詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永井章子『表象』

2012-10-08 09:59:27 | 詩集
永井章子『表象』(編集工房ノア、2012年09月01日発行)

 永井章子『表象』にはとても驚かされた。初めて読むわけではないと思うが、あ、読み落としていた、という気持ちにさせられる。ていねいに向き合ってこなかったなあ、申し訳ないことをしたなあ、と反省してしまった。
 「メニエル症候群」にまずびっくりした。

主語を 私にして
歩いていくと
道はいつも行き止まりになる
そろそろ
私以外の 主語を
と思いながら
ほっておいたが もう
限界がきたのだろうか
私 という文字を見て
うえを見上げると
目がまわるようになった

 「主語」ということばのつかい方がおもしろい。「主語を 私にして」というのは「自意識過剰」の状態のことなのだろうか。自分のことをしっかり意識してということなのだろうか。--私はそんなふうに「誤読」する。
 いや、「誤読」を意識する間もなく、「誤読」にさそわれる。永井が何を書いているかは関係なくなる。永井のことばを追いかけることで、私は勝手に何かを感じたくなる。
 「主語を 私にして」というのが自意識過剰の状態だとしたら、「私以外の 主語」を思い描くことは自意識を棄てるということかもしれない。しかし、自意識を棄てるというのは、それ自体が自意識だろう。矛盾だね。あるいは、自己撞着、ということなのか。
 まあ、それ以上は考えない。
 永井のことばは、奇妙な具合に「開かれている」。窮屈ではない。自意識のことを書いているようであっても、それが奇妙に閉ざされていない。それがとても気持ちがいい。

 私は詩について語るとき、一篇の詩を何度も何度もつつきまわして考えることが多いのだが、というか、書きはじめると、ついついそんなふうに「誤読」の深みにはまっていくのだが、読むときは必ずしも、そこにある行をつつきまわしているわけではない。さーっと読んでしまう。だから読み落としも多いのだが、この永井の詩集も、あっと言う間に読んでしまった。
 そして、読みながら私は、「私以外の主語で考えると」ということばに重なり合うことばを次々に拾い上げた。

最終は何時ですか
と聞こうとしたのに
何を待っているんですか とまた違うことを
                      (「精密検査を受けてください」)

 「以外」は「違う」ということに似ている。「何を待っているんですか とまた違うことを」は「何を待っているんですか とまた思っていることとは違うことを」、つまり「思っていること以外のことを」聞いた、ということになりはしない。
 そして、その「違うこと(以外のこと)」は完全に違っているわけでもない。「何時ですか」「何を待っているのですか」というふたつの質問のなかには「何」という共通項がある。共通でくくれる何かがある。
 「以外」も「違う」も、何かしら「共通のこと」を含んでいる。
 とても変な印象だが、「私以外の主語」とういこき、そこには「私以外」を判断するために「私」が含まれてしまう。「私」をどこかで意識しないことには「私以外」もほんとうにそれが「私以外」であるかどうかわからない。
 「違う」は「同じ」を含んでいる。--これは「矛盾」だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。

以前と同じ感触が甦ったのです てっぺんに来た時 確かにここに来たことがあると確信しました
                             (「頂上の難破船」)

 「以前と同じ感触」。これは「いま」と「以前」が違うことを前提としている。「違う」が「同じ」をどこかで含んでいるから成り立つように、「同じ」は「違う」をどこかにかかえこんでいないと成り立たない。
 「違う」と「同じ」のあいだに「ほんとう」がある--というのは奇妙なことだが、永井が感じている「ほんとう」は「違う」と「同じ」のあいだ、「同じ」と「違う」ということばが動く瞬間にある。
 その言い方を借りて「誤読」をさらに進めれば、「私という主語」と「私以外の主語」の「あいだ」に「ほんとうのわたし」が存在するということになる。
 変だねえ。
 なぜ、「主語としての私」だけではないのか。それだけが独立して強固に存在することができないのか。--まあ、これは、わからない。わからないけれど、そのわからないなかに「わかっている」ことがある。どうも「ほんとうの私」は「主語としての私」と「私以外の主語」のあいだで、どうにもことばにならないものとなって動いている--それだけははっきりしている。

 あ、これでは、何もはっきりしていないか。
 でも、はっきりしているのだ。この変な感じを永井は正確にことばにしている。

自分の気持ちを自分に説明する言葉が見つけ出せない
                             (「頂上の難破船」)

 そうか。詩を書くのは、「自分の気持ちを自分に説明する言葉が見つけ出せない」からだね。「自分の気持ち」、それがあるのは「わかる」。けれど、それが「どんな気持ちなのか」ことばにできないので「わからない」としか言えない。
 この矛盾。そこに「ほんとう」がある。
 「ほんとう」ということばは、同じ「頂上の難破船」という詩のなかで「ほんとうのことろ そんな友がいたのかどうか曖昧です」という形でつかわれているのだが、ね、このつかい方も変であって、そのくせ、それ以外には考えられない「実感」に満ちたことばでしょ?
 「ほんとう」は「あいまい」。確かなのは「あいまい」だけ。

考えるとおかしな話だが 普段は見なれているせいで 特に不思議なこととも思わないで過ごしている
                           (「N門はどこですか」)

 論理的に考えようとすると、「おかしな話」である。しかし、そういうことを私たちは「特に不思議なこととも思わないで過ごしている」。「私」を「主語」にしながら「私以外の主語」を考えるというむちゃなことをやっている。「私」と「私以外」の主語のあいだにある「同じ」と「違う」をみつめながら、「あいまい」な「ほんとう」をつかんでいる。でも、それはことばにならない。実感しているのに他人に(誰かに)「わかる」形でことばを動かせない。

 この詩集はおもしろすぎる。哲学的すぎる。哲学の装いをしていないが、それは永井が哲学をしているからであって、ほんとうに哲学をすれば「装い」をしている暇などなくなるのだ。

いつも
ことばが先をいき
思いが
追いかける
追いついてみると
少し違う
何か違う
そんなずれが揺れている
                               (「出会い」)

 「ほんとう」が存在する「あいだ」、それは「ずれ」なのか。「ずれ」と永井は呼んでいる。「追いかける/追いついてみると」というとき、そこに「あいだ」は消えるのだけれど「ずれ」がある。
 秋になって、続々と詩集が出版されている。読んでも読んでも追いかつないが、この詩集はことしいちばんの詩集である。
 おもしろすぎて、これ以上深入りすると、ほかの詩集が読めなくなってしまう。
 永井には申し訳ないが、感想を書くのはきょうかぎり。
 
 この「日記」を読んだひとにはぜひ読んでもらいたので、発行所の情報を書いておく。
株式会社 編集工房ノア
〒531-0071 大阪市北区中津3-17-5
電話(06)6373-3641
FAX (06)6373-3462




表象―永井章子詩集
永井章子
編集工房ノア
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