苅田日出美『あれやこれや猫車』(花神社、2012年10月18日発行)
苅田日出美『あれやこれや猫車』は、ことばの動きがとてもすっきりしている。何の抵抗もなく読むことができる。
どこにもわからないことばはない。体を調べるのに化粧は関係ないのだが、化粧をしてしまう--その気持ちも、とてもよくわかる。気持ちさえも「事実」のようにわかる。「わかる」は、まあ、「誤解」かもしれないけれどね。
「下半身もヘアまでも写っている」の「も」の繰り返しなんか、あ、いいなあ、と思う。「下半身も写っている」で十分なのだが、「ヘアまでも」と念押ししているところに、苅田の気持ちが噴出している。「ヘア」ということばも、うーん、慎み深くて(?)、思わず笑ってしまう。
苅田の驚きというか、いかりというか、そうなんだという諦めというか、そういうものすべてに「共感」してしまう。
「わかる」というのは「共感」ということだね。
で、このままでは詩なのか。少しも詩らしい表現、いわゆる「わざと」がない。ありのままを書いているだけだ……。
私は、詩、だと思うが、苅田は少し違ったふうに感じているかもしれない。この詩にはあと2連つづきがある。
「わざと」が出てくる。「デュシャンのモデル」--MRIによって衣服をはぎ取られた裸体はデュシャンのモデルのようである。私はいまデュシャンのモデルになっている--というのが苅田の気持ちだが、ここにデュシャンのモデルという、いっしゅの「気取り」が出てくる。
それ何?
あ、現代の風景として抽象的な裸体の女をデュシャンは登場させています。絵のなかの女性のことです。
うーん、デュシャンの絵を見たことがないひとが、苅田のこの詩を読んだら、わかるかな? わからないね。苅田の「わざと」は、同じ教養(?)を要求してくる性質のものである。
苅田のことばがすっきりしているのは、苅田のことばが「同じ教養」をもっているひとに向けて書かれているからだ。「同じ趣味」(好み)と言ってもいいかもしれない。絵が好きでもデュシャンの絵が好きなひとばかりとは限らないからね。
あくまで現代を象徴する病院という風景、MRIを初めとする器機と裸体という組み合わせ--そこではデュシャンでなければならない理由があるのだが、その理由を「共通感覚」としてもっている人を対象に苅田のことばは動いている。
読者を限定しているからこそ、すっきりしとした形でことばを提出できるのだといえるかもしれない。
そうすると、苅田のことばには一見「わざと」が感じられないようだけれど、ほんとうは存在することになる。
「わざと」をもう少し別な形で読んでみる。詩のなかから浮き彫りにしてみよう。「長谷川●二郎が愛した猫の」(●はサンズイに「隣」のつくり)。長谷川の描いた猫について書いている。猫の絵を見ているのに、絵であることをはなれて、そこに猫そのものをみている。そのときの、見方がちょっとおもしろい。猫の名前はタローである。
苅田は長谷川の記したタローの「履歴」を読む。そして、それが苅田のタローの理解の仕方である。タローの履歴というものは、ほんとうはそこには記されていない。それは長谷川がでっちあげた架空の履歴である。いわば、それは、「芸術」である。現実を離れ、架空をいきるとき、そこに芸術が生まれる。というべきか、あるいは架空を現実にまきこむとき、現実が浮遊して芸術に変わるというべきか。どっちでもいいが、そこにも「わざと」がある。「わざと」があるけれど、その「わざと」は、そういうことを理解してくれるひとにだけ向けて書かれた「わざと」である。
長谷川は、簡潔な絵を画家だが、その簡潔のなかには、こういう「遊び」としての「わざと」がある。それは、その絵自体にもある。タローの髭は片方しかない。写生している内に同じポーズをとらなくなり、老衰で死んでしまったから描けなくなったというのが表向きの理由である。
で、この「わざと」なのだが……。なかなかくせものである。
猫の髭が片方しかないと書いている詩の前半部分(引用しなかった部分)を振り返って引用すると、
わかったようで、わからない。というか、私は「矛盾」を感じる。実際の外観をリアルに描く場合は、猫が違ったポーズをとればたしかに絵は描けない。けれど「見ることが生まれる内なる感想」ならば、その猫がいようがいまいが描かれるのではないのか。描く対象は猫ではなく「内なる感想」なのだから。
でも、長谷川は描けなかった。外観(客観的に見えるもの)と「内なる感想」は一致していたからである。このことは、長谷川が描いていたのは、いつでも長谷川の「内なるもの」ということになる。
で、というか、だとすると。
タローの履歴も、実は、長谷川の「内なる感想」である。その「内なる感想」としてのタローの履歴を受け入れるとき、苅田は長谷川の「内なる感想」を共有することになる。長谷川の「内なる感想」は別なことばで言えば、長谷川の猫に対する「秘密の思い入れ」、「秘密の感情」でもある。「秘密」は「人柄」でもある。
「人柄」と書いたのは……。たとえば寝てばかりいる猫を「睡眠研究株式会社社長」という具合に定義するときに、そこに「好み」が入ってくるからである。何を好むか。それが知らず知らずにまぎれこむ。サティが登場する部分にいちばん「好み」が濃厚にでている。なぜ、サティ? なぜモーツァルトではない? この区別のありようは、「好み」としたいいようがない。そして、その「好み」こそ、実は「履歴」というものかもしれない。過去にどんな音楽を聞いたか、その音楽に対してどういう印象を持ったか。それが複雑につみかさなって「人柄」をつくりだす。「人柄」の背景には、その人の秘密の履歴がある。
苅田は、いわば長谷川の「秘密」(人柄)を共有する。
「猫」の絵を見るのではなく、苅田は長谷川の人柄を見て、それを自分のなかに受け入れる。自分の「内なる感情」(履歴)にする。そうして長谷川自身になる。
苅田は、そういうこと以外は目指していない。(ように、私には感じられる。)
余分なものは省き、自分の「履歴(好み)」を大切にし、それに合うものだけを最小限のことばで提出している。そしてそのとき、それをすべてのひとにわかってほしいとは言わない。苅田と同じ「履歴(好みの積み重ね)」を生きてきたひとにだけ向けてことばを発している。
この排除の構造が苅田の強みである。苅田のことばを、しっかりと受け止めてくれているひとがすでに苅田のまわりには何人も存在する。それを突き破ってまでことばを動かそうとは思っていないのだと思う。
苅田日出美『あれやこれや猫車』は、ことばの動きがとてもすっきりしている。何の抵抗もなく読むことができる。
若い医師に診てもらう日なので
念入りに化粧する
全身のMRIを受けたあと
診察室に入ったら
胴体の輪切りだけではなくて
裸の体もならべてある
ジーンパンもつけたままでいいですよといわれたのに
下半身もヘアまでも写っている
(「階段を昇り降りする裸体」)
どこにもわからないことばはない。体を調べるのに化粧は関係ないのだが、化粧をしてしまう--その気持ちも、とてもよくわかる。気持ちさえも「事実」のようにわかる。「わかる」は、まあ、「誤解」かもしれないけれどね。
「下半身もヘアまでも写っている」の「も」の繰り返しなんか、あ、いいなあ、と思う。「下半身も写っている」で十分なのだが、「ヘアまでも」と念押ししているところに、苅田の気持ちが噴出している。「ヘア」ということばも、うーん、慎み深くて(?)、思わず笑ってしまう。
苅田の驚きというか、いかりというか、そうなんだという諦めというか、そういうものすべてに「共感」してしまう。
「わかる」というのは「共感」ということだね。
で、このままでは詩なのか。少しも詩らしい表現、いわゆる「わざと」がない。ありのままを書いているだけだ……。
私は、詩、だと思うが、苅田は少し違ったふうに感じているかもしれない。この詩にはあと2連つづきがある。
心電図を撮るために
コードにつながれ
五分ほど階段を昇り降りする
負荷運動をくりかえしている
そこにはもはや私ではなく
デュシャンのモデルがいるのだった
「わざと」が出てくる。「デュシャンのモデル」--MRIによって衣服をはぎ取られた裸体はデュシャンのモデルのようである。私はいまデュシャンのモデルになっている--というのが苅田の気持ちだが、ここにデュシャンのモデルという、いっしゅの「気取り」が出てくる。
それ何?
あ、現代の風景として抽象的な裸体の女をデュシャンは登場させています。絵のなかの女性のことです。
うーん、デュシャンの絵を見たことがないひとが、苅田のこの詩を読んだら、わかるかな? わからないね。苅田の「わざと」は、同じ教養(?)を要求してくる性質のものである。
苅田のことばがすっきりしているのは、苅田のことばが「同じ教養」をもっているひとに向けて書かれているからだ。「同じ趣味」(好み)と言ってもいいかもしれない。絵が好きでもデュシャンの絵が好きなひとばかりとは限らないからね。
あくまで現代を象徴する病院という風景、MRIを初めとする器機と裸体という組み合わせ--そこではデュシャンでなければならない理由があるのだが、その理由を「共通感覚」としてもっている人を対象に苅田のことばは動いている。
読者を限定しているからこそ、すっきりしとした形でことばを提出できるのだといえるかもしれない。
そうすると、苅田のことばには一見「わざと」が感じられないようだけれど、ほんとうは存在することになる。
「わざと」をもう少し別な形で読んでみる。詩のなかから浮き彫りにしてみよう。「長谷川●二郎が愛した猫の」(●はサンズイに「隣」のつくり)。長谷川の描いた猫について書いている。猫の絵を見ているのに、絵であることをはなれて、そこに猫そのものをみている。そのときの、見方がちょっとおもしろい。猫の名前はタローである。
タローには履歴書がある
寝てばかりいるので職業は
睡眠研究株式会社社長
万国なまけもの協会名誉顧問 となっている
サティを聴き
《賢き猫は摂生をもって飲食す》
というフランス語に造詣が深いという
その体重は「ずっしりと重し」
身長は「不明 時により変化す」と記されている
苅田は長谷川の記したタローの「履歴」を読む。そして、それが苅田のタローの理解の仕方である。タローの履歴というものは、ほんとうはそこには記されていない。それは長谷川がでっちあげた架空の履歴である。いわば、それは、「芸術」である。現実を離れ、架空をいきるとき、そこに芸術が生まれる。というべきか、あるいは架空を現実にまきこむとき、現実が浮遊して芸術に変わるというべきか。どっちでもいいが、そこにも「わざと」がある。「わざと」があるけれど、その「わざと」は、そういうことを理解してくれるひとにだけ向けて書かれた「わざと」である。
長谷川は、簡潔な絵を画家だが、その簡潔のなかには、こういう「遊び」としての「わざと」がある。それは、その絵自体にもある。タローの髭は片方しかない。写生している内に同じポーズをとらなくなり、老衰で死んでしまったから描けなくなったというのが表向きの理由である。
で、この「わざと」なのだが……。なかなかくせものである。
猫の髭が片方しかないと書いている詩の前半部分(引用しなかった部分)を振り返って引用すると、
ひたすらに
猫を見つめている
見ることで生まれる内なる感想を描いているから
タローの髭は描けなかった
わかったようで、わからない。というか、私は「矛盾」を感じる。実際の外観をリアルに描く場合は、猫が違ったポーズをとればたしかに絵は描けない。けれど「見ることが生まれる内なる感想」ならば、その猫がいようがいまいが描かれるのではないのか。描く対象は猫ではなく「内なる感想」なのだから。
でも、長谷川は描けなかった。外観(客観的に見えるもの)と「内なる感想」は一致していたからである。このことは、長谷川が描いていたのは、いつでも長谷川の「内なるもの」ということになる。
で、というか、だとすると。
タローの履歴も、実は、長谷川の「内なる感想」である。その「内なる感想」としてのタローの履歴を受け入れるとき、苅田は長谷川の「内なる感想」を共有することになる。長谷川の「内なる感想」は別なことばで言えば、長谷川の猫に対する「秘密の思い入れ」、「秘密の感情」でもある。「秘密」は「人柄」でもある。
「人柄」と書いたのは……。たとえば寝てばかりいる猫を「睡眠研究株式会社社長」という具合に定義するときに、そこに「好み」が入ってくるからである。何を好むか。それが知らず知らずにまぎれこむ。サティが登場する部分にいちばん「好み」が濃厚にでている。なぜ、サティ? なぜモーツァルトではない? この区別のありようは、「好み」としたいいようがない。そして、その「好み」こそ、実は「履歴」というものかもしれない。過去にどんな音楽を聞いたか、その音楽に対してどういう印象を持ったか。それが複雑につみかさなって「人柄」をつくりだす。「人柄」の背景には、その人の秘密の履歴がある。
苅田は、いわば長谷川の「秘密」(人柄)を共有する。
「猫」の絵を見るのではなく、苅田は長谷川の人柄を見て、それを自分のなかに受け入れる。自分の「内なる感情」(履歴)にする。そうして長谷川自身になる。
苅田は、そういうこと以外は目指していない。(ように、私には感じられる。)
余分なものは省き、自分の「履歴(好み)」を大切にし、それに合うものだけを最小限のことばで提出している。そしてそのとき、それをすべてのひとにわかってほしいとは言わない。苅田と同じ「履歴(好みの積み重ね)」を生きてきたひとにだけ向けてことばを発している。
この排除の構造が苅田の強みである。苅田のことばを、しっかりと受け止めてくれているひとがすでに苅田のまわりには何人も存在する。それを突き破ってまでことばを動かそうとは思っていないのだと思う。
空き家について―詩集 (1982年) | |
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