小川三郎『象とY字路』(2)(思潮社、、2012年10月10日発行)
きのう小川の詩集を読みながら、詩は「誤読」をして、その「誤読」を棄てるときに、詩人と出会えると書いた。そういうことを書きながら、こんなことを書くのは矛盾しているのだが、きょうは「誤読」を書きたい。「誤読」をほどかずに、「誤読」として封印してみたい。
「賭け」という作品。
この「あなた」とは誰なのか。「人間のすんでいるところは」と書き出しているのは、その感想をもつ「あなた」が人間ではないからだろうか。ふつうに考えるとそうなるけれど、そうとは限らない。自分を客観的(?)にみつめて、つまり対象化して「人間は」と一般名詞で言ってみただけかもしれない。
そうすると、この1連目は「自問自答」の導入部ということになる。
この部分は、とてもおもしろい。「住んでいる」というとき、私は「場所」を思う。住むには場所がなくてはならない。ホームレスでさえ、ブルーシートで囲った「場所」を確保して、そこに「住んでいる」。
ところが、「あなた」ではないもう一人の人間(私=小川と、仮に呼んでおく)は、「住んでいるんじゃない」と「住む」という「動詞」そのものを否定する。
「あなた」は「ある場所」を指し示し、「住んでいるところ」と言ったが、「私」は「住む」という動詞を否定する。そうすると、その動詞の否定によって「世界」ががらりと転換する。
それも転換したのかしないのか、気づかないような、ほんとうの瞬時に。
小川をまねして言ってしまうと、つまり「つまり」ということばで「説明」するようにみせかけながら説明を拒絶して、説明できない「飛躍」をする。--その説明のできないものをあえて説明すれば。
ここに「飛躍」がある。「ところ(場所)」に住んでいるのではなく、覚えている。それも「頭」で覚えているのではなく肉体で覚えている。
覚えているということは、つかえる、しかも肉体をつかって何かができるということである。だから、
「ところ(場所)」は存在するためにあるのではなく、隠れるためにある。しかし、隠れるというのも「存在する」ということではある。--と考えると、ここに「矛盾」があるね。つまり、ここに「思想(ほんとうの肉体)」があるということだ。
「住む」というのは、いわば「自己主張」である。「私はここにいる」と他人に宣言し、そこから関係をつくっていく。けれど人間の関係はそうした明瞭なものではなく、逆に「隠れる(自分を隠す)」というところからも出発し、見つめなおすことができる。
「隠れる(隠す)」から「見る」「見えている」へとことばが「飛躍」している。そこには「視力」が働く「こと」によって、世界をどのようにな「意味」にも転換(変更)できることの不思議さがある。
「とんでもなく低い空」というおもしろいことばが、その不思議さを象徴的に語っている。「とんでもなく高い空」というのは、たとえば雲ひとつなく澄み渡り空の天井が特定できない感じだけれど、「とてつもなく低い空」って、どこ? どこからが空? 私たちはどこまでが空か、その高さを想像することはできるが、どこからが空か、その起点を想像することができない。だから「とてつもなく低い空」というものは想像できない。想像できないのに、それがことばになってしまうと、あたかもそれが存在するかのように、そして想像できるかのように錯覚してしまう。
こういう変な現象は、いつでも起きる。そして、その変な現象のひとつが、先に触れたことがらである。
「住んでいるところ」を「住んでいるんじゃない」と言いなおすと、「ところ」が消えて「隠れている」という動詞だけの世界に「飛躍」する。それから「隠れる(隠す)」という動詞から「見える」「見えている」へとさらに「飛躍」する。
「ところ」が消え、「住む」という動詞の「意味」、住む=生きるという動詞、生きるということの「意味」が、ぬるっとにじみでくる。
この、不思議な形でにじみでてきた「意味」は、人間にどう影響するのだろうか。そのことは、面倒くさいので省略。
最後の部分がまたおもしろかった。すっ飛ばして、そのことを書いておく。
途中をすっとばしたのは、最終連が「つまり」で始まっていることとも関係する。「つまり」は小川にとっては「説明抜き飛躍」の合図である。小川が説明抜きに書いているのだから、そこに私が説明を書き加えてみたって、「誤読」にすぎないし、その「誤読」をもういちどほどいて見せるという面倒は、もうやってみせる必要はないだろうと思うからだ。
で、何がおもしろかったかというと。
とても単純な「だじゃれ」のようだが、「賭け」が「影」のように感じられたのである。この詩では「あなた」と「私」が対話しているのだが、それは「私」と「私の影」の対話のように見える。それが最後の「賭け」によって、実は「あなたは影でした」と種明かしされているように見えた、ということである。
「あなた」は「私の影」というのは、ものすごく単純な「意味」である。この詩はそういう単純な「流通言語」でなはなく「流通意味(?)」に封印して、もういちど最初に引き返し読み直すと、ことばのスピードが一気に加速するかもしれない。
きのう小川の詩集を読みながら、詩は「誤読」をして、その「誤読」を棄てるときに、詩人と出会えると書いた。そういうことを書きながら、こんなことを書くのは矛盾しているのだが、きょうは「誤読」を書きたい。「誤読」をほどかずに、「誤読」として封印してみたい。
「賭け」という作品。
人間の住んでいるところは
不思議だな、
とあなたがため息をついて言うから
