監督 アグニェシカ・ホランド 出演 ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ、ベンノ・フユルマン、ヘルバート・クナウブ
セックスが何度も描かれる。
その一シーン。ユダヤ人が狭い一室に共同で住んでいる。夜。男が眠っている妻を跨ぎこして女のベッドへ行く。セックスが始まる。「妻が起きるから声を出すな」というのだけれど、互いに声は漏れてしまう。妻は、それをじっと見ている。娘も目を覚まし、じっと見ている。妻(母)は娘の目を手で覆う。覆いながら、妻の方はしっかり目を見開いている。
もうひとつ。地下水道の隠れ家に避難したユダヤ人たち。そこでも男が女のところへ近づき、セックスがはじまる。それを別の女が見ている。見ているだけではなく、見ながらオナニーをする。そのときの、女の目の変化。肉体の内からあふれてくる官能を閉じ込めながら(閉じ込めようと必死になりながら)、他人のセックスを見ている、その不思議な目の暗さと輝き。
それをカメラはしっかり映し出す。
うーん。ちょっと、うなってしまった。過酷な状況のなかで、セックスの衝動を抑えられない人間の欲望。それに引き込まれた--というのではないなあ。そんな簡単なことがらではない。いや、それもあるのだけれど、どうも何かが違う。
私はスケベだからどんなセックスシーンでも夢中になってみてしまうけれど、そこに描かれているのは単なるスケベなシーンではない。セックスというのはだれがしたって、同じように不格好な形でのあれこれであり、エクスタシーに達しておしまい、ということになるのだが、この映画ではエクスタシーよりも、それを見ている目をしっかりとらえている。
これは何なのかなあ。みんながスケベということ? 男はセックスをするというけれど、この映画では、女が目でしっかりとセックスを見ている。(セックスに気がついた別の男は背中を向けてしまう。)この目は何? 監督は何が描きたくて、二人の女の目をしっかりとスクリーンに映し出したのだろうか。
セックスなんて、もともとプライバシー。見てしまったとしても見なかったことにするのが、いわば「礼儀」なのに、なぜ?
この疑問が、最後の最後になって、ぱっと解決する。
セックスはプライバシーである。プライベートな「こと」である。この映画は、庶民の「シンドラーのリスト」である。主人公の下水道修理の男は、ユダヤ人のグループを地下水道に匿うのだが、それは彼にとってはプライベートなことがらである。「善意」は善意であるのだけれど、それだけではない。ドイツ軍に売り渡すよりも匿った方が金になる。見返りが大きい、という不純な動機(?)から、彼の行為は出発している。それはいわば隠しておかないとまずいこと、隠しておきたいプライバシーなのだ。見つかればドイツ軍に殺されるということだけではなく、不幸な人間を食い物にしている(彼らから金をせしめている)ということは、ひとに宣伝してまわるようなことではない。
それが、ソ連軍がポーランドに侵攻し、ドイツ軍が撤退し、ポーランドが解放された瞬間、もう隠しておかなくてもいいことにかわる。そのとき、主人公は地下水道からあらわれてきたユダヤ人を、まわりのひとに、
「おれのユダヤ人だ」
とみせびらかす。ほこらしげに紹介する。
「おれのユダヤ人だ」というのは、正確には何といったのかわからないのだが(字幕も正確に覚えていないし、ポーランド語はわからないのだが)、その「おれの」ということばのなかに、まさに個人的なこと、つまりプライバシーが噴出する。
そうなのだ。この映画は「シンドラーのリスト」とは違って、あくまでプライベートな映画なのだ。ひとりの、まあ、ユダヤ人を助けることで金を稼げたらいいなあと思っていた平凡な中年の下水修理工のプライバシーを描いている。はっきりした善意、絶対的な善意というか、絶対的な良心からユダヤ人を助けているのではないけれど、触れ合っている内にだんだんこころが変わってくる。彼らが家族のように思えてくる。自分のほんとうの家族、妻と娘を守らなければならない。けれど、ユダヤ人たちも守りたい。苦悩と葛藤がはじまる。
その苦悩、葛藤のなかで、少しずつ「生活」が変わってくる。
ユダヤ人のなかには、セックスが原因で(?)、妊娠し、赤ん坊を産むということも起きてくる。赤ん坊をどうやって地下水道で育てる? どうやって助けることができる? そういうことを妻と相談したりする。「秘密」が「秘密」ではなく、親しいひとのあいだで共有される。そして、その共有された秘密は秘密で、共有されたプライバシーになる。プライバシーを共有するということ、知っていても知らないということにするということ、そういう形の、ほんとうのプライバシーの意識がここにある。
