詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶山エリ「診察室」

2012-10-05 10:18:08 | 現代詩講座
陶山エリ「診察室」(現代詩講座@ リードカフェ、2012年09月26日)

 「あの」ということばを10回以上含む詩を書く--がテーマ。好評だったのが、陶山エリ「診察室」。

あの舟に揺られているのは白い肌のひとたちだ
潮騒の重さを許しているあのひとはあなたかもしれない
半透明に詫びて
あのひとは私にだけ見えているのでしょうか
知らない夢に紛れ込んでしまったらしい
もう、舟を流してはいけないと
あなたかもしれないあのひとは
祈りにしか聞こえない詩を書いては朗読を止めない
祈りにしか映らない深い瞬きをしている私かもしれない舟に乗らなかったあの女の
黒目に快楽の亡骸が渡っていく
波音がうるさく続いて
午睡にようやく気づく、先生、壁に架かっているあの絵
パウル・クレーの「忘れっぽい天使」ですね

手首に海路を見つけて以来
あの男とは会っていないのですが
もうあの日からその名前さえも拒むことを決め、あのひとと呼んでいますが
28日に一度くらい、あのひとが夢に現れるのです
不確かな約束だけを垣間見せるあのひとのあの背中、あの青い喉ぼとけに近づくと予知夢に為りかねないので
あの夢の字幕に傷をつけ
あの男から言語を奪い、あのひとに無風と鈍痛を与えます
あのてこのてでわたしをすくおうと企みますが
昨日、前髪を真っ直ぐに切り揃えたのですが
悲しみはそれほどでもないのです
海路があのときのままなので疑っているのです

 受講生の感想は、
 「痛みを感じさせる。」
 「診察室の、医者と患者の人間関係を心象風景として感じさせる。たどりつけない自分が出てくる。」
 「リストカットのことを書いているということがはっきりわかる。」
 「哀しい。上手に書けている。」
 「あの青い喉ぼとけ、とかパウル・クレーの絵とか、ことばが印象的。」
 「半透明を詫びて、あの夢の字幕に傷をつけ、というのもいい。とてもかっこいい。」 「28日に一度くらい、という表現でおんなをあらわしているのもいい。」
 「あのてこのてですくおうと企みますが、は先生がすくおうとしているのかな?」
 「あれ、それは違うんじゃない。」
陶山「わたし、です。」

