池井昌樹『明星』(2)(思潮社、2012年10月01日発行)
池井昌樹『明星』にはいつもの、ひらがなの「定型詩」のほかに「散文詩」がある。
散文詩といってもエッセイとどう違うのか。あるいは志賀直哉の短編とどうちがうのか。たぶん区別はない。区別したってしようがない。ことばを読むとき、それが詩集に入っているか、エッセイ集に入っているか、短編集に入っているかという「流通」の都合があるだけだろう。
で、その散文詩。「Help! 」は中学生のころの思い出を描いている。夏の夜、隣家の屋根の上で男が大声で歌っている。「うるさい」とまわりが騒ぎだし、その男の父親らしい影が男を家のなかに連れ戻すということがことがあった。
そのなかほど。
これはなんでもない感想、感慨のように読める。実際に、読んでしまう。こういうことはだれにでもあることだろう。「いま/ここ」にいるのに、遠い一瞬が「いま/ここ」のすぐそばに「ありあり」と思い出される。
なぜ、この行を書いたのかなあ。なぜ、こんなふうにだれもが言うことをだれもがいう具合に、つまり「流通言語」で書いたのかなあ。--ということを考えると、たぶん、その答えにつまってしまう。
なくていいんじゃない? この行は、いらないんじゃない?
前後を含めて引用すると、それがさらにわかると思う。
男が屋根の上で歌を歌っていたのは夏の夜。姉と弟(池井)が大学に合格し、高校に落第したのは、その翌年の春。そこに「時間」があるのだけれど、なぜ、そこに「いま」がわりこみ「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という文章が必要なのか、と考えはじめると、説明する「論理」がない。見つからない。論理的に考えると、そこにそういう行が必要であるという理由がないのに、しかし、私たちはつまずかずに、さっと読んでしまう。自然に読んでしまう。
これは変だよねえ。
変なのだけれど、しかし、変じゃないよね。言い換えると、私が「変だ」と言っているから、そのことばが「変」に見えてくるだけで、たぶん、実際にはだれもこんなところにつまずかない。読みとばしてしまう。
この「読みとばし」--これは、私の「感覚の意見」では、この瞬間、「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という行為が、読者と池井とのあいだで「共有」されてしまうというこことだと思う。
たとえば「変声期前のボーイソプラノ」というのがほんとうかどうか知らないが、「そうか、池井は中学三年でまだ変声期ではなかったのか。私は中学に入ると同時に変声期になったなあ」、「池井は高校受験に失敗したのか。私は公立高校に受かったけれど」という具合に、「池井」と「私」が「別人」として存在するために書かれている。そこでは「池井の体験」をそっくりそのまま読者は「共有」しない。池井は自分とは違うということ確認する。
でも「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という文にふれるとき、「半世紀前の夜」の出来事は池井の体験したものであって、読者(私)が体験したものではないにもかかわらず、「ありありと思い出す」という「行為」そのものを、まるで「池井の体験」であって「私の体験」ではない、という具合に、瞬間的には思わない。
何かを「ありありと思い出す」という「行為」そのものの「時間」というか、動詞がふ含んでしまう「こと」のようなものが、私をすっぽり飲みこんで、「こと」が「共有」されるのだ。
私の書いていることは、かなり面倒くさいことであり、説明しようとすればややこしくなるだけなのだが。
ええっと。
私はよく「キイワード」ということばをつかう。そして「キイワード」というのは、書いている本人にとってはわかりきっていることなので、たいていは書かれない、という具合に説明する。その「キイワード」はいわば筆者の「肉体」である。「肉体」であるから「思想」である、と考えるのだが。
この詩の場合、「キイワード」は「ありありと思い出す」なのである。
「キイワード」が「キイワード」であるためには、それがほんとうは池井個人の肉体にだけ深くからんでいるという「特徴」をもっていないといけない。
けれど、この詩の場合、「ありありと思い出す」には、そういう「特徴」がない。だれでも、ある瞬間を「ありありと思い出す」ことがあり、そういうことをしばしば語る。