「おれのユダヤ人」と主人公が叫ぶ。そのとき、妻は、手作りのお菓子を配る。「おれの」ということばのなかには、「おれの妻の」も含まれている。「おれの」ということばのなかには、第三者(地下水道から姿をあらわすユダヤ人に驚いているポーランド人)にはわからないプライバシーがある。プライバシーは、その当事者が語るまでは、あくまでもプライバシーである。
主人公は最後の最後に、自分のプライバシーを自慢する。それはたしかに自慢していいことなのだ。
この映画が描くのは、あくまでプライバシーなのだ。国家でも軍隊でも、あるいは戦争でもないとさえ言えるかもしれない。どこにでもプライバシーはある。そして、そのプライバシーを見つめる目もある。プライバシーを見つめる目、他人のプライバシーを見てしまったというのは、それもまたひとつのプライバシーである。それは、第三者に語るべきことではない。
というところまでことばを動かすと、また、そこに、この映画に描かれていない(あるいは静かに描かれている)ことがらが見えてくる。
同じ部屋にいて夫が(男が)誰かとセックスをするのを見てしまう目。それと同じ目が、実は主人公を見ていたはずである。何かおかしい。何か隠している。もしかしたらユダヤ人を隠している--ということは、たとえば食料品店の女は気づいていたかもしれない。肉眼では見ていないが、何かが見えていたはずである。「玉ねぎを煮るにおいが地下からした」と告げ口をしたひとがいるのだから、そういうことに何人かは気づいていたはずである。
そういうひとたちはそういうひとで、他人のプライバシーを守っている。主人公のプライバシーを静かに守っている。「あなたのしていることは、あなたの責任。あなたが私にかかわらないかぎり、それはあなたの責任ですればいいこと」。これは、冷たい意識だろうか。そうではないと思う。なぜなら、ほら、誰かが「助けて」と自分に何かを求めてくるなら、その求めには自分のできることをするという形で主人公はかかわっていったではないか。
歴史の奥には、こういうプライバシーの歴史があるのだ。ヨーロッパの強さ、個人主義の強さをずしりと感じる映画である。「真実」はいつでもプライバシーのなかにある、ということを語る映画である。
(2012年10月14日、天神東宝4)
*
天神東宝の各劇場の音響はどうしようもなくひどい。「天神東宝4」では空調の音が映画の音を上回る。突然スイッチが入り、突然切れる。その繰り返しである。そのたびに、映画そのものの音が変化してしまう。もっときちんとした映画館で上映されるべき映画である。
セックスが何度も描かれる。
その一シーン。ユダヤ人が狭い一室に共同で住んでいる。夜。男が眠っている妻を跨ぎこして女のベッドへ行く。セックスが始まる。「妻が起きるから声を出すな」というのだけれど、互いに声は漏れてしまう。妻は、それをじっと見ている。娘も目を覚まし、じっと見ている。妻(母)は娘の目を手で覆う。覆いながら、妻の方はしっかり目を見開いている。
もうひとつ。地下水道の隠れ家に避難したユダヤ人たち。そこでも男が女のところへ近づき、セックスがはじまる。それを別の女が見ている。見ているだけではなく、見ながらオナニーをする。そのときの、女の目の変化。肉体の内からあふれてくる官能を閉じ込めながら(閉じ込めようと必死になりながら)、他人のセックスを見ている、その不思議な目の暗さと輝き。
それをカメラはしっかり映し出す。
うーん。ちょっと、うなってしまった。過酷な状況のなかで、セックスの衝動を抑えられない人間の欲望。それに引き込まれた--というのではないなあ。そんな簡単なことがらではない。いや、それもあるのだけれど、どうも何かが違う。
私はスケベだからどんなセックスシーンでも夢中になってみてしまうけれど、そこに描かれているのは単なるスケベなシーンではない。セックスというのはだれがしたって、同じように不格好な形でのあれこれであり、エクスタシーに達しておしまい、ということになるのだが、この映画ではエクスタシーよりも、それを見ている目をしっかりとらえている。
これは何なのかなあ。みんながスケベということ? 男はセックスをするというけれど、この映画では、女が目でしっかりとセックスを見ている。(セックスに気がついた別の男は背中を向けてしまう。)この目は何? 監督は何が描きたくて、二人の女の目をしっかりとスクリーンに映し出したのだろうか。
セックスなんて、もともとプライバシー。見てしまったとしても見なかったことにするのが、いわば「礼儀」なのに、なぜ?
