詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中宏輔『The Wasteless Land. Ⅶ』

2012-10-18 10:55:13 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land. Ⅶ』(書肆山田、2012年10月15日発行)

 読まなくても書ける感想というものがある。というこ、いいかげんな話になってしまうが、読んだところで読んだことにはならないから、読まなかったことにして書いてしまう感想といいかえればいいのか。まあ、どっちにしたって、いいかげんであることにかわりはないのだが。
 田中宏輔『The Easteless Land. Ⅶ』が、そういう詩集である。
 私はこの詩集をいいかげんに読んだ。いいかげんにしか読むことができない。だから、この感想はいいかげんなものである。私は田中の詩は好きだが、ときどき手に負えないものがある。たとえば今回の「引用」でつくられた詩集である。
 「Interlude 」という作品の冒頭。

何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
たしかに、
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
僕のものだった。
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
小波(さざなみ)の渦が
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
ハンカチを巻いて
                (コクトー『恐るべき子供たち』1、東郷清児訳)
すうっと消える。
                 (リルケ『まる手の手記』第一部、大山定一訳)

 すべての行が「引用」なのだが、ほんとう? それを確かめる方法は? まあ、「出典」にあたり、その部分を探しながら読めばいいのだろうけれど、私にはそんなことをする気持ちはさらさらない。
 だいたい「たしかに、」というようなことばは、『肉体の悪魔』だけにしかないのか。ナボコフやコクトー、リルケはつかっていないのか。そんなことはないだろう。ほかにも多くの作家がつかっている。私だってつかっている。つまり、この詩に対して、「たしかに、」は私(谷内)の文章から引用されたものであってラディゲとは関係がないと主張しようとすれば主張できる。ラディゲのことば(新庄嘉章のことば)であるという刻印はどこにもない。それなのに、なぜ?
 田中は『肉体の悪魔』で「たしかに、」ということばを初めて知った? そんなことはないだろう。知っていることばしかひとは読むことはできないし、知っていることばしか引用できない。それはすでに田中自身のことばであったはずだ。
 それなのに、なぜ?
 もし、「たしかに、」に特別な意味があるのなら、それは「たしかに、」だけで成り立っている特別ではなく、そのことばの前後、文脈と関係している。文脈を省略して田中は引用している。この1行からだけでは、どういう特徴があるのがわからない。
 もし、それがわかるひとがいるとしたら、それは田中だけである。
 よろしい。田中が、その特別な理由を知っているとしよう。で、その田中に、では「この引用された『たしかに、』とほかのページにある『たしかに、』--もし、それがあると仮定した上での話だが--と、どこが違うのか、と質問したら、田中は何と答えるだろうか。克明に違いを語るだろうか。まあ、語るかもしれないけれどね、その説明が、それでは質問した相手に届くかというと、届かないね。質問者は説明が聞きたくて聞いたわけではなく、こんなむちゃくちゃな方法があるか、と抗議している。その抗議をつたえることが質問するということだからね。
 簡単に言うと、ここではどんな質疑応答も成り立たない。何を聞いたって、何を答えたって、それは「自分」を語るだけであって、しかもそれは自分が納得するだけのことばだからだ。
 こうやって、いま、私が書いていることばも、ね。

 「引用」というか、「出典」の明示は無意味なのだ。別な言い方をしみよう。
 たとえば最初の部分を、

何か落としたぞ、
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
ほら、きみのだ。
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)
たしかに、僕のものだった。
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

 と書き換えてみよう。何が変わった? 「本文(?)」の「意味」はかわらない。だれかが何かを落とし、それに対しあるひとが「何か落としたぞ、ほら、きみのだ。」と指摘し、それに対してもうひとりが「たしかに、僕のものだった。」と答えたことに変わりはない。
 でも、ほんとうに何も変わらない?
 これは、実は、答えることがとてもむずかしい。
 実は、大きく変わっている。
 「何が?」ということではこたえられない「こと」が変わっている。「何が」ではなく「どのように」と考えれば少しはそのことがわかるかもしれない。

何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
                (ナボコフ『ベンドシニスター』1、加藤光也訳)

 これはひとつづきのことばである。つまり「1行」のことばであり、もしかするとそれはページの関係で2ページにまたがっているかもしれないが、まあ、1ページのなかにあると読んでも差し支えがない。
 ところが、

たしかに、
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)
僕のものだった。
                     (ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

 これは、どうだろうか。「1行」のものではない、とふつうは考えるだろうと思う。「たしかに、」は3ページ目にあり、「僕のものだった。」はそれから離れた75ページ目にある。そんなに離れていなくても、少なくとも「たしかに、」と「僕のものだった。」のあいだには別のことばが入っている。そこには「切断」がある。「切断」というか「断絶」があるのに、田中はそれをないかのようにして引用している。
 その「切断(断絶)」と「接続」の感じが、ある行をどのように引用するかによって変わってくる。
 つまり、中田は、ことばの「切断」と「接続」を「どのように」組み合わせるか、ということのなかに詩を見つけ、それをここで再現しているということなのだ。

