詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベン・アフレック監督「アルゴ」(★★★)

2012-10-28 11:16:55 | 映画
監督 ベン・アフレック出演 ベン・アフレック、アラン・アーキン、ブライアン・クランストン、ジョン・グッドマン



 イラン革命のときの、アメリカ人救出作戦を描いている。カナダ大使の私邸に逃げ込んだ6人を映画スタッフといつわって救出するまでを描いている。実話なのに映画みたいな話を映画にしている。そうすると、実話なのにまるで「映画」になってしまって、そんなにわくわくしないのだ。不思議なことに。
 結末のわかっている映画はなかなかむずかしいが、3・11を描いた「ユナイテッド95」は、結末がわかっているのに、映画なのだからもしかしたら助かるんじゃないか、がんばれ、がんばれ、という気持ちになるのだが、この映画は、そんなに真剣(?)になれない。「ユナイテッド95」の乗客は全員死ぬのに、この映画では全員助かることがわかっているから? 人間(私?)はあまのじゃくにできていて、無事に生き残る人間に対しては「がんばれ」という気持ちが起きないのかなあ。
 そんなこともないとは思うのだけれど。
 何が原因なのかなあ、と思うと、やはりクライマックスがあまりにも映画的だからだね。この「映画的」というのは、たとえば離陸しようとする飛行機をイラン革命軍(で、いいのかな?)の兵士が滑走路の仲間で追ってくる。追ってくるのを見ながら「早く飛び立て」と祈っている人質たちというスリルが映画なのではなくて。
 画面の切り替えだね。
 現実は「画面の切り替え」ということができない。自分の見ている世界しか存在しなくて、肉眼で見えないところで何が起きているかわからない。ベン・アフレックが空港で兵士たちの顔を見る。何が起きるか、心配しながら、その反応を待つ--こういう部分は、いわばベン・アフレックの「肉眼」を代弁している。そのとき、彼が見るのはあくまで「空港」のなか、それも実際に面と向かっている人だけである。
 このときアメリカで何が起きているか。CIAは何をしているか。映画づくりを偽装しているスタッフは何をしているか。まったくわからない。
 でも、映画はそれをスクリーンに映してしまう。CIAはCIAで緊迫した動きをしている。映画スタッフもぎりぎり間に合う。すべてがあと1秒違っていたら失敗している。その感じを映画はほんとうに秒単位の動きとして「再構成」してしまう。
 巧みだねえ。
 でも、この巧みさが、実話を「映画」にしてしまう。あ、これは「映画」じゃないか、「実話」とは無関係な「作り話」じゃないか、という感じが、そのとき、意識を支配してしまう。その結果、実は「映画」ではなくなってしまう。「娯楽」になってしまう。まあ、「娯楽映画」なのだから、それでいいのかもしれないけれど。
 逆の言い方をすればいいのかもしれない。
 もし、それが可能であるかどうかわからないけれど、最後のクライマックスを、CIAの動きや映画スタッフの動きを挿入せずに(そういう画面で説明せずに)、ベン・アフレックの見ている状況だけで描きとおしたなら、これはほんとうに映画になったと思う。
 人のことはわからない。今自分にできることは何か。それだけに向けて意識を集中する、その集中力を映像化したなら、とてもおもしろいものになったと思う。秒単位のスリリングはスリリングでいいのかもしれないけれど、実際、そこにいるひとの「1秒」は「1秒」ではない。ほんとうは「1時間」あるいは「まる1日」くらいの長い長い不安であるはずだ。それがこの映画では伝わりにくい。はらはらどきどきが、ほんとうに「1秒」なのだ。
 画面がてきぱきと動くと、心理のスローモーションがなくなる。人間のこころのなかに動いている、その動きの細部がふっとんでしまう。「間」がよすぎて「間」がなくなる。結果的に「間」の処理が悪い映画ということになってしまう。
 たとえば、一連のクライマックスのなかの、アメリカ人大使館員が映画の説明をするシーン。アラビア語を話せる男が、絵コンテを見せながら、こんな映画だ、と説明するのだが、その説明に入るまでのためらいが欠落しているので、彼の「どきどき」が伝わってこない。失敗したらどうしよう。この作戦のリーダーは自分ではないし、でもアラビア語が話せるのは自分しかいないし……。そういう苦悩があったはずなのに、それが映像としてえがかれないまま、突然、映画の説明をする。それこそ1秒、いや、その半分でもいいのだけれど、あの男の顔をアップ、目の動き--たとえば、ベン・アフレックに「こうしたい」とつたえるような表情があれば、「間」が濃密になる。
 こういう映画ではスピードが大事であると同時に、時間を止める、止めて瞬間的に深めるという2種類の操作をしないと「映画」が「事実」にならないのだが、どうも、その「時間を止める」ということがきちんと組み立てられていない。
 「時間」がてきぱきしすぎていて、「どきどきはらはら」が上滑りする。
 そのことについてもっと言うと。
 この映画の主役は複雑でベン・アフレックや人質が「主役」なのは当然だが、もうひとつ「映画」が主役であるはずであって、その架空の「映画」をつくらないままつくりつづけた監督とスタッフの「思い」があまりにも手軽にしか描かれていない。なぜ、そうしたのか。そのとき彼らは何を思っていたのか。そのこころの事実が映画ではわからない。時間がそこでは止まっていない。彼らの行動は時間に沿って描かれているが、こころの時間がない。だから「実話」なのに、まるで「映画」になってしまう。
                        (2012年10月27日、中州大洋4)



 (補足)
 中州大洋4で見たのだが、映写機トラブルで映像がいったん停止した。まっくらの画面になり、音だけが聞こえる。それはクライマックスの一連のシーンの、パスポートチェックのシーンなのだが、見ているときは、あ、いいところなのにと悔しい思いがした。事前に「一部画面が途切れる」と知らされていたのだが、まさか、そういうシーンとは思わなかった。
 だが、終わってしまうと、まあ、別に途切れていてもいいかなあ、と思った。
 こういうことを思ってしまうのも、映画の「間」が、すべて「娯楽」の「間」でできているので、見逃したという気分にはならないのである。
 偽の映画をつくる(つくらない)映画スタッフをはじめ、映画にはなっていないぶぶんにこそ、「事実」と、もっとおもしろい「映画」の可能性があるのになあ、という思いがしてくる映画である。



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