また同じ説明をした
この「あなた」とは誰なのか。「人間のすんでいるところは」と書き出しているのは、その感想をもつ「あなた」が人間ではないからだろうか。ふつうに考えるとそうなるけれど、そうとは限らない。自分を客観的(?)にみつめて、つまり対象化して「人間は」と一般名詞で言ってみただけかもしれない。
そうすると、この1連目は「自問自答」の導入部ということになる。
あれは
住んでいるんじゃないんだよ。
つまり
そこを覚えているだけなんだ。
大体あんな小さなところに
人が住めるわけないじゃないか。
つまりそこに
うまく隠れているわけなんだ。
この部分は、とてもおもしろい。「住んでいる」というとき、私は「場所」を思う。住むには場所がなくてはならない。ホームレスでさえ、ブルーシートで囲った「場所」を確保して、そこに「住んでいる」。
ところが、「あなた」ではないもう一人の人間(私=小川と、仮に呼んでおく)は、「住んでいるんじゃない」と「住む」という「動詞」そのものを否定する。
「あなた」は「ある場所」を指し示し、「住んでいるところ」と言ったが、「私」は「住む」という動詞を否定する。そうすると、その動詞の否定によって「世界」ががらりと転換する。
それも転換したのかしないのか、気づかないような、ほんとうの瞬時に。
つまり
小川をまねして言ってしまうと、つまり「つまり」ということばで「説明」するようにみせかけながら説明を拒絶して、説明できない「飛躍」をする。--その説明のできないものをあえて説明すれば。
住んでいるんじゃない→覚えている
ここに「飛躍」がある。「ところ(場所)」に住んでいるのではなく、覚えている。それも「頭」で覚えているのではなく肉体で覚えている。
覚えているということは、つかえる、しかも肉体をつかって何かができるということである。だから、
住んでいるんじゃない→隠れている
「ところ(場所)」は存在するためにあるのではなく、隠れるためにある。しかし、隠れるというのも「存在する」ということではある。--と考えると、ここに「矛盾」があるね。つまり、ここに「思想(ほんとうの肉体)」があるということだ。
「住む」というのは、いわば「自己主張」である。「私はここにいる」と他人に宣言し、そこから関係をつくっていく。けれど人間の関係はそうした明瞭なものではなく、逆に「隠れる(自分を隠す)」というところからも出発し、見つめなおすことができる。
ほら
カーテンの隙間から
じっとこちらを伺っている目があるだろう。
私らの態度が
気になってしょうがないんだ。
屋根裏から伸びている階段から
とんでもなく低い空へ向かって
人間たちは昇っていく。
家は単にその通り道で
住んでいるように
見えているだけ。
「隠れる(隠す)」から「見る」「見えている」へとことばが「飛躍」している。そこには「視力」が働く「こと」によって、世界をどのようにな「意味」にも転換(変更)できることの不思議さがある。
「とんでもなく低い空」というおもしろいことばが、その不思議さを象徴的に語っている。「とんでもなく高い空」というのは、たとえば雲ひとつなく澄み渡り空の天井が特定できない感じだけれど、「とてつもなく低い空」って、どこ? どこからが空? 私たちはどこまでが空か、その高さを想像することはできるが、どこからが空か、その起点を想像することができない。だから「とてつもなく低い空」というものは想像できない。想像できないのに、それがことばになってしまうと、あたかもそれが存在するかのように、そして想像できるかのように錯覚してしまう。
こういう変な現象は、いつでも起きる。そして、その変な現象のひとつが、先に触れたことがらである。
「住んでいるところ」を「住んでいるんじゃない」と言いなおすと、「ところ」が消えて「隠れている」という動詞だけの世界に「飛躍」する。それから「隠れる(隠す)」という動詞から「見える」「見えている」へとさらに「飛躍」する。
「ところ」が消え、「住む」という動詞の「意味」、住む=生きるという動詞、生きるということの「意味」が、ぬるっとにじみでくる。
この、不思議な形でにじみでてきた「意味」は、人間にどう影響するのだろうか。そのことは、面倒くさいので省略。
最後の部分がまたおもしろかった。すっ飛ばして、そのことを書いておく。
つまり
どちらが先にここを出ていくのか
私は賭けをしているんだ
途中をすっとばしたのは、最終連が「つまり」で始まっていることとも関係する。「つまり」は小川にとっては「説明抜き飛躍」の合図である。小川が説明抜きに書いているのだから、そこに私が説明を書き加えてみたって、「誤読」にすぎないし、その「誤読」をもういちどほどいて見せるという面倒は、もうやってみせる必要はないだろうと思うからだ。
で、何がおもしろかったかというと。
とても単純な「だじゃれ」のようだが、「賭け」が「影」のように感じられたのである。この詩では「あなた」と「私」が対話しているのだが、それは「私」と「私の影」の対話のように見える。それが最後の「賭け」によって、実は「あなたは影でした」と種明かしされているように見えた、ということである。
「あなた」は「私の影」というのは、ものすごく単純な「意味」である。この詩はそういう単純な「流通言語」でなはなく「流通意味(?)」に封印して、もういちど最初に引き返し読み直すと、ことばのスピードが一気に加速するかもしれない。
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