荻悦子『影と水音』(思潮社、2012年09月30日発行)
荻悦子『影と水音』の作品は、どれも1行1行が短い。「影と水音」の最初の部分。
詩は暗記するしかないもの、と私は最近感想を書くとき、その「定義」として利用しているけれど、たとえば「音を立てて」という1行を暗記する気になるかというと、申し訳ないが、私はならない。私は散文的な人間なのだろう。どうしても「音を立てて水が湧いている」という具合に「主語+述語」を含んだことばでないと、ことばに反応しない。「音を立てて」から「水が湧いている」までのあいだにある「断絶(切断)」が、私にはつかめないのである。
ということは、この「つかめない部分」に私と荻との「違い」がある。この「違い」は、現代思想でいう「差異」とは別なものなんだろうなあ、と私はふと余分なことを考えてしまうのだが、何かそういう余分なものを誘い込んでしまうくらい、この「つかめいな部分」は私から「遠い」。
私は「音をたたて水が湧いている」と、それを1行にするが荻は「音をたてて/水が湧いている」と書く。そしてその2行(?)は「水が音を立てて/湧いている」でも「水が/音を立てて湧いている」でもない。つまり、「音を立てて」は荻にとっては単なる修飾節ではなく、独立している。
ここに、私の感じる「遠さ」がある。
その「遠さ」は、まあ、荻の「個性」ということになるのかもしれない。
そうか、まず音を聞いて、その音によって肉体が目覚め、それから「水が湧いている」ということを認識する。この肉体と意識の瞬間瞬間の動きを、荻は追っているのだな。単に目に見えたものを描くのではなく(ことばにするのではなく)、ことばが動く瞬間瞬間を、いわば「写真」のように切り取って、それをじっくりながめる。十分にそれを味わったあと、次の行へ行く。肉体(感覚)とことばの出会い、結合を、十分に味わいながら進む、というのが荻の「リズム」ということになる。
こうした「ぶつん・ぶつん」と切断された肉体と意識は、どうしても「十分に味わった何か」の影(?)をまとってしまう。
ここまでは、何も起きていないように見える。それは、私にそう見えるだけであって、荻の肉体と意識(ことば)には、何かが起きているのかもしれない。
これは、水に反射した光のことだろう。それが、
散文的に説明を加えると、水面に手をかざすと、その手に水に反射した光が跳ね返り、手にある最初(?)の影、つまり太陽が作り出す影をちらちらと照らすという情景を描いたものであることがわかる。
で、その手の影(太陽が作り出した影)を水の反射した光が照らすとき、それを「照らす」とは言わずに、荻は「溶かす」と言う。この「溶かす」のなかに、それまでの1行1行のことばの「停止」のときの「十分な味わい」が反映している。1行1行停止して、そこで肉体と意識、それからことばを見つめてきたので、ここで「照らす」という「流通言語」ではなく、「溶かす」という詩のことばが動くのである。
「指先から」という具体的な肉体が、そうやって詩のなかに定着するのである。
この感覚、この「遠さ」を味わうためには、私のようなせっかちな人間は向いていない。じっくりと時間をかけて読んでこそ、荻の詩は、そのことばのなかに荻の「肉体」を浮かびあがらせる。じっくり読むと、荻の肉体(思想)が見えてくる。
私の「駆け足」のスピードで読んだ範囲で言うと(ゆっくり読むと違ってくるかもしれない)、「洋梨」がいちばんおもしろい。
1連目の「洋梨は」という1行は、ちょっと無防備すぎて逆によくわからないが、「抱えてきて」と「ほどいた」の距離、「落ち」と「静まった」までの変化が、ことばそのもののひびきのなかにあって気持ちがいい。
荻が「遠い」だけではなく、その「遠さ」のなかに、私は「遠近感」を感じるのである。その「遠近感」を親しいものとして私の肉体が受け止めているのを、肉体の感じそのままに私は感じることができる。
2連目の5行は、とても美しい。1行1行に、たしかに立ち止まらなければならない「世界」がある。大好きなセザンヌの静物画を見ている気持ちになる。
3連目も「テーブルクロスに」という1行が、私の感覚では、あまりにも「遠い」のだけれど、そのあとの3行がいいなあ。
特に「丸みを失わない」の「失わない」が、そうか、これが荻の書きたい詩なのか、と「誤読」を許してくれる。洋梨を買ってきてテーブルにならべ、その影と陰の出会いと変化(影と陰のセックスだね)を見てみたい--という欲望に誘われる。
荻悦子『影と水音』の作品は、どれも1行1行が短い。「影と水音」の最初の部分。
音をたてて
水が湧いている
人工の池に
漲る水
手をかざすと
明るい水の揺れが
手の影を
指先から溶かそうとする
