笹田満由『凱歌』(書肆山田、2012年09月15日発行)
詩とは何か。私はいいかげんな人間だから、「定義」などそのときの気分次第で変えてしまう。きのう言っていたことと違うじゃないかといわれても、それはしようがない。きのうにはきのうの事情があり、きょうにはきょうの事情がある。「定義」なんていうものは、そのときの方便にすぎない。
で、きょうは詩とは理解するものではなく、そのまま丸暗記(?)するものである。わからなくても肉体のなかにとりこんで、わからなくてもそれを口を動かして声にしてしまうようになると、まあ、それが詩である。
「行く川の流れは絶えずして」とか「月日は百代の過客にして」というのも、そういう意味では詩である。そういった「意味」のありそうなことばは、「意味」として「流通」してしまうが、それを声にしているとき、ひとは「意味」を真剣に考えたりはしていない。「意味」を考えるよりも、ただ「覚えている」ものをだれかと共有しているにすぎない。その「共有」が詩である。
だから。
たとえば河邉由紀恵の『桃の湯』のなかの「ねっとり」「ざらり」というようなことば、それが詩である。何かいろいろ書いてあったが、そういうことばが書いてあったということだけはしっかり覚えている。「暗記」したのは、つまり私の肉体のなかにしっかりと定着して、必要に応じていつでもあらわれてくるのは、河邉の作品の中では、そういうことばとである。説明がむずかしいが、こんなにしっかり覚えているのはそれが詩である証拠である--と私は、私の事情を優先して、詩を定義する。
ええと。
なぜ、こんなめんどうくさいことを書いているかというと。
笹田満由『凱歌』には、自然に覚えてしまうことばがないからである。なぜ自然に覚えてしまわないかというと、簡単に言うと、私と笹田の関心がまったく違うからだ。だから(?)、私はほんとうは笹田の詩集の感想なんか書いてはいけないのだろうけれど、そのまったく違うということについて、言い換えると、ここの詩集に詩を感じなかったということは、何かの「方便」として書いておいてもいいかなあ、と思ったのだ。
たとえば「天使」。
何か「意味」を書こうとしているのだと思う。「意味」というふうに私が考えてしまうのは(受け取ってしまうのは)、2連目に「ならば」という「論理」を動かすためのことばがあるからだ。「仮定」を経て、「飛躍」する。その「飛躍」の瞬間の、ある論理から別の論理への「切断」と「接続」が、2連目と3連目の1行あきに凝縮している。詩のリズムを笹田はちゃんと守って書いている。こんなふうに「流儀」を守るのは、笹田が「意味」を必死になってつたえたいと思っているからだ。--それはそれで、感動的ではあるんだけれどね。で、その部分に奇妙な感動を感じたから、私はこうして感想書いているとも言えるのだけれど。
でも、何も「覚えたい」とは感じない。3連目、
これって、その「世界」のなかに「わたし」は含まれているのかなあ? 含まれているのなら、「世界」なんて言わずに「わたし」と言えばいいのに、わざわざ「世界」と言ってしまうのは、どうしてだろう。ほんとうは「あなた」ではなく「わたし」が「天使」になって「わたしの手」で「世界」を殺してしまいたいのに、空とぼけて「あなた」「天使」と言っているんじゃないかなあ。
この空とぼけた感じ、自分はあらゆることがらの「外側」にいて、ときどきやりたいことがらだけに口を挟む感じ(客観的な感じ?)が、うーん、いやだなあ。
否定的なことばかり書いたので、ここはいいなあ、と思ったことも書いておこう。「夜」という作品。
ことばのなかにある切断と接続がおもしろい。「あなたを/絞め殺して」、どうするんだろう。何が解決するんだろうと思っていたら、1行の空白、ことばの「断絶」をはさんで、「しまわないよう」が出てくる。「殺す」が「殺してしまわないよう」という逆のことばになる。「殺してしまわないよう」だから、傷つけるけれど、殺すということまではしないということかもしれないけれど、そこに不思議な「暴力」の愉悦(?)のようなものがひそんでいる。
で、「殺してしまわないよう」に、どこに気をつけるのかというと。
「祈るように」だって。
「殺す」と「祈る」。私にはまったく逆の行為のように思えるけれど、「祈る」は笹田が書いているように「絞め殺して」とは断絶していて(切断されていて)、「しまわないよう」と接続している。
この不思議なリズムを次の
が引き受ける。
「殺す」→「しまわないよう」(殺すの否定)→「祈る」→「待つ」という変化が、一筋縄ではいかない。
「暗記する」しかない。つまり、ここには詩がある。
詩集全体としては読み返すところはないように思えるけれど(申し訳ないが、私にはそうとしか思えない)、この2連だけは特別である。特に2連目の3行は、特別である。
こうしたことばの動きが、あと1篇(あと何行か)あれば、この詩集の印象はまったく違ってくるだろう。私は「前置き」を書かずに、そのことだけを書いたと思う。
ところで。
「夜」は、私が引用した2連6行(1行あきを含めると7行)がすべてではない。実は3連目がある。私は「わざと」それを引用していない。私はしばしば作品を引用するとき、わざとある部分を省略するが、今回もそうしている。
その省略されたことば、今回の詩集では3連目を読んで読者がどう思うか。それは読んだ人にまかせたい。省略された3連目を引き受けるのに、私の肉体は向いていない。私のことばは適していない。
詩とは何か。私はいいかげんな人間だから、「定義」などそのときの気分次第で変えてしまう。きのう言っていたことと違うじゃないかといわれても、それはしようがない。きのうにはきのうの事情があり、きょうにはきょうの事情がある。「定義」なんていうものは、そのときの方便にすぎない。
