詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田順子『水たまりのなかの空』

2012-10-24 10:44:38 | 詩集
池田順子『水たまりのなかの空』(空とぶキリン社、2012年08月20日発行)

 池田順子『水たまりのなかの空』にはわからないことばがふたつ出てくる。

こよこよと
枝か 何かが
どこかで鳴いて
その度に水溜まりのなかの空が
さざめいている
ゆれるだけゆれて
映すだけ
                                 (「詩集」)

貰った右足を股関節に取り付ける
すっとハマった のに
しっくりこない
立ちあがると
シイ と音がして
少し疼いた
                              (「シイの記憶」)

 「こよこよ」と「シイ」がわからない。どちらも「オノマトペ」である(と思う)。オノマトペだからわからなくていい--のかどうかも、まあ、はっきりわからない。風が「そよそよ」吹いている。手にくっついたものが「ねばねば」している。オノマトペだけれど、わかる。ほかのことばで言い換えることができる。風が「そよぐように」静かに吹いている。手にくっついたものに粘りけがあり、なかなか手からとれない、しつこく絡みついてくる。ほかにも言い方があるかもしれない。それに「そよそよ」「ねばねば」は聞いたことがあるが、「こよこよ」「シイ」は聞いたことがない。初めて知った。だから、わからない。
 初めてのことは、わからない。それを受け止める準備が私の肉体の中で整っていない。私はかなり保守的な人間なのだろう。自分の肉体が体験したこと以外はわからない。実際にそのことばが人と人のあいだ(だれかと私とのあいだ)で行き来したものでないと、そしてそれを耳で聞いたことがないと、まったく理解ができない。だから、私は「読書」というものがとても苦手だ。難読症かもしれない。カタカナの場合は、完全に難読症だと自覚している。長いカタカナの文字は正確に読めない。発音できない。
 少し脱線した。
 で、こうやって「初めてのことは、わからない」と書いて、そこまで書いて、不思議なことに池田の書いていることが少しわかる。言い換えると、「誤読」するための手がかりに触れたような気がする。
 「シイの記憶」というのは次のように始まっている。

別れ際
あなたは
右足を外すと
わたしにすっと差し出した

 右足を外して差し出す(差し出される)。こんなことって、ある? 体験したことってある? 私は、ない。池田も、たぶん、これが初めてだろう。
 初めてのことは受け止めようがない。どうしていいかわからないけれど、こんなふうにするのかなあと手探りで肉体を動かす。