だから、めんどうくさい。
なぜ、このことばが「キイワード」なのか、それを説明するのがめんどうくさいし、また他人と楽々と「きょうゆう」されてしまうものが、なぜ池井の詩の特徴なのか、ということを説明するのはもっと面倒くさい。
ややこしい。
で、飛躍して言ってしまうと。(この「飛躍」も、私が最近つかう「手」のひとつなのだが……。)
池井の「キイワード」は「だれでもない」ということ。所有権がないということ。所有権は池井を超える何ものかがもっていて、その何ものかはだれにでも開かれているものなので、読者はそれを「キイワード」とは気がつかない。
言い換えると、それは「私の知っていること」(私の感じていること、私の体験したこと)と、簡単に「誤読」してしまう。
この「誤読」を「共感」とふつうはいうのだけれど。
で、池井の詩は何も新しいことなんか書いていない。古くさい思い出ばかり書いている。ことばの冒険はどこにもない、「現代詩ではない」というような批判もそこから成り立ちもするのだけれど。
でもね、違うんですよ。
「共感」という「誤読」は、あまり信じてはいけない。「共感」しているのではなく、それは自分の感性というか、自分のことばを封印して、池井のことばの上っ面をなぞって「わかった」と思い込んでいるだけ。錯覚なのだと私は思う。
あの男はどうなっただろうか。風の便りで、地元で働いていることを知った。また、あのときの歌はビートルズの歌だった(たぶん「ヘルプ!」)ということをことを書いたそのあと、詩の最後の部分。
半世紀前の昭和の記憶、風鈴の音、蛙の声、玩具屋--それといっしょにある自分の「綺麗な興奮」。それは、池井と同年代の人間(つまり私のことだが)には、そのまま「なつかしい」という「共感」にすりかわる。同時に「なつかしいけれど、そんなことは知っている」ということにもなる。知っているからなつかしいのだが。
でも、最後の最後の、
これは、どう? 「共感」できる? というか、わかる?
「夜になってもまだ帰らない、少年」は池井のこと? なぜ「帰らない」と「少年」野あいだに読点「、」がある? その「少年の手を引きにくる誰(か)」って誰?
ふいに、池井が遠くなるでしょ?
「ありありと思い出す」という池井と、この読点で区切られた少年、さらにその少年の手を引く「誰(か)」の関係が、突然複雑になるでしょ?
「夜になっても帰らない少年」ならば、それはまあ池井の子ども時代思い出にすぎない。中学三年になって、その少年が手を引きにくる誰かを頼りにするというのは、変だぞ、くらいの印象が生まれるだけである。
問題は、実は、読点「、」。
この読点「、」をこそ、池井は「ありありと思い出す」のである。
「まだ帰らない少年」という具合に、「名詞」を修飾するののではなく、ここでは「まだ帰らない」という「こと」、動詞を含んだことがらが独立して「ありあり」と思い出されている。そして、その「こと」を思い出したあとで、池井の肉体のなかで「誰かが手を引きにくる」「こと」が重ね合わせられている。
ふたつの「こと」が同時に存在する。その「こと」は繰り返すと「動詞」を含んでいる。「動詞」というか、動作というか、肉体ができる運動は基本的にひとつであり、ふたつの動詞をいっしょにすることは、肉体には、一種の「むり」である。「聞きながら勉強する」「歩きながら話す」というふたつの動詞はどうか、という意見は当然あるだろうけれど、それは並列というものであり、歩く足が話すわけではない。
「帰らない」という「こと」、手を「引きにくる」という「こと」。その「こと」の主語は、別々である。別々であるが、それが「つながっている」という「こと」を池井は「ありあり」と感じている。
で、この「ありあり」を強調するために、実は、途中の「ありありと思い出す」という余分なことばがあったのだ。
池井がほんとうに「ありありと思い出す」、「ありありと感じている」のは、15歳の夏という「時間」ではなく、そういう世界が存在するときに、その世界のなかでそれぞれの「帰らない」こころを、そのこころの手を引いている何か「いる」という「こと」なのだ。
*
別な形の「補足」を考えてみる。
あるところに、次のような文章を書いた。
ことばは、「みかけ」にひきずられてだまされることがある。
「躾」の「身」を「肉体」と思うのは、みかけに「共感」しているからである。
でも、ことばは、そんな具合には動いてはいないのである。