で、きょうは詩とは理解するものではなく、そのまま丸暗記(?)するものである。わからなくても肉体のなかにとりこんで、わからなくてもそれを口を動かして声にしてしまうようになると、まあ、それが詩である。
「行く川の流れは絶えずして」とか「月日は百代の過客にして」というのも、そういう意味では詩である。そういった「意味」のありそうなことばは、「意味」として「流通」してしまうが、それを声にしているとき、ひとは「意味」を真剣に考えたりはしていない。「意味」を考えるよりも、ただ「覚えている」ものをだれかと共有しているにすぎない。その「共有」が詩である。
だから。
たとえば河邉由紀恵の『桃の湯』のなかの「ねっとり」「ざらり」というようなことば、それが詩である。何かいろいろ書いてあったが、そういうことばが書いてあったということだけはしっかり覚えている。「暗記」したのは、つまり私の肉体のなかにしっかりと定着して、必要に応じていつでもあらわれてくるのは、河邉の作品の中では、そういうことばとである。説明がむずかしいが、こんなにしっかり覚えているのはそれが詩である証拠である--と私は、私の事情を優先して、詩を定義する。
ええと。
なぜ、こんなめんどうくさいことを書いているかというと。
笹田満由『凱歌』には、自然に覚えてしまうことばがないからである。なぜ自然に覚えてしまわないかというと、簡単に言うと、私と笹田の関心がまったく違うからだ。だから(?)、私はほんとうは笹田の詩集の感想なんか書いてはいけないのだろうけれど、そのまったく違うということについて、言い換えると、ここの詩集に詩を感じなかったということは、何かの「方便」として書いておいてもいいかなあ、と思ったのだ。
たとえば「天使」。
わたしを殺してもあなたは
救われない
たとえ
すべての人を殺しても
残ったあなたは
ひとり救われないでしょう
ならば
殺してください
世界を
あなたの手でもって
何か「意味」を書こうとしているのだと思う。「意味」というふうに私が考えてしまうのは(受け取ってしまうのは)、2連目に「ならば」という「論理」を動かすためのことばがあるからだ。「仮定」を経て、「飛躍」する。その「飛躍」の瞬間の、ある論理から別の論理への「切断」と「接続」が、2連目と3連目の1行あきに凝縮している。詩のリズムを笹田はちゃんと守って書いている。こんなふうに「流儀」を守るのは、笹田が「意味」を必死になってつたえたいと思っているからだ。--それはそれで、感動的ではあるんだけれどね。で、その部分に奇妙な感動を感じたから、私はこうして感想書いているとも言えるのだけれど。
でも、何も「覚えたい」とは感じない。3連目、
殺してください
世界を
あなたの手でもって
これって、その「世界」のなかに「わたし」は含まれているのかなあ? 含まれているのなら、「世界」なんて言わずに「わたし」と言えばいいのに、わざわざ「世界」と言ってしまうのは、どうしてだろう。ほんとうは「あなた」ではなく「わたし」が「天使」になって「わたしの手」で「世界」を殺してしまいたいのに、空とぼけて「あなた」「天使」と言っているんじゃないかなあ。
この空とぼけた感じ、自分はあらゆることがらの「外側」にいて、ときどきやりたいことがらだけに口を挟む感じ(客観的な感じ?)が、うーん、いやだなあ。
否定的なことばかり書いたので、ここはいいなあ、と思ったことも書いておこう。「夜」という作品。
結ばれた絆で
あなたを
絞め殺して
しまわないよう
祈るように
待っています
ことばのなかにある切断と接続がおもしろい。「あなたを/絞め殺して」、どうするんだろう。何が解決するんだろうと思っていたら、1行の空白、ことばの「断絶」をはさんで、「しまわないよう」が出てくる。「殺す」が「殺してしまわないよう」という逆のことばになる。「殺してしまわないよう」だから、傷つけるけれど、殺すということまではしないということかもしれないけれど、そこに不思議な「暴力」の愉悦(?)のようなものがひそんでいる。
で、「殺してしまわないよう」に、どこに気をつけるのかというと。
「祈るように」だって。
「殺す」と「祈る」。私にはまったく逆の行為のように思えるけれど、「祈る」は笹田が書いているように「絞め殺して」とは断絶していて(切断されていて)、「しまわないよう」と接続している。
この不思議なリズムを次の
待っています
が引き受ける。
「殺す」→「しまわないよう」(殺すの否定)→「祈る」→「待つ」という変化が、一筋縄ではいかない。
「暗記する」しかない。つまり、ここには詩がある。
詩集全体としては読み返すところはないように思えるけれど(申し訳ないが、私にはそうとしか思えない)、この2連だけは特別である。特に2連目の3行は、特別である。
こうしたことばの動きが、あと1篇(あと何行か)あれば、この詩集の印象はまったく違ってくるだろう。私は「前置き」を書かずに、そのことだけを書いたと思う。
ところで。
「夜」は、私が引用した2連6行(1行あきを含めると7行)がすべてではない。実は3連目がある。私は「わざと」それを引用していない。私はしばしば作品を引用するとき、わざとある部分を省略するが、今回もそうしている。
その省略されたことば、今回の詩集では3連目を読んで読者がどう思うか。それは読んだ人にまかせたい。省略された3連目を引き受けるのに、私の肉体は向いていない。私のことばは適していない。
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