詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「腑に落ちる」

2012-10-02 10:54:44 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「腑に落ちる」(朝日新聞2012年10月01日夕刊)

 谷川俊太郎「腑に落ちる」は、とても奇妙な詩である。どこが奇妙かというと、なかなかむずかしくて(まだ何を書きたいのか、私にはわかっていないので、こういう書き方になる)、さて、どうしようか。とりあえず引用してみる。

分かったのかと私が言うと
分かったと言う
腑(ふ)に落ちたかと念を押すと
腑に落ちましたと答える
腑ってどこだと私が問うと
どこかこのあたりと下腹を指す

そこには頭も心もないから
落ちてきたのは言葉じゃない
それじゃいったい何なんだ
分かりませんと当人は
さっき泣きじゃくったせいか
つき物が落ちたみたいに涼しい顔

 このとき、「私(谷川、と仮定しておく)」はだれかと向き合っているのだろうか。だれかに、たとえば息子の賢作に「分かったのか」と言ったのだろうか。賢作は「分かった」と言ったのか。
 具体的に考えようとすると、どうもはっきりしない。ここまでは、まあ、賢作と考えてもわからないことはない。けれど2連目の終わりから2行目「泣きじゃくった」がどうも「腑に落ちない」。賢作は泣きじゃくるような年ではない--と私は年からかってに人格を想像するのだが。
 賢作が子どものとき?
 うーん、子どもに「腑に落ちたか」と念を押す? 「腑に落ちる」ということばがわかるようになるのは何歳くらいからだろう。私は思い出せないのだが、いまだって「腑に落ちる」ということばは私の肉体にはぴったりと落ち着いていない。
 「腑ってどこだ」という問いに対して「このあたり」と下腹を指したのが賢作なら、うーん、偉い、と思う。
 私の場合(これはあとでまたふれるけれど)、「腑に落ちる」ということばをつかうとき、そこに「腑」という肉体を指すことば(たぶん、臓腑ということばがあるくらいだから、内臓くらいを指すのだろう)があるのだが、実感としては、そのことばをつかうとき、私には「肉体」感覚がない。「腑に落ちる」は実感としては、「腑」にたまっていたものがすーっと消える。そして、肉体そのものも消えて、考えていたこと(思い悩んでいたこと)の対象そのもののなかへ入っていってしまう。自分がなくなる、という感じが強い。「腑」がもしあるとしたら、それは私の「肉体のなか」ではなく、「肉体の外」という感じがする。--これは、まあ、ことばそのものとしては、矛盾だね。だから、私はめったにそれをつかわない。つかうとしたら、無言で、自分自身で納得するためだけにつかうことばであって、他人に対して「腑に落ちたか」とは聞けない。
 こういうことを考える、思ってしまうから、うーん、奇妙とい感想が出てくるのだと思う。
 さらに、

そこには頭も心もないから
落ちてきたのは言葉じゃない

 これは、びっくりしたなあ。飛び上がってしまったなあ。これは、いったい何?
 何が言いたい?
 「腑に落ちる」というとき、その「落ちる」はことば、なのか。
 「そこに」というのは「下腹のあたり」なのだろうけれど、そこに「頭」がないというのは、わからないでもない。「頭」は一応「脳」ということになっているから、たしかにそこには「頭」はない。でも、「こころ」は? 心ってどこにあるのがふつう? 心臓? こころは「脳」のある種の動きではないのかな? 脳で起きていることがたとえば心臓に作用する、そのとき「こころ」が心臓にあるように思えるだけで、実のところ、それに影響を与えているのが「脳」だとすれば、こころは脳にあることになる。
 「落ちてくるもの」は「ことば」でいいのだろうか。だいたい、もし「下腹」に頭やこころがあったとして、それならそこにことばは落ちるのか? よくわからない。