この文を書いたときは思い浮かばなかったが、「躾」の「身」は、「身を入れる」というときの「身」と考えると、きっと「肉体」ではないということがはっきりする。
「身を入れて仕事をしろ」という具合に「身」はつかわれるが、このときの「身」は「肉体」ではないね。仕事がどんなものであるにしろ、身体はそれを外側から動かすものである。身体は「仕事」のなかには入ってはいけない。「仕事」のなかに入っていくのは、「こころ」「気持ち」「意志」というようなものだ。
「躾」はしたがって「こころ」を美しくするもの、「気持ち」を美しくするもの、「意志」を美しくするもの、ということになるだろう。
「身分」というのは「肉体の位置」(どういう関係の位置に「肉体」があるか)ではなく、「身をわきまえる」というところと、深いところでつながっているのだと思う。
「表面的共感」という「誤読」ではなく、「誤読」そのものの力を借りて、「共感」の深みに動いている「動詞」に触れないと、錯覚が上滑りする、と私は思っている。(「感覚の意見」です。)
池井昌樹『明星』にはいつもの、ひらがなの「定型詩」のほかに「散文詩」がある。
散文詩といってもエッセイとどう違うのか。あるいは志賀直哉の短編とどうちがうのか。たぶん区別はない。区別したってしようがない。ことばを読むとき、それが詩集に入っているか、エッセイ集に入っているか、短編集に入っているかという「流通」の都合があるだけだろう。
で、その散文詩。「Help! 」は中学生のころの思い出を描いている。夏の夜、隣家の屋根の上で男が大声で歌っている。「うるさい」とまわりが騒ぎだし、その男の父親らしい影が男を家のなかに連れ戻すということがことがあった。
そのなかほど。
半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。
これはなんでもない感想、感慨のように読める。実際に、読んでしまう。こういうことはだれにでもあることだろう。「いま/ここ」にいるのに、遠い一瞬が「いま/ここ」のすぐそばに「ありあり」と思い出される。
なぜ、この行を書いたのかなあ。なぜ、こんなふうにだれもが言うことをだれもがいう具合に、つまり「流通言語」で書いたのかなあ。--ということを考えると、たぶん、その答えにつまってしまう。
なくていいんじゃない? この行は、いらないんじゃない?
前後を含めて引用すると、それがさらにわかると思う。
うるさいぞッ。高校受験を控えた弟(私のことだ)も変声期のボーイソプラノで叫んでは隠れた。やがて明かりの中から別の人影が現れ、父親だったのだろう、有頂天な手を取りしきりに屋内へ連れ戻そうとする様子が見えた。半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。あれから姉は第一志望の国立大学へ進学し、弟はクラスで唯一人公立高校の受験に落第した。
男が屋根の上で歌を歌っていたのは夏の夜。姉と弟(池井)が大学に合格し、高校に落第したのは、その翌年の春。そこに「時間」があるのだけれど、なぜ、そこに「いま」がわりこみ「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という文章が必要なのか、と考えはじめると、説明する「論理」がない。見つからない。論理的に考えると、そこにそういう行が必要であるという理由がないのに、しかし、私たちはつまずかずに、さっと読んでしまう。自然に読んでしまう。
これは変だよねえ。
変なのだけれど、しかし、変じゃないよね。言い換えると、私が「変だ」と言っているから、そのことばが「変」に見えてくるだけで、たぶん、実際にはだれもこんなところにつまずかない。読みとばしてしまう。
この「読みとばし」--これは、私の「感覚の意見」では、この瞬間、「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という行為が、読者と池井とのあいだで「共有」されてしまうというこことだと思う。
たとえば「変声期前のボーイソプラノ」というのがほんとうかどうか知らないが、「そうか、池井は中学三年でまだ変声期ではなかったのか。私は中学に入ると同時に変声期になったなあ」、「池井は高校受験に失敗したのか。私は公立高校に受かったけれど」という具合に、「池井」と「私」が「別人」として存在するために書かれている。そこでは「池井の体験」をそっくりそのまま読者は「共有」しない。池井は自分とは違うということ確認する。
でも「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という文にふれるとき、「半世紀前の夜」の出来事は池井の体験したものであって、読者(私)が体験したものではないにもかかわらず、「ありありと思い出す」という「行為」そのものを、まるで「池井の体験」であって「私の体験」ではない、という具合に、瞬間的には思わない。
何かを「ありありと思い出す」という「行為」そのものの「時間」というか、動詞がふ含んでしまう「こと」のようなものが、私をすっぽり飲みこんで、「こと」が「共有」されるのだ。
私の書いていることは、かなり面倒くさいことであり、説明しようとすればややこしくなるだけなのだが。
ええっと。
私はよく「キイワード」ということばをつかう。そして「キイワード」というのは、書いている本人にとってはわかりきっていることなので、たいていは書かれない、という具合に説明する。その「キイワード」はいわば筆者の「肉体」である。「肉体」であるから「思想」である、と考えるのだが。
この詩の場合、「キイワード」は「ありありと思い出す」なのである。
「キイワード」が「キイワード」であるためには、それがほんとうは池井個人の肉体にだけ深くからんでいるという「特徴」をもっていないといけない。
けれど、この詩の場合、「ありありと思い出す」には、そういう「特徴」がない。だれでも、ある瞬間を「ありありと思い出す」ことがあり、そういうことをしばしば語る。
だから、めんどうくさい。
なぜ、このことばが「キイワード」なのか、それを説明するのがめんどうくさいし、また他人と楽々と「きょうゆう」されてしまうものが、なぜ池井の詩の特徴なのか、ということを説明するのはもっと面倒くさい。
ややこしい。
で、飛躍して言ってしまうと。(この「飛躍」も、私が最近つかう「手」のひとつなのだが……。)
池井の「キイワード」は「だれでもない」ということ。所有権がないということ。所有権は池井を超える何ものかがもっていて、その何ものかはだれにでも開かれているものなので、読者はそれを「キイワード」とは気がつかない。
言い換えると、それは「私の知っていること」(私の感じていること、私の体験したこと)と、簡単に「誤読」してしまう。
この「誤読」を「共感」とふつうはいうのだけれど。
で、池井の詩は何も新しいことなんか書いていない。古くさい思い出ばかり書いている。ことばの冒険はどこにもない、「現代詩ではない」というような批判もそこから成り立ちもするのだけれど。
でもね、違うんですよ。
「共感」という「誤読」は、あまり信じてはいけない。「共感」しているのではなく、それは自分の感性というか、自分のことばを封印して、池井のことばの上っ面をなぞって「わかった」と思い込んでいるだけ。錯覚なのだと私は思う。
あの男はどうなっただろうか。風の便りで、地元で働いていることを知った。また、あのときの歌はビートルズの歌だった(たぶん「ヘルプ!」)ということをことを書いたそのあと、詩の最後の部分。
あの歌声の陰で消えていった様々なも--風鈴の音や七夕飾りや一斉に起つ蛙声や潮の香、パン屋や本屋や玩具屋や、その明るく綺麗な興奮(ときめき)を何時までも、何時までも忘れないでいる。胎内回帰願望だろうか、それとも昭和の遺物だろうか。誰から何と言われようと、甍(いらか)の波の何処かしら、金銀砂子を唱えながら、夜になってもまだ帰らない、少年の手を引きにくるもう誰もなく。
半世紀前の昭和の記憶、風鈴の音、蛙の声、玩具屋--それといっしょにある自分の「綺麗な興奮」。それは、池井と同年代の人間(つまり私のことだが)には、そのまま「なつかしい」という「共感」にすりかわる。同時に「なつかしいけれど、そんなことは知っている」ということにもなる。知っているからなつかしいのだが。
でも、最後の最後の、
夜になってもまだ帰らない、少年の手を引きにくるもう誰もなく。
これは、どう? 「共感」できる? というか、わかる?
「夜になってもまだ帰らない、少年」は池井のこと? なぜ「帰らない」と「少年」野あいだに読点「、」がある? その「少年の手を引きにくる誰(か)」って誰?
ふいに、池井が遠くなるでしょ?
「ありありと思い出す」という池井と、この読点で区切られた少年、さらにその少年の手を引く「誰(か)」の関係が、突然複雑になるでしょ?
