詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高野民雄『空の井戸』

2012-10-12 10:29:19 | 詩集
高野民雄『空の井戸』(思潮社、2012年09月25日発行)

 高野民雄『空の井戸』を読みながら、ふたつの視点、ということを考えた。
 「空の井戸」の1連目。

そこに何も隠されているわけではない
空の深い井戸
私たちはそれを重力の下から仰ぎ見て
限りなく深いと感じ その深みから
また 限りもなく何かが湧き出すようにも思う

 空は井戸ではない。これが一つ目の視点。井戸ではないけれど井戸と呼ぶことができる、というのがもうひとつの視点。ふたつ目の視点は「虚構」と言い換えることができる。しかし、虚構ではないかもしれない。そこから何かを生み出すための、あえて作り上げた何かではないかもしれない。
 では、何といえばいいのだろう。
 簡単に「比喩」と言っていいのかもしれない。「いま/ここ」にそれ(呼んでいる何か)があるわけではないのだが、「いま/ここ」にないからこそ、ことばによって「いま/ここ」に呼び出すということかもしれない。
 ある「もの(存在)」を呼び出して、「いま/ここ」にある「現実」と「いま/ここ」にない「何か」を結びつける。
 いや、それとも違うなあ。

また 限りもなく何かが湧き出すようにも思う

 この1行の「思う」がとても象徴的である。
 高野は「思う」ことさえも「思っている」。「思う」がひとつ目の視点だとすれば、その「思う」を「思っている」がふたつ目の視点。--なんだか、「われ思う、ゆえにわれあり」みたいな感じだが、高野の意識(ことばの運動)は自然に対象を対象化してしまう。
 これは、その直前の「限りなく深いと感じ その深みから」の「感じ」にも通じることである。
 「思う」も「感じ」も、詩には不要なことばである。

そこに何も隠されているわけではない
空の深い井戸
私たちはそれを重力の下から仰ぎ見る
限りなく深い その深みから
また 限りもなく何かが湧き出す

 「感じ」と「思う」を削除しても(3行目は一部文意がつながるように書き改めた)、そこに書かれている世界は変化しない。というより、「感じ」あるいは「思う」を省略した方が、高野と空と、そして大地が一体になるというか、大地と空とのあいだに存在する高野が、空-高野-大地という区別がなくなる。

空(高野)大地
高野(空-大地)

 どう表現していいのかわからないが、高野が消えるか、空-大地が消える。消えたと思ったら、あらわれる、という感じになる。
 ところが「感じ」「思う」があると、どうしても中心に「高野」があらわれてきてしまう。空、大地と対立してしまう。対立ということばはたぶん正確ではないのだが、自己主張してしまう。
 で、この自己主張が、おもしろいことに「ふたつの視点」を行き来する。高野は一方で「空は深い井戸」と自己主張し、他方で「空は深い井戸」という視点からも自己主張する。
 それが2連目。

空はなぜ青いのか
私たちはそれを学校で あるいは本で学ぶのだが
二十生世紀の半ばを過ぎて やっと
重力に少しだけ打ち勝って空の青を超えた宇宙飛行士たちは
地球は青いといい 映像によって私たちもそれを見た

 「空は深い井戸」と自己主張していたときは、高野は「地上」にいたはずである。ところが、2連目では高野は地上にはいない。実際は地上にはいるのだが、意識は地上を離れ「空の深い井戸」の「底」、つまり宇宙にいる。そこから地球を見つめている。
 この瞬間「井戸」は「井戸」ではなくなっている。「地上」は「地上」ではなくなっている。「宇宙」を起点にして、地球そのものを「井戸の底」のように見つめている。
 視点が「飛ぶ」(飛躍する)のである。
 で、このとき。
 1連目の「感じ」「思う」はどこへ行った? どこへ消えてしまった?
 変だねえ。
 「感じ」「思う」は何に変わったのか。
 私の「感覚の意見」では、それは「学ぶ」に変わった。
 「感じ」「思う」は「自分」だけの世界だが、「学ぶ」は「自分」であるよりも他人、詩のなかにあらわれてきたことばを借りて言うと「学校」「本」の世界である。「学校」や「本」が、「感じ」や「思う」を修正する。そしてそこには自分の肉眼で見たものではなく、他人の肉眼で見た(らしい)もの、つまり「他人が撮影した映像」がわりこむのだが、こういう修正を、高野は「違和感」もなく受け入れている--ように感じられる。
 その「違和感の欠如(?)」が、何といえばいいのか、「ふたつの視点」を簡単に共存させてしまう。

 うーん。

 よくわからないのである。私には。どっちの視点についていけば高野に出会えるのか、それがわからない。「ふたつの視点」をもっている、ととらえるときだけ、高野はそこに存在するのだが、もし、現実に私が高野と出会ったときのことを思うと、「ふたつの視点」で見られてはいやだなあと直感的に思うのである。

 3連目は省略して、4連目。

私たちもそこにいるはずである
宇宙または夜の暗黒を背景に浮かぶ地球
その不安定な映像の 陽の当たる空と海と陸
それらをおおう薄青い光の底
あるいは写っていない向こう側の夜の闇の底に
見上げる顔のひとつもなく
だれひとり写っていない
私たちの記念写真
逆向きの
空の
深い井戸の


 「私たちもそこにいるはずである」の「はずである」は強い断定だが、断定とはいいながら、それは「頭」で動かしている断定である。「論理」である。
 「感じ」「思う」は「学ぶ」を経て「論理」を突き動かし、「推論」を「結論」としてさし出す。そして、その「結論(推論)」は科学によって裏付けられているから、それに対してだれも異議はとなえないだろう。
 宇宙飛行士が撮影した青い地球。そこには写ってはいないが、つまり「解像」されてはいないが、ほんとうは私たちがいる。高野がいる、ということを現代ではだれも否定はしない。
 そうなのだが。
 ここに、何か大きな問題がひそんでいる。と、私の「感覚の意見」は声を張り上げる。これは、とても変なことだと思う。
 地球にいて空を見上げる高野の視点。そして、その空を「深い井戸」ということばでつかみ取る高野の、いわば「肉眼」ではないもうひとつの視点。そのあと、その肉眼ではない視点から「逆向き」に肉体の存在する地球、地球にいる高野を見つめ返してくる「第3の視点」。
 「第3の視点」の発見が、高野という詩人を特徴づけるのかもしれないけれど、それを可能にしているのが「学ぶ」を経由していること、その「学び」を高野はあまりにも簡単に受け入れているという印象があって、
 うーん、
 私は、そこでまたとまどうのである。

 このとまどいは、詩集の後半にある「俳句(?)」を読むともっと大きくなる。

草に寝て
空見上げれば
青地球

 これは「空の井戸」をそのまま3行に書き直したものだろう。空を見上げると同時に、その空の形見から地球を見下ろしている。そういう「感じになる」--それはそれで、とてもよく「わかる」のだが、つまり私はそこから「誤読」の世界へ突き進んで行きたい欲望に一瞬かられるのだけれど、「誤読」を押し進めることができない。
 俳句の世界では、自己の視点と、自己ではない宇宙の視点が出会い、その出会いのなかで自己と宇宙がとけあって、「いま/ここ」が「いま/ここ」を超えた別の「次元」になる瞬間が感動的なのだが、そしてそれが「別次元」であるからこそ、どんな「誤読」でも「誤読」したものの勝ち(?)ということになるのだが、高野のことばの世界では、「いま/ここ」の融合のかわりに「学校(学ぶ)」が割り込んできて、それが世界を「整然」とととのえる。
 「見上げれば」の「れば」に、高野の「論理を生きる学びの精神」が強烈にあらわれている。仮定し、推論し、結論を下す。そのとき、そのことばの運動を支配しているのは感情でも感覚でもなく、第三者から「学んだこと」である。
 うーん、これでいいのかな?
 私の「わからない」は「疑問である」の「言い換え」である。




空の井戸
高野 民雄
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする