行ったのだ。

 「解った」は「感じる」ことである。「感じる」ことは「解る」ことである。この「解る」はあたらしく何かがわかるのではなく、いままでに夏目が肉体の中に蓄積してきたものが、しっかり意識として再現されるということである。だから「見なくてもいい。」肉体がすべてを覚えている。
 ここには、何か斎藤の書いている「孤独」とつながるものがある。
 私が引用しなかった3連目には、その「孤独」を説明する「人事」が書かれているが、その3連目をていねいに書いていくと小説になる。夏目が書いているだけでは思わせぶりで、あまりおもしろくない。「孤独」が同情を必要とする「センチメンタル」になってしまう。「抒情」になってしまう。
 あ、これも私の「感覚の意見」だけれどね。



 みえのふみあき「泊まり木にて」。ムクドリを飼っている。その後半。

ある朝 家人が悲鳴をあげた
ムクドリは止まり木からおちて
鳥かごの床で固まっていた
きっと風のような大きな手が
ムクドリの背をやさしく押したのよ
野鳥が自分の力で
あちらの床に転がることはないわ

あちらにねえ

 凡人なら、「きっと風のような大きな手が/ムクドリの背をやさしく押したのよ」という2行に、神の意思(?)のような「意味」を読み取り(みえのの連れ合いは、そういう「意味」をこめて言ったのだと思うが)、そこに詩を感じるのだが。
 うーん。
 みえのは、そんな「意味」よりも、「あちら」ということばに反応している。
 おもしろいねえ。
 そうか、「あちら」は「彼岸」、「こちら」は「此岸」。死ぬというのは「あちら」か。なんでもないような具合に、日常的につかうことばだけれど、そのなんでもない日常的なことばが、こんなかたちでふいにあらわれてくる。その瞬間に、みえのは、ことばの運動の不思議を感じている。
 みえのの連れ合いは「あちら」に意味をこめていない。無意識だろう。その無意識のなかに、みえのは連れ合いの肉体(思想)をはっきりと感じ、思わず反応してしまった。
 みえのの「現実」がふいにあらわれた、とてもおもしろい詩である。






春2004―詩集
みえの ふみあき
鉱脈社
コメント
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