 そういうやりとりがあって、全体の印象としては、この詩の世界がリストカットをしたおんなのことを書いているということが、だいたい「共有」されていることがわかった。そして、この詩が好評だった理由は、私のことばで言うと「情報量」が多い。もっと簡単に言うと、ことばが多い。
 だから、
 「この詩をすっきりさせたらどうなるかなあ。すてきな詩になると思う。」
 という感想も聞こえた。
 ことばが多すぎて、イメージが散らばってしまう、と感じたのだ。
 でもこの感想は少数派で、その感想をもらしたひとさえ「青い喉ぼとけ」「パウル・クレーの「忘れっぽい天使」」はとてもいい、と言う。気に入ったことばがあるけれど、なんとなくそれが多すぎてついていくのがたいへんということかもしれない。
 「半透明に詫びて、夢の字幕に傷をつけ、もかっこいいわねえ」と別の受講生。
 どこのこばがかっこいいかはそれぞれのひとの好みと関係してくるのだけれど、ともかく、この詩にはかっこいいことばが多いというのは受講生の共通した認識だった。
 で、そのことば--それぞれの単語としてはわかるけれど、では、実際にはどういうこと? とそのときは質問しなかったが、そういう質問をすると、たぶんすぐにはどの受講生も答えることができないと思う。自分のことばで言いなおすことができないと思う。
 ここに、詩の、不思議な秘密がある。
 このとき読者のなかに何が起きているか。
 読者はことばを意味ではなくイメージをイメージのまま、意味以前として受け止めている。そういうイメージがあるということ、そういうものをことばで提出できるということに驚いている。「意味以前」であるから、それは別のことばで言いなおすことはできないのはあたりまえのことなのだが、「言いなおしてみて」と質問すると、そのとき初めて、あ、意味を考えないといけないのかとつまずく。意味がわからない、というわけでもない。たとえば「28日に一度くらい」ということばからは「生理、月のめぐり」ということを瞬間的に把握する。「言い換え」なのに、それがすぐに肉体につたわることばもある。わかるものと、わからないものがあるということが、とまどいの原因である。わからないのに、ひかれてしまうということが原因である。
 その一方で、パウル・クレーの「忘れっぽい天使」という固有名詞(言い換え不能な全絶対的なことば、「正解」のようなものも、読者をひきつける。私は、この絵を知らない。見ているかもしれないが、タイトルを意識したことはない。架空の絵かもしれない。どこがほんとうで、どこからが架空、あるいはイメージなのか、実ははっきりしないまま、読んでいると、ことばが輪郭を持ったまま流動するのがわかる。そのくっきりした輪郭と、はっきりしない動きに肉体が揺さぶられる。
 そういうことが、この詩ではしきりにおきる。
 書き出しの「あの舟」の「舟」ひとつにしろ、実は明確な描写はない。それなのに「あの」という特定のものが指し示される。すべては「実在」のものであるようだが、比喩なのかもしれない。その区別がつかない。そして、それが比喩であったとしても、その比喩には「あの」という特定の何かがついてまわっている。そしてそのとき、その「何かがついてまわっている」というか、そこには作者だけの何かがあるという感じ--これが、たぶん、詩のことばに近づいていくときのいちばん重要なポイントだと思う。
 「何かがある」そのことがわかる。その「何か」とは何か。なぜ、何かがあるとわかるのか。たぶん、読者のなかにも、その「何か」と重なる体験があるからだ。その体験は「意味」にはなっていない。けれど、体験その物はある。なぜ意味になっていないか--意味するほど考えなかったといういことかもしれないし、意味にして考えることをしたくなかったということかもしれない。でも、それはたしかに「あった」し、いまも「ある」。だから、それを感じとってしまう。
 それは、どこにあらわれているだろうか。

<質問>今回のテーマは「あの」を10回以上つかって詩を書くということだったのだけれど、「あの」に目を向けると、何か、気づかない?
<受講生1>「あなた」が「あの男」「あのひと」と、つかいわけられている。
<受講生2>「あの女」ということばも出てくる。これは、「わたし」ですね。
<受講生3>「その名前」と、「その」ということばも出てくる。
<質問>でも、「この」は出てこないね。「あの」「その」「この」は、どう違うだろう。
<受講生4>「あの」は遠くて、「この」は近い。「その」は中間?
<質問>距離が違う。では「あの男」と「あのひと」では?
<受講生5>感じが違う。「あの男」の方が客観的というか、離れている。
<受講生3>「あの男」と書いて「あのひと」と読ませるやり方もあるね。

 そういうことを話していると、最初に話していた「半透明に詫びて」とか「夢の字幕に傷をつけ」「青い喉ぼとけ」というものが何であるにしろ、それはあまり問題ではなく(?)、「あのひと」「あの男」「あなた」、「わたし」「あの女」、「あの日」というしかない一日かぎりの日と「28日に一度」という繰り返される「日(この日)」という距離のある時間・空間がこの詩では、瞬間瞬間にぱっと浮かんではぱっと消えていくという感じでつながっていることがわかる。
 私たちは、実は、その何か自分にとって忘れることのできない特定の「あの(あれ)」を繰り返し繰り返し「いま/ここ」に呼び出しながら(思い出しながら)生きている。「あの」は「この」から「遠い」。「その」からも「遠い」。--それは、なんというか、意識の時空間の方便であって、ほんとうは違うね。「あの日」「あの男」「あのひと」、そして「あの女」は、それを思うとき、実は「いま/ここ」にいる「わたし」の肉体とはぜんぜん離れていない。距離がない。密着しているということがわかる。
 人間は、何かを「あの」という具合に遠ざけることはできない。遠ざけたつもりでも「あの」ということばといっしょに近づいてきてしまう。--これは矛盾なのだけれど、矛盾しているから、そこに不思議な真実がある。その矛盾をまるごと受け止め、その矛盾のなかで自分を動かしてみる--それが詩なんだな、と思う。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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