あなたの右足は
長くて大きい
ふらっとよろけながら
代わりにわたしの右足を差し出した
あげたいものは
他にあったのに

 右足をもらったのだから、右足をお返しする。片足では歩けないからね。ほんとうは違うものを「あげたい」というより、ほかのものを交換したかったのだろう。もっとありふれたものを。
 右足は、ほんとうは右足ではなく、「あげたいもの」(交換したいもの)の比喩ということになるのかもしれない。でも、比喩、というふうに考えると「初めて」の感じがうすくなるね。「意味」になってしまうね。「意味」になってしまうと、それはもう初めてではない。「意味」になっていないものが「初めて」のこと。
 いま起きている「こと」を肉体になじませる。肉体が納得できるまでまつ。それが初めての体験のすべてだ。初めてというのは、まあ、この詩を読んでもわかるけれど、夢中になる。セックスのようにね。何をしているか、わかっていない。わかっていなくても、人間にはできることがたくさんあって、セックス何というのはその代表的なものだけれど、夢中になってやって、それから「あ、これはこういう意味なんだ」とふりかえるものである。
 で、夢中になって、池田は自分の右足を差し出し、貰った右足を股関節に取り付ける。そのとき、「ハマった」のに、しっくりこない。「シイ」と音がする。あ、そうか。「シイ」というのは、池田の肉体が初めて味わう「違和感」なのだな。初めてだから、そういうことをほかの人がしているというのを聞いたことがないから、それをどういっていいかわからない。わからないまま「シイ」と言ってみる。肉体に耳をすますと、肉体のなかの耳(外からは見えない耳--これを私は「肉耳」と呼ぶ)が「シイ」という音を聞き出す。だから、それをとりあえず書くのだ。
 ほんとうは「シイ」ではないかもしれない。もっと体験豊かな人なら違うことばで言うのかもしれない。けれど、池田は他人と右足を取り換えるという体験を共有していないので、他人のことばを借りて(流通言語を借りて)自分を語ることができない。だから、「シイ」ととりあえず言ってみる。
 同じ体験をしたひとがあられわたら、そのひとは、それは「シイ」じゃないよ、「キイ」だよと教えてくれるかもしれない。そうか、「シイ」ではなく「キイ」というのか、ということが、まあ、そのとき起きる。
 ことばは、そういう具合に、育っていく。
 で、池田の詩というのは、そういう具合に育っていく前の、いわば「ことば以前のことば」を中心に動いている。「初めてのことば」を中心に動いている。
 だれでも「初めて」を書けば、それは必然的に詩になる。--これは、ことばで言ってしまうと簡単なことだけれど、実はとてもむずかしい。「初めて」なのだから、当然、そこには「ことば」がない。「ことば以前」なのだから「ことば」がない。「ことば」がないと、それを覚えておくことができないし、覚えておくことができないので、それをつかうこともできない。そういう矛盾がすぐ目の前にあらわれてくる。それを「肉体」でむりやり乗り越える必要がある。
 その「むり」が「シイ」であり「こよこよ」なのだ。
 だから、それが「何」をさしているか、どういうことか、というのは読者にわからなくて当然なのだ。だから、それはわからなくていいのだと思うけれど、でも、あ、池田がむりをしているという感じはわかる必要がある。それに対して共感するか反発するかは、まあ、読者次第だね。

 「詩集」という詩に戻ってみる。

水溜まりのある夏の庭に
雨上がりの雲が映るとしよう
泣いた空を
すっかり写しとりたい庭の水溜まりを
今度はいったい
何が
写しとる というのだろう


こよこよと
枝か 何かが
どこかで鳴いて
その度に水溜まりのなかの空が
さざめいている
ゆれるだけゆれて
映すだけ

 「何が」「何かが」「どこかで」。池田は「わからない」ままでいる。
 でも、どんな初めてのことでも「わからない」だけでなりたっているわけではない。「わからない」だけの世界というのは、たぶん、ない。
 何が池田に「わかっている」だろうか。「何が」とか「どこか」とか、指し示すことのできる「もの」ではない。名詞で言い換えることのできる「対象」ではない。
 引用した部分に繰り返し出てくることば--それを繰り返しているのは、それが池田にわかっていることだからである。
 「映る」「写す」
 池田にわかっているのは、その「動詞」である。「動詞」であらわすことができる「こと」である。
 水たまりに雲が映る。それは水たまりが雲を写すということ。
 では、この水たまりと雲と、映る・写すはどういう具合に、「写す」ことができるのか。「何が」写すことができるのか--と書けば、おのずからことばが動く。「ことば」が「動詞」があらわす「こと」を、「ことば」で写す。「こと」と「ことば」は、そのとき重なり合う。「ことば」という音(ことば)のなかに「こと」がすっぽり吸収される形で納まっている。映っている--水たまりに雲がすっぽり映るように。
 で、ことばが「こと」、つまり動詞といっしょに動いている何かであるからこそ、ことばにならないことば、ことば以前のことばは、どうしたってオノマトペからはじまるしかない。オノマトペというのは、動詞派生のことばというか、動詞と重なることばである。「そよそよ」のなかには「そよぐ」というどうしがあり、「ねばねば」のなかには「ねばる」という動詞がある。「動詞派生」と書いたけれど、まあ、それは逆で「そよそよ」から「そよぐ」が生まれ、「ねばねば」から「ねばる」が生まれたのかもしれないけれど、ことれは「方便」だらか、どっちでもいい。

 また脱線したが……。

 「詩集」と作品は、詩集の巻頭にあるのだが、池田はその作品で、「私の詩は、私が体験した初めての『こと』を、『ことば』を探しながら書いたものです」と静かに告げているのである。



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谷内 修三
思潮社
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