 詩とは「たしかに、」(これは、だれからの引用?)切断と接続なのである。
 詩を手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いと定義したひとがいるが、そこに言い表されていることも「切断」と「接続」である。本来(?)的な「接続」からいえばミシンは家庭の一部屋に属し(接続し)、こうもり傘は玄関かくつ箱か、あるいは雨の日の戸外に属し(接続し)、手術台とは「切断」されている。無関係である。それが、手術台を含めて、まったく無関係であるにもかかわらず、手術台を「場」として出合ってしまう、接続してしまうと、そこに一種の意識の混乱、ショートのようなものが起きる。これを固定観念からの意識の解放と呼ぶこともできる。自由な意識・精神ということもできる。
 そういう解放・自由を感じさせることばの運動が、詩、である。
 というわけだ。

 で、ね。(と、私は、ここで「飛躍」する。つまり、それまでの説明をいったん放棄し、またいいかげんなことを言いはじめる。そして、このことに対しては説明を求められても、そんなことはわかんないよ、と答えを拒絶するということなのだが……。)

 で、ね。
 この、田中のやっている「切断」と「接続」の関係は、実は、読んでいるだけでは「快感」にならない。ちっともおもしろくない。
 これは、私の「感覚の意見」であって、ほかのひとは違うかもしれないけれど、私の感じていることを書いてしまうと。
 田中の詩が「快感」になるのは、実は、読んでいるときではなく、書いているときである。

何か落としたぞ、ほら、きみのだ。
たしかに、
僕のものだった。
小波の渦が
ハンカチを巻いて
すうっと消える。

 と書いてしまうと、ぜんぜんおもしろくない。何か古くさいセンチメンタルな感じがしてしまう。書いていて、田中には悪いが、ぎょっとしてしまう気持ち悪さがある。
 ところがこれを、 1行書く度に「出典」を明記すると、そのたびに、いったん意識が本文から離れる。別の世界へ行く。そして、さらに「本文」に戻ってくる。それからまた別の世界へ行く。また戻る。そういうことをしていると、「本文」とは別の世界を行き来する不思議な「自由」があふれてくる。それが気持ちがいい。
 「本文」の「意味」なんか、どうでもいい。「意味」を無視して、どこかをふらつく。そうしているうちに、あ、これは「本文」とつながるかもしれない、と瞬間的に思う。インスピレーションがやってくる。それをつないでみる。その楽しさ。
 
 読んでも楽しくない。でも、これを書いてみると楽しい。
 ということは、と、また私は得意を飛躍をする。
 田中は、あるテーマというか「結論」を想定して詩を書きはじめているのではない。とりあえず、ある1行、あることばにひかれ、それを書いてみる。それから、そのつづきを懸命に探すというよりはなんとなくどこかへ行けるかなくらいの気持ちでいろいろ本を読む。そうすると、ふと別のことばが最初に引用したことばと結びつくような感じがする。その「結びつく感じ(接続の予感)」を信じて2行目を書く。書き終わったら、またほかの何かを探しはじめる……。
 そんな感じでことばを楽しんでいる、そう思えてくるのだ。
 そうやってできあがる詩--それはどこへ行くのか。それはわからない。わからないから詩なのだ。わからなくてもどこかへ行ってしまう。そうして、それを追いかけると田中自身もそれまでの自分から切り離された別人になる。それが楽しいのだ。
 人間だから、別人になるといっても肉体は切断されず、接続してるんだけれどね。

 ここで突然「肉体」ということばを持ち出したのは、あまりにも唐突かもしれないけれど、それは私がこれから書くことに比べたら唐突ではないだろうなあ、と思う。
 私が思わず「肉体」ということばを持ち出したのは、先に書いたように、あれこれ「引用」にふさわしいことばを探していると、その探すという動き・運動のなかに、何かしら「ことばの肉体」のようなものがあるなあ、と実感する。本をめくり、ことばを探すのは生身の「肉体」なのだが(精神、意識というひともいるかもしれないけれど)、それに似たもの、ことば自身の「肉体」というものがあって、「ことばの肉体」は「ことばの肉体」でもって、自分の「肉体」となじんでくれる「肉体」をこそ探しているという感じがしてくる。私(ここからは、私の体験になる)がことばを探しているのではなく、引用されたことば(の肉体)が、自分にふさわしいことば(の肉体)を探しているという感じがし、もう「私」なんか、どうでもいいのだ。あとは、ことばの肉体の運動にまかせればいいのだ、という気持ちになる。

 あ、ほんとうに「いいかげん」な感想になってしまったなあ。
 でも、「いいかんげん」だから、そこには「うそ」はないよ。何か「正しいこと」を言おうとすると、どうしたってどこかで「うそ」をつかないと結論らしくならないからね。--って、この詩集のどこかにもそんなことが書いてなかった?
 探してみてください。そうして、私のようないいかげんな感想ではなく、きちんとした感想をだれか書いてください。




The Wasteless Land. 6
田中宏輔
書肆山田
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