落ちてきたのは言葉じゃない
それじゃいったい何なんだ

 これはもっとわからないねえ。こんな「問答」をやりとりできるのは、とても子どもじゃないね。
 腑に落ちるもの--それは「もの」なのか。もしかすると「こと」かもしれない。動かない対象ではなく、動詞でしかあらわすことのできない「こと」かもしれない。「こと」が落ちるとは、「もの」が落ちるということとは、どうにも動きが違うはずである。「おちる」ということばをつかっているが、実は、落ちない。「こと」が、肉体のなかで動き回って、「和解する」ということではないだろうか。
 うまいたとえ話ができないのだが。
 たとえば子ども同士がケンカする。そして最後にだれかが「仲裁」に入り、仲直りさせる。そのとき「わかった?」と聞く。その仲直り、の感じ。仲直りは「和解」。そして、「和解」というのは、なんというか、もとにもどるという「運動」だね。

 何かが「腑に落ちる」というのは、私のなかにある何かと、私の外にある何かがいがみ合っていて(あるいは意思の疎通を欠いていて、といえばいいのか)、スムーズに手をつなぎ合えない。そのわだかまりが、すーっととけてしまって、相手が私の肉体のなかに入ってきたのか、それとも私が相手の肉体のなかに受け入れられたのか、区別のつかない状態のような気がする。
 で、「私が相手に受け入れられた」というのは、まあ、「実感」できないことなので、「相手が自分の肉体のなかにすーっと入ってきて、私の一部になった」という感じで、「腑に落ちる」と言うのだと思うが……。
 この感じ、私の場合は、相手が私のなかに入ってきて私の一部であるかのように納得できる、というのではなく、それを超えて、私が消えてしまう感じがする。「肉体」を一瞬忘れる。「私」という「枠」を忘れる。(それが、客観的?にみれば、私が消えて相手のなかに入っていくということになるのかもしれない。相手の肉体のなかに入って、そこから世界を見つめなおし、あ、そうか、こんなふうに見えるのか、と実感すると言いなおせばいいのだろうか。)

 うーん、書いていることがどんどんややこしくなるのだが。
 めんどうくさいので「飛躍」すると--つまり、もう説明は打ち切ってしまうと。
 最後の、

さっき泣きじゃくったせいか
つき物が落ちたみたいに涼しい顔

 これは、やっぱり「腑に落ちた」から、そうなんだな、と思う。「腑に落ちる」とは別のことばで言うと、「つき物が落ちたみたいに涼しい顔」になることだ。
 「腑に落ちる」は実は「腑から落ちる」のである。何が落ちるかというと「つき物」が落ちるのである。「つき物」はでは、どこについていたのか? 頭かこころか、あるいは下腹のあたりか。どこでもいいのだ。ようするに「私」についていた。ただしそれは「表面」ではなく、「腑」に代表されるように外からは見えない部分についていた。それが「腑」から落ちてしまって、どこかへ消えていく。
 そりゃあ、涼しい顔になるね。さっぱりした顔になるね。

 で、ね。またまた「飛躍」。つまり「感覚の意見」をいってしまうと。
 腑に落ちるという「こと」は、つき物が落ちたみたいに涼しい顔になる「こと」。
 この詩には「もの」ではなく「こと」が書かれている。
 涼しい顔になるの「なる」--つまり動詞、変化のなかで「こと」が「和解」する。いっしょになる。
 そういう「哲学」がほうりだされている。

 これは、まあ、奇妙としか言いようがない。
 詩とは「哲学」をほうりだすことか。「思想」をほうりだすことか。
 まあ、そうかもしれない。
 最近、朝日新聞の夕刊に書かれている谷川の詩の感想を書きそびれていたのは、なんというか、どれも少し「奇妙」に思えたからである。きょうは、その「奇妙」が、なんとなく「腑に落ちた」。
 ちょっと谷川の真似をしていってみると、「腑に落ちる」のは「ことば」ではないから、それはことばでは書けない。論理的には書けない。論理的に突き詰めようとすると、どこかで変なものにぶつかってことばが動かなくなる。
 ここに書いてあるのは「それじゃあいったい何なんだ」。そう質問すれば、谷川は「分かりません」と涼しい顔をして言うだろう。

 あ、谷川は何かが「腑に落ちた」んだなあ、と思う。この詩を朝日新聞に渡したときは「涼しい顔」をして渡したんだろうなあ。




二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする