詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎『象とY字路』

2012-10-09 10:36:39 | 詩集

 詩を読んだとき(ことばを読んだとき)、そこに「書かれていない意味」を感じるときがある。--というのは、正確ではなくて、そこに書かれていることばが日常と違うために、「そこには意味が隠されているのではないか」と探してしまう、ということがよくある。
 たとえば「象」。

象は育ちすぎてしまって
入る小屋がない。

みんながむこうで新しく
大きな小屋を作っているが
出来上がるまでに
象は死んでしまう。

(悪魔がいるのです
この美しい世界には
悪魔がいるのです)

象は自分より
小さな小屋へと
歩いていく。

(誰もが苦しんでいるのです
自分の身体を抱きしめて
私がここにいるのです)

みんながいくらなだめても
象は小屋に入ろうとする。

(悪魔がいるのです)

今朝まで難なく入れていたのに
今日は大きくなりすぎた。

(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)

今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。

 大きくなった象。小屋に入れなくなった象。その象のために新しい小屋を作っている。それを見ながら、象は別なことを考えている。(悪魔がいるのです)と。
 このとき、象と小屋と悪魔の関係は?
 はっきりわからない。だいたい、それが「関係」であるかどうかも怪しいのだけれど、何らかの関係、つまり結びつきがあると考えてしまう。
 「意味」は、何かしらかけ離れたもの(?)を結びつけるという運動のなかにある。結びつけるという「動詞」のなかにある。そして、その「関係」だけを、つまり「動詞」だけを取り出すというのはとてもむずかしい。
 で、こういうとき、人はどうするか。
 人は、ではなく、私はどうするか、というべきか。
 とても簡単である。
 「象」は何かの象徴である。「小屋」も象徴である。象徴であるということは、実は、象は象ではなく、小屋は小屋ではないということである。
 たとえば象は「こころ」を象と言い換えたものである。何かのために巨大に膨れ上がった「こころ」。たとえば怒りのために、嫉妬のために膨れ上がったこころ。それは、いままでこころが入っていた「小屋」、つまり「肉体」のなかには入りきれない。もっと別の「肉体」が必要だ。でも、そんなものはつくれない。人は「こっちの小屋に入ればいい」と大きいものをつくってみせる。(まあ、これは、怒りの鎮め方を教えてくれる、というようなことかもしれない。)でも、こころは、昔のままの、いままでの肉体に帰っていきたい。それが自分の「すみか」だから……。
 ああ、なんてことばは便利なのだろう。なんて空想は便利なのだろう、と私はときどき思う。こんなふうに書いてしまうと、そこに、ほんとうに「意味」が生まれてくる。こういうことは、ほんとうに簡単にできてしまう。
 でもねえ、これが問題なのだ。この「誤読」が実はやっかいなのだ。
 このとき私は小川のことばを読んでいるふりをしながら、小川のことばを遠ざけて、自分の都合にあわせて小川のことばを利用しているにすぎない。
 これでは詩を読んだことにはならない。
 象をこころを象徴したものである、ととらえてはだめなのだ。象は象のまま、そこに実感できないとだめなのだ。象の耳や、鼻の皺や、太い足のさきっぽを飾る爪、それから肛門を隠したりみせたたするしっぽ--そういうものが見えないといけない。小さくなってしまった小屋の入り口も見えないといけない。象はこころの象徴、という具合に考えてしまった瞬間から、そういうものは見えなくなる。
 象徴詩には「もの」ではなく「関係」が書かれている。関係こそが「世界」である、というような、わかったようなことを言ったって何にもならない。

 これは、そして、書いている詩人にとっても重要な問題である。
 象を小川はいつまで見ていたのだろうか。大きくなりすぎた象そのものを、象徴ではなく、生き物、動物として見ていたのだろうか。
 これが、実は、よくわからない。
 よくわからないけれど。
 しかし。

(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)

今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。

 この最後の部分は、あ、小川は象をもう一度見ている。見えている、ということが感じられる。象は、こころの象徴ではなく、象そのものである、と感じる。
 こころは、象にはならず、

(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)

 と「気持ち」になって、別に存在するからである。象徴であることでは満足できずに、こころが象を突き破ってしまう。そうすると、象は象徴であることの内部から(こんな言い方しか私にはできないが)、象そのものを破ってしまって自己主張してしまう。そのとき、見えないはずの「こころ」というものが、なぜか、見えたような感じがする。
 「重い(おもさ)」と「地球を貫く」の「貫く」という動詞、動きの中に、「こころ」が「こと」になる瞬間があり、そこに瞬間的に象があらわれてくる。
 これは「錯覚」なのかもしれないが、その「錯覚」にぐいっと私は引きずり込まれる。ブラックホールに引き込まれるようなものである。
 象が象であることを止めて、気持ちになって、象徴である象を突き破って噴出するというのは、何か矛盾した言い方だが、矛盾しているからこそ、そこにブラックホールのようなものを感じ、それを「真実」だと感じる。
 で、その象は、もう象ではないのだから

今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。

 ということになる。
 この「見る」「見られない」は「意味」ではないのだ。「意味」にならない、何かなのだ。名詞では定着できない「こと」、運動そのものが引き込む「異次元」なのだ。
 もし、この詩に「意味」があるとすれば、つまり単なる「論理」ではなく「肉体になってしまった思想」というものがあるとすれば、この最後の瞬間にある。
 象ということばで書きはじめて、小川は、その象ではあらわせない何かにかわってしまった。その「かわる」という「こと」のなかに思想(肉体)があるのだけれど。
 これは、書けない。私のことばでは追いついてゆけない。
 で、こういうとき、どうするか。ただ読み返す。読み返して、そのことばが私の肉体のなかで「意味」にならないまま落ち着くのを待つしかない。
 詩は「意味」を棄てさせてくれることばの運動である。そして「意味」を棄てるためには、最初に書いたように、読者は自分自身で「意味」をつくってみる必要がある。「誤読」してみる必要がある。「誤読」して、「誤読」では追いつけないものにぶつかり、そこから自分の「誤読」をほどいていく。
 そうすると、ある瞬間に、小川と出合える、出合ったという気持ちになれる。
 これは錯覚にすぎないかもしれないけれど、私は、そういう瞬間のために詩を読んでいる。



象とY字路
小川 三郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする