アッバス・キアロスタミ監督「ライク・サムワン・イン・ラブ」(★★★★)
監督 アッバス・キアロスタミ 出演 奥野匡、高梨臨、加瀬亮
キアロスタミが日本人俳優をつかって日本で映画を撮った--という「話題」にひかれて見たのだが、なんとも不思議である。「手触り」が不思議である。
高梨臨がタクシーに乗って奥野匡のマンションへ行く。その途中、駅のロータリーで会いに来た祖母の姿を見る。ロータリーを2回まわる。途中にトラックが止まっていて、祖母がよく見えない。だから2回まわるのだが、そのシーンに限らず、これは映画? それともドキュメンタリー? と区別がつかない。映画は映画なのだけれど、映像があまりにも虚構性を欠いているために、映画を見ているという安心感がない。嘘をみているという安心感がない。つまり、どうせ映画なんだから、という気楽さがない。
最初の方の、高梨臨が嘘をついているシーン。加瀬亮がほんとうかどうか確かめるために、電話越しに「トイレへ行け」という。トイレで水を流せ。トイレのタイルを数えろ。--ほんとうにそのトイレにいたのかどうか、あとでタイルの数を数えることで確かめるというのだ。うーん。これは映像ではなく、台詞なのだが、その嘘のようなことばが、高梨臨のどうしたらいいのかわからない、という顔のなかにしっかり根をおろし、おいおい、こんな「ほんとうのシーン」なんか映画にいれるなよ、と思いたくなるのだ。
映画は、日常では見ることのできない何かを見るためのものである。高梨臨と加瀬亮のやりとりはたしかに日常的に見ることができるのもではないが、それは見ることができないというよりも、見ることを除外しているシーンである。私たちはいつだって見たいものだけを選んでみている。見たくないものは見ないという生き方をしている。
これは、どこの国でもそうだろう。
たとえばキアロスタミの「友達のうちはどこ?」。少年が洗濯物をしている母に対して、ノートを友達の家まで返しにいかないといけないという。母親は、それをまるで聞こえなかったように聞き流し、洗濯物を干しつづける。このときの母親の態度は、子どもの言っていることは聞いてはいるが、ほんとうは聞いていない。つまり、親身に向き合っていない。「そんなこと、どうだっていい。ほかにすることがあるだろう」というのである。
で、そこからがとてもおかしいことが起きるのだ。--これは「友達のうちはどこ?」にかぎらず、まあ、「現実」のことなのだけれど、その、ある人にとっては「どうでもいいこと」が別の人にとっては「どうでもいいこと」ではなく、真剣に悩んでいることなのだ。
見たくないものは見ない。けれど、見てほしいのは、その見たくないことであるということがある。逆に、見られたくないものがある。けれど、それは見られてしまう。そういうこともある。見る-見られるは、思いのままにはならない。
こういう場面に、キアロスタミのカメラはするりと入ってきて、その見る、見られるを「なま」の形で定着させる。
高梨臨がタクシーで駅のロータリーをまわるシーンが印象的なのは、それが高梨にとって「見られたくない」シーンであると同時に、「見てほしい」シーンだからである。おばあちゃん、会いに来たんだよ。おばあちゃんを、こんなふうにタクシーのなかから覗き見しながら、おばあちゃんには会わずに内緒の仕事に行くんだよ。内緒の仕事は知られたくない(見られたくない)けれど、おばあちゃんを完全に裏切ったわけではないということは見ていてほしいよ。
それをタクシーの運転手は「事情」がわからないまま、バックミラー越しに見ている。何が起きているのかわからない。けれど、何かが起きているということはわかる。わからないのに、わかる。見る必要もないし、見なくてもいいものだけれど、ひとはそれを見てしまい、わからないのに、わかってしまう。いやだねえ。--これが「目の力」、「見る」という人間の不思議な力なのだけれど、それが何といえばいいのだろう、じわーっと肉体に迫ってくる。この「じわーっ」が「ほんとう」。「うそ」ではない、この映画の苦しさというか、窮屈な感じ。気楽になれないねえ。こういうものが、肉体のなかにたまりつづけていく。それが人生といえば人生なのだろうけれど。
さらにめんどうくさいのは。
奥野匡のマンションのとなりに住んでいる女の視線。彼女は奥野匡の行動を窓から、身を隠したままずーっと見ている。そしてことばで干渉もする。「私は見ているのよ」という具合。ことばには出さないけれどね。で、めんどうくさいというのは、彼女の「好奇心」のようなものは、私にもあるということ。タクシーの運転手にもあるということ。見なくてもいいんだよ。見ない方がいいんだよ。でも、見えたものから、あれこれ考えてしまう。そしてほんとうにわかったわてげはなく、一部しかわかっていないのに、そのわかったことを手がかりに「現実」を自分の想像力にあわせて捏造してしまう。
たぶん、キアロスタミの今回の映画は、そういう視点へと収斂していくのだろうけれど(つまり、そういうふうにとらえればすっきりしたストーリーとして見えるのだろうけれど)、でもねえ、ストーリーなんて「ご都合」だから、それは映画とは無関係なんだなあ。
ストーリーに流されず、映像にもどろう。
いや、「声」にもどった方がいいのかな。
一方に、小さな窓(カーテンで自分の視線は隠している)から見つめつづけるひとがいる。見えたものだけを手がかりに勝手にあれこれ他人に干渉してくる人がいる。他方で、現実に会っていても、すべてを知っているわけではなく(見えているわけではなく)、そのために「声(ことば)」で、その見えないものを見ようとする欲望がある。見えないものこそ、ことばにすることで見たいのだ。
こういうことを母国語ではなく、日本語の俳優をつかってやってしまうところが、不思議だなあ。わからないことばだからこそ、ことばで何かを見ようとする「欲望」だけがキアロスタミにつたわったということかな? そうだとすると、とても耳のいい人だ。キアロスタミ監督は。ことばではなく「声」そのもののなかに、何かを見ている。だから、おばあちゃんの声、覗き見する女の声の、感情を否定したようなひびきの意味がある。感情を隠している--その隠しているものを、あるいは隠しているということをキアロスタミは聞き取っている、ということになる。
そういうキアロスタミに通じる耳の力も、私たちはこの映画では要求されているのかもしれない。キアロスタミは観客にいろいろ要求してくる監督なのだ。そうした映画をとる人間なのだ。
うーん。
ちょっと困ってしまう。
キアロスタミには、つまりイラン人には日本人はこんなふうに見えるのか、と突き放してみることができれば簡単なのだが、そんなふうにはならない。イラン人監督が見た日本、日本人という感じがない。国籍を突き破って、肉体の力、見る、聞く力の本質に立って、人間をそのまま把握している。日本にきて、ことばが通じず、通じないために、ことばに頼らず目と耳の力だけで「現実」を鷲掴みにしている。そのどっしりしたエネルギーに圧倒されて、見ていて(聞いていて)、私は困ってしまった、ということなのかもしれない。
ハリウッド映画では、こういう困惑は味わえないね。
書きそびれして待った。加瀬亮が奥野匡の車のなかで、高梨臨のことを話す。このシーンが非常にいい。高梨臨のタクシーのなかでのシーンから書きはじめてしまったためにうまくつながらないのだが、そこにいるのは演じられた人物であるはずなのに「うそ」ではなく「ほんとう」を見てしまう。加瀬亮のなかに存在する「おとこ」の「ほんとう」が加瀬亮を突き破ってあふれてくる(主演男優賞ものだね)。それに向き合う奥野匡の「うそ」も年季が入っていて、とてもおもしろい。
(KBCシネマ1、2012年10月07日)
監督 アッバス・キアロスタミ 出演 奥野匡、高梨臨、加瀬亮
キアロスタミが日本人俳優をつかって日本で映画を撮った--という「話題」にひかれて見たのだが、なんとも不思議である。「手触り」が不思議である。
高梨臨がタクシーに乗って奥野匡のマンションへ行く。その途中、駅のロータリーで会いに来た祖母の姿を見る。ロータリーを2回まわる。途中にトラックが止まっていて、祖母がよく見えない。だから2回まわるのだが、そのシーンに限らず、これは映画? それともドキュメンタリー? と区別がつかない。映画は映画なのだけれど、映像があまりにも虚構性を欠いているために、映画を見ているという安心感がない。嘘をみているという安心感がない。つまり、どうせ映画なんだから、という気楽さがない。
最初の方の、高梨臨が嘘をついているシーン。加瀬亮がほんとうかどうか確かめるために、電話越しに「トイレへ行け」という。トイレで水を流せ。トイレのタイルを数えろ。--ほんとうにそのトイレにいたのかどうか、あとでタイルの数を数えることで確かめるというのだ。うーん。これは映像ではなく、台詞なのだが、その嘘のようなことばが、高梨臨のどうしたらいいのかわからない、という顔のなかにしっかり根をおろし、おいおい、こんな「ほんとうのシーン」なんか映画にいれるなよ、と思いたくなるのだ。
映画は、日常では見ることのできない何かを見るためのものである。高梨臨と加瀬亮のやりとりはたしかに日常的に見ることができるのもではないが、それは見ることができないというよりも、見ることを除外しているシーンである。私たちはいつだって見たいものだけを選んでみている。見たくないものは見ないという生き方をしている。
これは、どこの国でもそうだろう。
たとえばキアロスタミの「友達のうちはどこ?」。少年が洗濯物をしている母に対して、ノートを友達の家まで返しにいかないといけないという。母親は、それをまるで聞こえなかったように聞き流し、洗濯物を干しつづける。このときの母親の態度は、子どもの言っていることは聞いてはいるが、ほんとうは聞いていない。つまり、親身に向き合っていない。「そんなこと、どうだっていい。ほかにすることがあるだろう」というのである。
で、そこからがとてもおかしいことが起きるのだ。--これは「友達のうちはどこ?」にかぎらず、まあ、「現実」のことなのだけれど、その、ある人にとっては「どうでもいいこと」が別の人にとっては「どうでもいいこと」ではなく、真剣に悩んでいることなのだ。
