詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵美子『集光点』

2012-10-27 10:33:49 | 詩集
斎藤恵美子『集光点』(思潮社、2012年10月31日発行)

 斎藤恵美子『集光点』には、非常に困惑した。私には「日本語」として「聞こえてこない」。詩集のタイトルの『集光点』は読んだとき「意味」はわかったような気持ちになる。光が集まる点、くらいだろう。けれど、その「意味」は私の肉体のなかに入って来ない。なぜかというと、私は「しゅうこうてん」という音を聞いたことがないからだ。
 こういうことが頻繁に起きる。そしてそれは「単語」だけの問題ではない。いや、単語以外の問題の方が大きい。
 巻頭の「居留地」。

旅程だけで組み上げられた人生を
なげうって
流れ着いた極東の 波音のする小さな町を
祖国と呼んだ
白昼の 三次元ラウンジから
眺望するドックヤード
振り向きざま
アラブの言葉で 囁かれた記憶もある

 アラブからの船、それに乗ってきた人か、船そのものが「主語」なのかは1連目だけではわからない。わからないことは、そのままにしておく。「三次元ラウンジ」というのも、わかったようでわからない。これもそのままにしておく。
 私がつまずくのは、それよりも2行目「なげうって」である。なぜ、「なげうって」だけが1行として存在しているのか。そのリズムにつまずく。こういうことばのリズムを私の肉体は知らない。どこかで聞いているかもしれないが、そういうときはたぶん聞こえないふりをしているのだと思う。そういう音(リズム)が飛び交う世界は、私の世界とは相いれないと肉体が拒絶するのである。

それらを包む拍子(タクト)はおそらく 波音でしかあるまいと
                                (「居留地」)

此処は、人が、生まれ落ちる前の拍子(タクト)と
                               (「岩石海岸」)

埋め立てられた、土地を歩くと、歩幅のリズムがいつもより
                                (「磯焼け」)

水の呼吸と同じリズムで、淡い緑を揺らそうと
                                (「磯焼け」)

 こうした行を読むと、斎藤は拍子(タクト)、リズムというものに反応していることがわかるが、その拍子、リズムが私とはまったくあわないのである。
 「此処は、人が、生まれ落ちる前の拍子(タクト)と」「埋め立てられた、土地を歩くと、歩幅のリズムがいつもより」の読点「、」のリズムにも私の肉体はまったくついていけない。「意味」はわかる--わかったつもりになるが、きっとそれは「誤読」にすらなっていない。「頭」をかすめて、私の知らない方向へ飛び去ってしまう。「虚無」すら、そこには存在しない。
 こういうとき、私はほんとうに困惑する。
 私の場合まったくリズムがあわない詩人というとまっさきに稲川方人が思い浮かぶが、その稲川の場合は、平出隆の詩を読んだあとだけ、あ、そうなのか、こういうリズムがあるのか、ということがなんとなくわかる。平出のことばのリズムを肉体にしみこませたあとなら稲川のリズムを受け入れることができる。
 斎藤の詩を受け止めるために、私はだれの詩で耳をなじませればいいのか--それが思いつかない。

 こういう作品群に出合ったとき、まあ、ほうっておくしかないのかもしれない。私のことばの範疇外。「目」で読むと、なんとなく「意味」はわかるが、それは私の肉体とはなじまない、と言うだけでいいのかもしれない。
 ところが。

ムスリムの 男の夢に
二度目の天体が現われて
                               (「屋台料理」)

 これは「耳に入ってくる」。「二度目の天体」というのは、「二度目」であるけれど、それはムスリムの男にとっては「はじめて」である。何度現われようが、それは「はじめて」である。ムスリムだからアラーの神のことを考えていいのだと思うが、そのアラーの神と向き合うときのように、それは何度くりかえしても「はじめて」という感じが肉体のなかに直に響いてくる。
 私がいま書いたこと(「二度目であってもはじめて」)とその2行には書いてない。つまり私の「誤読」なのだが、そういう「誤読」を誘い、そのなかでことばを揺り動かすリズムがそこにはある。

今朝は、時間の脈搏へ
自分の脈が思うように重ならない
                                (「D突堤」)

写真は、行為ではないことを、私も肉体で知っている
関係なのだと
写真の中の、死者と私は、接点を持たぬ
                              (「視線の写真」)

 読点「、」に「誤読」を拒絶されてしまうが、ここに書かれている「脈」「肉体(で知っている)」が「誤読」を誘う。そのことばに私は誘われる。
 ぜんぜんわからないのに、そのわからないものがときどき、ふっと私を誘い込む。
 奇妙に何かが揺すぶられる。

 困ったなあ。
 どう書いていいかわからないなあ。

 特に。
 「観念の壺」。これは、傑作だなあ。とてもいい。

テネシー州の上に、ひとつの壺を置いた、あなたにとって
正確とは、自己に忠実であることだったが

テネシー州に、置かれた壺を
まざまざと想起するには
「テネシー州」が固有名詞であることを、いったん忘れ

針の先に、貫かれた一点から噴くものが、鮮烈な知であるためには
言葉の張力が必要だ

 とぎれとぎれに「部分」を引用してみた。この「部分」でも、私は読点「、」につまずいてしまうが、つまずきながらも、まだなんとかついて行ける。
 なぜかなあ。
 斎藤のことばが、「肉体」ではなく「観念(?)」へ向けて動いているからだ。「肉体」ではなく、「頭」で斎藤はことばを受け止め、動かしているのだ。
 読点「、」は肉体の呼吸(リズム、タクト)ではなく、「脳」の波なのだ。脳波の刻む電子音のようなものなのだ。
 そうか。
 「脳」を鍛えてから読まないといけないのだな、「肉体」だけで、素手でことばをつかみ取ると、「脳髄(?)」の灰色の無機質しかつかむことができないから、思わず手を引っ込めてしまうことになる。
 
 と、言う具合にまで「わかった」が、そして、これはなかなかおもしろいことだぞとも「頭」では理解できるが、うーん、やっぱりその方向に動こうとすると、私の肉体が「やめておけ」と引き留めるのである。
 困ってしまった。


最後の椅子
斎藤 恵美子
思潮社
コメント
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