この疑問が、最後の最後になって、ぱっと解決する。
セックスはプライバシーである。プライベートな「こと」である。この映画は、庶民の「シンドラーのリスト」である。主人公の下水道修理の男は、ユダヤ人のグループを地下水道に匿うのだが、それは彼にとってはプライベートなことがらである。「善意」は善意であるのだけれど、それだけではない。ドイツ軍に売り渡すよりも匿った方が金になる。見返りが大きい、という不純な動機(?)から、彼の行為は出発している。それはいわば隠しておかないとまずいこと、隠しておきたいプライバシーなのだ。見つかればドイツ軍に殺されるということだけではなく、不幸な人間を食い物にしている(彼らから金をせしめている)ということは、ひとに宣伝してまわるようなことではない。
それが、ソ連軍がポーランドに侵攻し、ドイツ軍が撤退し、ポーランドが解放された瞬間、もう隠しておかなくてもいいことにかわる。そのとき、主人公は地下水道からあらわれてきたユダヤ人を、まわりのひとに、
「おれのユダヤ人だ」
とみせびらかす。ほこらしげに紹介する。
「おれのユダヤ人だ」というのは、正確には何といったのかわからないのだが(字幕も正確に覚えていないし、ポーランド語はわからないのだが)、その「おれの」ということばのなかに、まさに個人的なこと、つまりプライバシーが噴出する。
そうなのだ。この映画は「シンドラーのリスト」とは違って、あくまでプライベートな映画なのだ。ひとりの、まあ、ユダヤ人を助けることで金を稼げたらいいなあと思っていた平凡な中年の下水修理工のプライバシーを描いている。はっきりした善意、絶対的な善意というか、絶対的な良心からユダヤ人を助けているのではないけれど、触れ合っている内にだんだんこころが変わってくる。彼らが家族のように思えてくる。自分のほんとうの家族、妻と娘を守らなければならない。けれど、ユダヤ人たちも守りたい。苦悩と葛藤がはじまる。
その苦悩、葛藤のなかで、少しずつ「生活」が変わってくる。
ユダヤ人のなかには、セックスが原因で(?)、妊娠し、赤ん坊を産むということも起きてくる。赤ん坊をどうやって地下水道で育てる? どうやって助けることができる? そういうことを妻と相談したりする。「秘密」が「秘密」ではなく、親しいひとのあいだで共有される。そして、その共有された秘密は秘密で、共有されたプライバシーになる。プライバシーを共有するということ、知っていても知らないということにするということ、そういう形の、ほんとうのプライバシーの意識がここにある。
「おれのユダヤ人」と主人公が叫ぶ。そのとき、妻は、手作りのお菓子を配る。「おれの」ということばのなかには、「おれの妻の」も含まれている。「おれの」ということばのなかには、第三者(地下水道から姿をあらわすユダヤ人に驚いているポーランド人)にはわからないプライバシーがある。プライバシーは、その当事者が語るまでは、あくまでもプライバシーである。
主人公は最後の最後に、自分のプライバシーを自慢する。それはたしかに自慢していいことなのだ。
この映画が描くのは、あくまでプライバシーなのだ。国家でも軍隊でも、あるいは戦争でもないとさえ言えるかもしれない。どこにでもプライバシーはある。そして、そのプライバシーを見つめる目もある。プライバシーを見つめる目、他人のプライバシーを見てしまったというのは、それもまたひとつのプライバシーである。それは、第三者に語るべきことではない。
というところまでことばを動かすと、また、そこに、この映画に描かれていない(あるいは静かに描かれている)ことがらが見えてくる。
同じ部屋にいて夫が(男が)誰かとセックスをするのを見てしまう目。それと同じ目が、実は主人公を見ていたはずである。何かおかしい。何か隠している。もしかしたらユダヤ人を隠している--ということは、たとえば食料品店の女は気づいていたかもしれない。肉眼では見ていないが、何かが見えていたはずである。「玉ねぎを煮るにおいが地下からした」と告げ口をしたひとがいるのだから、そういうことに何人かは気づいていたはずである。
そういうひとたちはそういうひとで、他人のプライバシーを守っている。主人公のプライバシーを静かに守っている。「あなたのしていることは、あなたの責任。あなたが私にかかわらないかぎり、それはあなたの責任ですればいいこと」。これは、冷たい意識だろうか。そうではないと思う。なぜなら、ほら、誰かが「助けて」と自分に何かを求めてくるなら、その求めには自分のできることをするという形で主人公はかかわっていったではないか。
歴史の奥には、こういうプライバシーの歴史があるのだ。ヨーロッパの強さ、個人主義の強さをずしりと感じる映画である。「真実」はいつでもプライバシーのなかにある、ということを語る映画である。
(2012年10月14日、天神東宝4)
*
天神東宝の各劇場の音響はどうしようもなくひどい。「天神東宝4」では空調の音が映画の音を上回る。突然スイッチが入り、突然切れる。その繰り返しである。そのたびに、映画そのものの音が変化してしまう。もっときちんとした映画館で上映されるべき映画である。
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