詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トニー・ギルロイ監督「ボーン・レガシー」、オリヴィエ・マルシャル監督「そして友よ、静かに死ね」

2012-10-07 10:38:44 | 映画
「ボーン・レガシー」(★★)
監督 トニー・ギルロイ 出演 ジェレミー・レナー、レイチェル・ワイズ、エドワード・ノートン
「そして友よ、静かに死ね」(★★★)
監督 オリヴィエ・マルシャル 出演 ジェラール・ランヴァン、チェッキー・カリョ 、ダニエル・デュバル

 2本の映画を見終わって感じるのは、「顔」というものはこんなに違うのか、ということである。
 「ボーン・レガシー」。ジェレミー・レナーはたいへんな童顔である。顔が短く、丸いということが影響しているかもしれないが、ともかく幼く、つるりとした印象がある。で、彼が豪腕のCIA要員というのだが、どうも私にはそんなふうに感じられないのである。「ハード・ロッカー」のときもそうだったが、なんというか「緊迫感」がない。「緊迫感」というのはきっとそこに危険があるということではなく、危険を認識する能力のことなのである。子どもは、まあ、何が危険か知らない。だから、どんなときでも緊迫感がない。見ている観客は、あ、危険なシーンだと思うかもしれないが、役者の肉体から緊迫感がつたわってこない。こういう顔は、この手の映画には向かないなあ、と私は感じる。
 特にそう感じたのが、ジェレミー・レナーがウィルスによって熱を出しているシーン。病院にいる。顔にはかさぶたというか、傷というか、まあ、汚れが浮き出ていて、たいへんな病気ということはわからないではない。けれど。童顔であるために、ジェレミー・レナーが「かわいそう」とは思っても、ぜんぜん心配にならない。だって、子どもって、どんな病気でも平気で回復してしまうでしょ? そんな感じなのだ。肉体の内部まで病気が冒しているという感じがしないなあ。つるんとした肌、赤ん坊みたいな肌が、ウィルスであらされている、苦しんでいる--というのは、さっき書いたが「かわいそう」ではある。で、この「かわいそう」は女性観客の母性本能を刺激するかもしれない。「かわいそう」から始まるこころの動きが、不思議な「一体感」へと変わっていく。
 ほら、レイチェル・ワイズが単に被害者ではなく、いっしょに闘ってしまうところが、なんともいえずおもしろいでしょ? 現実にはこんなことはないなあ。映画だから、もちろん現実的である必要はないんだけれど。いちばんの見せ場であるオートバイにのって逃げるシーン。最後にレイチェル・ワイズが追ってくる殺し屋をバイクの後ろにしがみつきながら蹴る。闘っているのはレイチェル・ワイズ。逃げているのはジェレミー・レナー。昔のスパイ映画なら、ここは女に運転させて、男が闘うという場面だねえ。
 まあ、この映画では逃げるときの運転技術の方に力点があるからジェレミー・レナーが運転するのだという見方もあるだろうけれど、そういうときはそういうときで女は後ろからしがみついているだけ、男はそういう「負」をかかえながら敵と戦うということろに昔の映画の「男の責任」というものがあったんだけれどね。
 まあ、ジェンダーなんかはもうとっくに消え去ってしまっているから、これはこれでいいんだろうけれどね。
 で、主役がこういう「童顔」なので、悪役もとってもかわっている。エドワード・ノートン。この顔も、いわゆる「男顔」ではない。半透明な感じがあって、その半分透明であることを利用して他人を引き込むタイプ、だますタイプだね。これもまあ、昔でいえば「女殺し」のタイプだなあ。
 というわけで、これは、こんなことを書くと女性差別と叱られるかもしれないが、女性向けの「ボーン」シリーズだね。

 「そして友よ、静かに死ね」。こちらは昔ながらの「男の世界」。そして顔はというと、とっても老けている。皺が深く顔に刻み込まれ、髪も白いものが目立つ。簡単に言うと顔が「過去」を持っている。そしてその「過去」には共通項がある。
 その「過去」の共通項を観客の男が(たとえば私が)持っているわけではないが、登場人物が何人もいて、彼らがそれを共有していると、なんとなく同じ「過去」が自分のなかにもあるように感じてしまう。
 「ボーン・レガシー」が、いわば観客の持っていない「過去」、持っていたけれどもなくしてしまった「過去」、つまり純真で回復力のある力、回復力があるのだけれど守ってやらないと傷ついてしまういのちを前面に出してきて「母性本能」を刺激するのとは、まったく違うね。
 男は「母性本能(父性本能?)」が十分ではなく、もっと甘えん坊で、付和雷同型であるから、童顔には共感せずに、「頑固な過去」にあこがれてしまう。もしかしたら自分もそんなふうに「未来」を生きることができるかもしれない。顔に刻まれた「過去」を見ながら、自分の「過去」と重ねるのではなくて、自分の「未来」(可能性)と重ねる。
 ばかだねえ。ほんとうに。
 まあ、そういうばかを相手に、ていねいにていねいにつくられた映画だ。
 映画の細部のていねいさが「ボーン」とはまったく違う。その典型が、ジェラール・ランヴァンがギリシャ人を殺しにゆくシーン。その直前のシーン。安全剃刀でクレジットカードを削っている? 何してる? 何のために? クレジットカードのなかに何か隠している? 実はクレジットカードのなかに安全剃刀を仕込んでいる。凶器をつくっている。悪党の家に行くのだから当然ボディーチェックは受ける。銃は持って行っても取り上げられることがわかっている。でも、ポケットにいれたクレジットカードがまさか安全剃刀を仕込んだ凶器とは思わない。サバイバルナイフならボディーチェックで見つけ出せるが、クレジットカードとはねえ。
 ジェラール・ランヴァンがギリシャ人の首根っこを押さえつけて、頸動脈を切った瞬間、直前のクレジットカードを削っているシーンが私の頭の中でフラッシュバックし、「やられた」と思いました。そうか「過去」はこんな具合につくるのか……。
 この映画では、過去のシーンがフラッシュバックで何度も描かれるが(そのシーンは傷だらけのフィルムという感じがして、とてもうれしい)、観客の頭の中で必然的に起きるフラッシュバックは映画のなかでは再現しない。これが、とてもにくい。いやあ、これはいいなあ、と思う。
 「過去」の作り方、つまり「生き方」を、この映画は観客に見せるのだけれど、そうだねえ、これが「男の映画」なんだなあ、まあ、思った。こういう映画は古いといってしまえば古いのだけれど、いいじゃないか、古くあることを目指しているんだから。
          (「ボーン・レガシー」2012年09月30日、天神東宝シネマ3)
        (「そして友よ、静かに死ね」2012年09月04日、KBCシネマ2)





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