見たくないものは見ない。けれど、見てほしいのは、その見たくないことであるということがある。逆に、見られたくないものがある。けれど、それは見られてしまう。そういうこともある。見る-見られるは、思いのままにはならない。
こういう場面に、キアロスタミのカメラはするりと入ってきて、その見る、見られるを「なま」の形で定着させる。
高梨臨がタクシーで駅のロータリーをまわるシーンが印象的なのは、それが高梨にとって「見られたくない」シーンであると同時に、「見てほしい」シーンだからである。おばあちゃん、会いに来たんだよ。おばあちゃんを、こんなふうにタクシーのなかから覗き見しながら、おばあちゃんには会わずに内緒の仕事に行くんだよ。内緒の仕事は知られたくない(見られたくない)けれど、おばあちゃんを完全に裏切ったわけではないということは見ていてほしいよ。
それをタクシーの運転手は「事情」がわからないまま、バックミラー越しに見ている。何が起きているのかわからない。けれど、何かが起きているということはわかる。わからないのに、わかる。見る必要もないし、見なくてもいいものだけれど、ひとはそれを見てしまい、わからないのに、わかってしまう。いやだねえ。--これが「目の力」、「見る」という人間の不思議な力なのだけれど、それが何といえばいいのだろう、じわーっと肉体に迫ってくる。この「じわーっ」が「ほんとう」。「うそ」ではない、この映画の苦しさというか、窮屈な感じ。気楽になれないねえ。こういうものが、肉体のなかにたまりつづけていく。それが人生といえば人生なのだろうけれど。
さらにめんどうくさいのは。
奥野匡のマンションのとなりに住んでいる女の視線。彼女は奥野匡の行動を窓から、身を隠したままずーっと見ている。そしてことばで干渉もする。「私は見ているのよ」という具合。ことばには出さないけれどね。で、めんどうくさいというのは、彼女の「好奇心」のようなものは、私にもあるということ。タクシーの運転手にもあるということ。見なくてもいいんだよ。見ない方がいいんだよ。でも、見えたものから、あれこれ考えてしまう。そしてほんとうにわかったわてげはなく、一部しかわかっていないのに、そのわかったことを手がかりに「現実」を自分の想像力にあわせて捏造してしまう。
たぶん、キアロスタミの今回の映画は、そういう視点へと収斂していくのだろうけれど(つまり、そういうふうにとらえればすっきりしたストーリーとして見えるのだろうけれど)、でもねえ、ストーリーなんて「ご都合」だから、それは映画とは無関係なんだなあ。
ストーリーに流されず、映像にもどろう。
いや、「声」にもどった方がいいのかな。
一方に、小さな窓(カーテンで自分の視線は隠している)から見つめつづけるひとがいる。見えたものだけを手がかりに勝手にあれこれ他人に干渉してくる人がいる。他方で、現実に会っていても、すべてを知っているわけではなく(見えているわけではなく)、そのために「声(ことば)」で、その見えないものを見ようとする欲望がある。見えないものこそ、ことばにすることで見たいのだ。
こういうことを母国語ではなく、日本語の俳優をつかってやってしまうところが、不思議だなあ。わからないことばだからこそ、ことばで何かを見ようとする「欲望」だけがキアロスタミにつたわったということかな? そうだとすると、とても耳のいい人だ。キアロスタミ監督は。ことばではなく「声」そのもののなかに、何かを見ている。だから、おばあちゃんの声、覗き見する女の声の、感情を否定したようなひびきの意味がある。感情を隠している--その隠しているものを、あるいは隠しているということをキアロスタミは聞き取っている、ということになる。
そういうキアロスタミに通じる耳の力も、私たちはこの映画では要求されているのかもしれない。キアロスタミは観客にいろいろ要求してくる監督なのだ。そうした映画をとる人間なのだ。
うーん。
ちょっと困ってしまう。
キアロスタミには、つまりイラン人には日本人はこんなふうに見えるのか、と突き放してみることができれば簡単なのだが、そんなふうにはならない。イラン人監督が見た日本、日本人という感じがない。国籍を突き破って、肉体の力、見る、聞く力の本質に立って、人間をそのまま把握している。日本にきて、ことばが通じず、通じないために、ことばに頼らず目と耳の力だけで「現実」を鷲掴みにしている。そのどっしりしたエネルギーに圧倒されて、見ていて(聞いていて)、私は困ってしまった、ということなのかもしれない。
ハリウッド映画では、こういう困惑は味わえないね。
書きそびれして待った。加瀬亮が奥野匡の車のなかで、高梨臨のことを話す。このシーンが非常にいい。高梨臨のタクシーのなかでのシーンから書きはじめてしまったためにうまくつながらないのだが、そこにいるのは演じられた人物であるはずなのに「うそ」ではなく「ほんとう」を見てしまう。加瀬亮のなかに存在する「おとこ」の「ほんとう」が加瀬亮を突き破ってあふれてくる(主演男優賞ものだね)。それに向き合う奥野匡の「うそ」も年季が入っていて、とてもおもしろい。
(KBCシネマ1、2012年10月07日)
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