詩は暗記するしかないもの、と私は最近感想を書くとき、その「定義」として利用しているけれど、たとえば「音を立てて」という1行を暗記する気になるかというと、申し訳ないが、私はならない。私は散文的な人間なのだろう。どうしても「音を立てて水が湧いている」という具合に「主語+述語」を含んだことばでないと、ことばに反応しない。「音を立てて」から「水が湧いている」までのあいだにある「断絶(切断)」が、私にはつかめないのである。
ということは、この「つかめない部分」に私と荻との「違い」がある。この「違い」は、現代思想でいう「差異」とは別なものなんだろうなあ、と私はふと余分なことを考えてしまうのだが、何かそういう余分なものを誘い込んでしまうくらい、この「つかめいな部分」は私から「遠い」。
私は「音をたたて水が湧いている」と、それを1行にするが荻は「音をたてて/水が湧いている」と書く。そしてその2行(?)は「水が音を立てて/湧いている」でも「水が/音を立てて湧いている」でもない。つまり、「音を立てて」は荻にとっては単なる修飾節ではなく、独立している。
ここに、私の感じる「遠さ」がある。
その「遠さ」は、まあ、荻の「個性」ということになるのかもしれない。
そうか、まず音を聞いて、その音によって肉体が目覚め、それから「水が湧いている」ということを認識する。この肉体と意識の瞬間瞬間の動きを、荻は追っているのだな。単に目に見えたものを描くのではなく(ことばにするのではなく)、ことばが動く瞬間瞬間を、いわば「写真」のように切り取って、それをじっくりながめる。十分にそれを味わったあと、次の行へ行く。肉体(感覚)とことばの出会い、結合を、十分に味わいながら進む、というのが荻の「リズム」ということになる。
こうした「ぶつん・ぶつん」と切断された肉体と意識は、どうしても「十分に味わった何か」の影(?)をまとってしまう。
音をたてて
水が湧いている
人工の池に
漲る水
ここまでは、何も起きていないように見える。それは、私にそう見えるだけであって、荻の肉体と意識(ことば)には、何かが起きているのかもしれない。
手をかざすと
明るい水の揺れが
これは、水に反射した光のことだろう。それが、
手の影を
指先から溶かそうとする
散文的に説明を加えると、水面に手をかざすと、その手に水に反射した光が跳ね返り、手にある最初(?)の影、つまり太陽が作り出す影をちらちらと照らすという情景を描いたものであることがわかる。
で、その手の影(太陽が作り出した影)を水の反射した光が照らすとき、それを「照らす」とは言わずに、荻は「溶かす」と言う。この「溶かす」のなかに、それまでの1行1行のことばの「停止」のときの「十分な味わい」が反映している。1行1行停止して、そこで肉体と意識、それからことばを見つめてきたので、ここで「照らす」という「流通言語」ではなく、「溶かす」という詩のことばが動くのである。
「指先から」という具体的な肉体が、そうやって詩のなかに定着するのである。
この感覚、この「遠さ」を味わうためには、私のようなせっかちな人間は向いていない。じっくりと時間をかけて読んでこそ、荻の詩は、そのことばのなかに荻の「肉体」を浮かびあがらせる。じっくり読むと、荻の肉体(思想)が見えてくる。
私の「駆け足」のスピードで読んだ範囲で言うと(ゆっくり読むと違ってくるかもしれない)、「洋梨」がいちばんおもしろい。
洋梨を抱えてきて
両腕をほどいた
洋梨は
テーブルに落ち
少し震えて静まった
一つが横に
二つは縦になり
三つの洋梨が形づくる
影と
陰
若草色の
テーブルクロスに
影と陰が交じりあう
洋梨の形を逸れることなく
丸みを失わない
1連目の「洋梨は」という1行は、ちょっと無防備すぎて逆によくわからないが、「抱えてきて」と「ほどいた」の距離、「落ち」と「静まった」までの変化が、ことばそのもののひびきのなかにあって気持ちがいい。
荻が「遠い」だけではなく、その「遠さ」のなかに、私は「遠近感」を感じるのである。その「遠近感」を親しいものとして私の肉体が受け止めているのを、肉体の感じそのままに私は感じることができる。
2連目の5行は、とても美しい。1行1行に、たしかに立ち止まらなければならない「世界」がある。大好きなセザンヌの静物画を見ている気持ちになる。
3連目も「テーブルクロスに」という1行が、私の感覚では、あまりにも「遠い」のだけれど、そのあとの3行がいいなあ。
特に「丸みを失わない」の「失わない」が、そうか、これが荻の書きたい詩なのか、と「誤読」を許してくれる。洋梨を買ってきてテーブルにならべ、その影と陰の出会いと変化(影と陰のセックスだね)を見てみたい--という欲望に誘われる。
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