「夜になっても帰らない少年」ならば、それはまあ池井の子ども時代思い出にすぎない。中学三年になって、その少年が手を引きにくる誰かを頼りにするというのは、変だぞ、くらいの印象が生まれるだけである。
問題は、実は、読点「、」。
この読点「、」をこそ、池井は「ありありと思い出す」のである。
「まだ帰らない少年」という具合に、「名詞」を修飾するののではなく、ここでは「まだ帰らない」という「こと」、動詞を含んだことがらが独立して「ありあり」と思い出されている。そして、その「こと」を思い出したあとで、池井の肉体のなかで「誰かが手を引きにくる」「こと」が重ね合わせられている。
ふたつの「こと」が同時に存在する。その「こと」は繰り返すと「動詞」を含んでいる。「動詞」というか、動作というか、肉体ができる運動は基本的にひとつであり、ふたつの動詞をいっしょにすることは、肉体には、一種の「むり」である。「聞きながら勉強する」「歩きながら話す」というふたつの動詞はどうか、という意見は当然あるだろうけれど、それは並列というものであり、歩く足が話すわけではない。
「帰らない」という「こと」、手を「引きにくる」という「こと」。その「こと」の主語は、別々である。別々であるが、それが「つながっている」という「こと」を池井は「ありあり」と感じている。
で、この「ありあり」を強調するために、実は、途中の「ありありと思い出す」という余分なことばがあったのだ。
池井がほんとうに「ありありと思い出す」、「ありありと感じている」のは、15歳の夏という「時間」ではなく、そういう世界が存在するときに、その世界のなかでそれぞれの「帰らない」こころを、そのこころの手を引いている何か「いる」という「こと」なのだ。
*
別な形の「補足」を考えてみる。
あるところに、次のような文章を書いた。
「現代詩」という、わかったようなわからないようなことばの冒険を読んでいると、どんなことばでも平気になる--かというと、そうではない。私はたとえば、次のようなことばにつまずいてしまう。
読売新聞朝刊の「編集手帳」。大津の「いじめ」は「暴行」である。広島の「虐待」も「虐待」を超えていると指摘したあと。
「しつけ」だったと、母親は供述している。何を言う。日本製の漢字(国字)で「しつけ」は「躾」と書く。わが子の美しい身体をアザだらけにする「しつけ」があってたまるものか。
「躾」は「身」に「美」と書く。そのことを踏まえて書いているのだが、このときの「身」って「身体」のこと? からだのこと?
私は、そこにつまずく。
私の印象ではどうも違う。「しつけ」によって「身体」が美しくなるわけではない、と思う。たしかに「しつけ」のいい人は、その姿が美しくみえるが、そのときの「姿」は身体のようであって、そうではないと思う。「身体」の内部がにじみでてきた「姿」であって、「肉体」とは違うなあ。
「躾」という文字を発明した人はだれか知らないけれど、このときの「身」は、たとえば「修身」(好きなことばではないけれど)や「立身」(これも好きなことばではないけれど)というときの「身」ではないのだろうか。
「身体」というよりも「生き方」。
「躾」は「生き方」を「美しくするもの」だと思う。「しつけ」が完成されたとき(?)、そこに「仁」とか「徳」とか、あるいは「道」というものが「姿」をあらわすのだろう。
それは「身体」とは無関係である。
ことばは、「みかけ」にひきずられてだまされることがある。
「躾」の「身」を「肉体」と思うのは、みかけに「共感」しているからである。
でも、ことばは、そんな具合には動いてはいないのである。
この文を書いたときは思い浮かばなかったが、「躾」の「身」は、「身を入れる」というときの「身」と考えると、きっと「肉体」ではないということがはっきりする。
「身を入れて仕事をしろ」という具合に「身」はつかわれるが、このときの「身」は「肉体」ではないね。仕事がどんなものであるにしろ、身体はそれを外側から動かすものである。身体は「仕事」のなかには入ってはいけない。「仕事」のなかに入っていくのは、「こころ」「気持ち」「意志」というようなものだ。
「躾」はしたがって「こころ」を美しくするもの、「気持ち」を美しくするもの、「意志」を美しくするもの、ということになるだろう。
「身分」というのは「肉体の位置」(どういう関係の位置に「肉体」があるか)ではなく、「身をわきまえる」というところと、深いところでつながっているのだと思う。
「表面的共感」という「誤読」ではなく、「誤読」そのものの力を借りて、「共感」の深みに動いている「動詞」に触れないと、錯覚が上滑りする、と私は思っている。(「感覚の意見」です。)
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