詩を読んだとき(ことばを読んだとき)、そこに「書かれていない意味」を感じるときがある。--というのは、正確ではなくて、そこに書かれていることばが日常と違うために、「そこには意味が隠されているのではないか」と探してしまう、ということがよくある。
たとえば「象」。
象は育ちすぎてしまって
入る小屋がない。
みんながむこうで新しく
大きな小屋を作っているが
出来上がるまでに
象は死んでしまう。
(悪魔がいるのです
この美しい世界には
悪魔がいるのです)
象は自分より
小さな小屋へと
歩いていく。
(誰もが苦しんでいるのです
自分の身体を抱きしめて
私がここにいるのです)
みんながいくらなだめても
象は小屋に入ろうとする。
(悪魔がいるのです)
今朝まで難なく入れていたのに
今日は大きくなりすぎた。
(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)
今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。
大きくなった象。小屋に入れなくなった象。その象のために新しい小屋を作っている。それを見ながら、象は別なことを考えている。(悪魔がいるのです)と。
このとき、象と小屋と悪魔の関係は?
はっきりわからない。だいたい、それが「関係」であるかどうかも怪しいのだけれど、何らかの関係、つまり結びつきがあると考えてしまう。
「意味」は、何かしらかけ離れたもの(?)を結びつけるという運動のなかにある。結びつけるという「動詞」のなかにある。そして、その「関係」だけを、つまり「動詞」だけを取り出すというのはとてもむずかしい。
で、こういうとき、人はどうするか。
人は、ではなく、私はどうするか、というべきか。
とても簡単である。
「象」は何かの象徴である。「小屋」も象徴である。象徴であるということは、実は、象は象ではなく、小屋は小屋ではないということである。
たとえば象は「こころ」を象と言い換えたものである。何かのために巨大に膨れ上がった「こころ」。たとえば怒りのために、嫉妬のために膨れ上がったこころ。それは、いままでこころが入っていた「小屋」、つまり「肉体」のなかには入りきれない。もっと別の「肉体」が必要だ。でも、そんなものはつくれない。人は「こっちの小屋に入ればいい」と大きいものをつくってみせる。(まあ、これは、怒りの鎮め方を教えてくれる、というようなことかもしれない。)でも、こころは、昔のままの、いままでの肉体に帰っていきたい。それが自分の「すみか」だから……。
ああ、なんてことばは便利なのだろう。なんて空想は便利なのだろう、と私はときどき思う。こんなふうに書いてしまうと、そこに、ほんとうに「意味」が生まれてくる。こういうことは、ほんとうに簡単にできてしまう。
でもねえ、これが問題なのだ。この「誤読」が実はやっかいなのだ。
このとき私は小川のことばを読んでいるふりをしながら、小川のことばを遠ざけて、自分の都合にあわせて小川のことばを利用しているにすぎない。
これでは詩を読んだことにはならない。
象をこころを象徴したものである、ととらえてはだめなのだ。象は象のまま、そこに実感できないとだめなのだ。象の耳や、鼻の皺や、太い足のさきっぽを飾る爪、それから肛門を隠したりみせたたするしっぽ--そういうものが見えないといけない。小さくなってしまった小屋の入り口も見えないといけない。象はこころの象徴、という具合に考えてしまった瞬間から、そういうものは見えなくなる。
象徴詩には「もの」ではなく「関係」が書かれている。関係こそが「世界」である、というような、わかったようなことを言ったって何にもならない。
これは、そして、書いている詩人にとっても重要な問題である。
象を小川はいつまで見ていたのだろうか。大きくなりすぎた象そのものを、象徴ではなく、生き物、動物として見ていたのだろうか。
これが、実は、よくわからない。
よくわからないけれど。
しかし。
(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)
今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。
この最後の部分は、あ、小川は象をもう一度見ている。見えている、ということが感じられる。象は、こころの象徴ではなく、象そのものである、と感じる。
こころは、象にはならず、
(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)
と「気持ち」になって、別に存在するからである。象徴であることでは満足できずに、こころが象を突き破ってしまう。そうすると、象は象徴であることの内部から(こんな言い方しか私にはできないが)、象そのものを破ってしまって自己主張してしまう。そのとき、見えないはずの「こころ」というものが、なぜか、見えたような感じがする。
「重い(おもさ)」と「地球を貫く」の「貫く」という動詞、動きの中に、「こころ」が「こと」になる瞬間があり、そこに瞬間的に象があらわれてくる。
これは「錯覚」なのかもしれないが、その「錯覚」にぐいっと私は引きずり込まれる。ブラックホールに引き込まれるようなものである。
象が象であることを止めて、気持ちになって、象徴である象を突き破って噴出するというのは、何か矛盾した言い方だが、矛盾しているからこそ、そこにブラックホールのようなものを感じ、それを「真実」だと感じる。
で、その象は、もう象ではないのだから
今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。
ということになる。
この「見る」「見られない」は「意味」ではないのだ。「意味」にならない、何かなのだ。名詞では定着できない「こと」、運動そのものが引き込む「異次元」なのだ。
もし、この詩に「意味」があるとすれば、つまり単なる「論理」ではなく「肉体になってしまった思想」というものがあるとすれば、この最後の瞬間にある。
象ということばで書きはじめて、小川は、その象ではあらわせない何かにかわってしまった。その「かわる」という「こと」のなかに思想(肉体)があるのだけれど。
これは、書けない。私のことばでは追いついてゆけない。
で、こういうとき、どうするか。ただ読み返す。読み返して、そのことばが私の肉体のなかで「意味」にならないまま落ち着くのを待つしかない。
詩は「意味」を棄てさせてくれることばの運動である。そして「意味」を棄てるためには、最初に書いたように、読者は自分自身で「意味」をつくってみる必要がある。「誤読」してみる必要がある。「誤読」して、「誤読」では追いつけないものにぶつかり、そこから自分の「誤読」をほどいていく。
そうすると、ある瞬間に、小川と出合える、出合ったという気持ちになれる。
これは錯覚にすぎないかもしれないけれど、私は、そういう瞬間のために詩を読んでいる。
象とY字路 | |
小川 三郎 | |
思潮社 |