大西久代『海をひらく』(思潮社、2012年10月10日発行)
大西久代『海をひらく』の巻頭の作品は「神椿」。その書き出しを読んで私はびっくりした。
いきなり「魂」ということばが出てくる。大西は何を魂と呼んでいるのだろう。魂をどんなふうに定義しているのだろう。わかることは、大西にとって魂は「のびあがる」ことができるもの、運動するものということである。そして、その運動は「つぼみ」という小さな世界にも「宇宙」を見てしまう運動である。また「透明な空気」を好んでいるらしい。透明な空気の中で動くものらしい。さらにいえば、それは「つぼみ」という「未完成」のもののなかでこそ動くことに「意味」があるらしい。魂の動く「場」として「つぼみ」を選んだことに、大西の「思想(肉体)」がある。
そして、ここから先がさらに大西の特徴かもしれない。詩はつづく。
「主語」は魂から「男」に変わってしまう。魂はどこかへ消えてしまう。
「主語」は男でもなく魂でもなく、ここには明確には書かれていないが、つまり「登場人物」として登場しないが、この1連のことばを書いた「私(大西)」が、作者が「主語」なのかもしれない。
詩は、ここから「物語」になる。
そのとき、その物語のなかでは、つぼみという宇宙でのびあがる魂は、どんな運動をするのか。実は描かれない。そのかわりに、男が椿を絵を描くということが描かれる。
この、ねじれ。
詩なのだから、論理はどうでもいい。ねじれにはねじれの、無意識な論理があり、そのねじれの方にことばが動いていくなら動いていけばいい。それが好きか嫌いかは読者次第である。
私は、好きでも嫌いでもなく、あ、ねじれている、とだけ感じる。
何かをつかみかけて、それが何かわからない。はっきりと名づけることができないできないので、ねじれていくのだ。
花を描くことは、花と対話することである。だから、好意的(?)に考えれば(読めば)、後半は、男と花との対話、男が花のなかから魂を抽出しようとした時間を描いているとも言える。まあ、そんなふうなことを書きたかったんだろうなあ、と思う
そうだと仮定して。
大西はどうしてつぼみのなかで動き、つぼみを花として開かせるものを、その運動のエネルギー(?)を「魂」と簡単に(?)呼ぶことができたのだろうか。
最初の「びっくり」に私は戻ってしまう。
「魂」か。大西が「魂」を書きたいのだ、男が椿の絵を描いたという「物語」よりも、きっと魂そのものが存在するということを書きたいのだと、なんとなく感じるのだが、その肝心の魂が、この詩たけではわからない。
奇妙に、もどかしい。
「魂」は「初雪草」という作品にも出てくる。
「ないことの頼りなさをよびさます」が印象に残る。「魂」は「ある」けれど「ない」のだ。それは、大胆に言ってしまえば、「ある」とか「ない」とか断言できない。決めてしまうことはできない。決めてしまうと「間違い」になってしまうような何かなのだ。ただ、「いま/ここ」に「私」がいて(ある)、他のものがあるということをありのまま受けいれる運動なのである。
「神椿」にもどると、たとえば「つぼみという宇宙で魂はのびあがる」ということばがあらわすものを、つぼみのなかで花の命がのびあがり、そののびあがる運動よってつぼみの宇宙は開かれ、世界と一体になる、そののびあがってくる魂(いのち)と交流しながら男は絵を描いた、といストーリーを読みとったとする。それはそれでいいのだが、だからといって「神椿」をそういうストーリーとして決めつけてしまうと、その瞬間に魂はきっと消えてしまう。
その瞬間その瞬間、ふっと何かが動く--その動きには「ひとりの男が」というような突然の異質なものの乱入があるのだが、それはそれで「一期一会」の出会いである。その出会いのなかで何かが動いている。それを動きのまま、ありのまま「よし」とする。それが「ある」でも「ない」でもあるということかもしれない。
あ、なんだか、やふこしくなってきたなあ。
詩のさらにつづき。
「時を恐れずに満ちてくる」。これが「ある」も「ない」もひっくりめて「ありのまま」なのだろう。「満ちてくる」のは「粒」のなかの「潮(いのちの動き)」かもしれないし、「時」そのものかもしれない。「時を恐れずに満ちてくる」の「満ちてくる」の主語が「時」というのは、まあ、文法としてはおかしいのだけれど、「ある」も「ない」もありのままなのだから、そういう「矛盾」のなかでは、そういうことが起きたってかまわない。矛盾のなかではあらゆるものが対立しているのではなく「溶け合っている」。そして、それはどのようにも言い換えることができるが、言い換えて、これはこういう意味だと「断言」すると、それは間違いになる。「断言」を回避しながら、ことばを動かす。
こんなふうにことばを動かしてくると、また、詩は暗記するだけのもの、ということばを思い出してしまう。「時は恐れず満ちてくる」。このことばは、いつか、私の目の前にまたふいにあらわれるだろう、という予感がする。
こういう不思議な予感をかかえこんでいることばが詩なのだと思う。
「魂」は「ある」けれど「ない」、つまり(?)「ない」ところに「ある」ということになるのだが、それはどういうことかというと、
と、私は、いつものようにここで「飛躍」してしまう。
「魂」は「ない」ところに「ある」のだから、魂ではないものを書くと、それが魂になるということなのだ。
たとえば「芹ものがたり」。
この「芹」は「魂」なのである。「魂」が「芹」となって目の前にあらわれている。大西には魂が「芹」に見えたということである。
登場するたびに「芹」を「魂」と置き換えてみると、大西の「肉体(思想)」がふいに目の前にあらわれてくる。その瞬間に、大西の肉体が見えてくる。でも、それは、やっぱり「断言」してはいけないことなのだ。
「ものがたり」とは言いえて妙であると思う。「断言」するとき、私たちはそこに「物語」を読むというか、「物語」に頼ってしまう。「理解する」とは何事かを「物語」として受け止めることなのだが、その「物語」を解体し(解放し)、「ある」を「ない」に変えてしまう一瞬の、定義できない何かが詩なのだろう。
そういうことばにならないものを大西は「魂」ということばで呼び出そうとしているのかもしれない。
「パオーッ、パオーッ」は「魂」のかわりに「象」ということばがつかわれている。「象」が「魂」として動いている。とてもいい詩だ。ぜひ詩集で読んでください。
大西久代『海をひらく』の巻頭の作品は「神椿」。その書き出しを読んで私はびっくりした。
透明な空気に満たされ
つぼみという宇宙で魂はのびあがる
まだ 花と名付けられないものが
光へと首をもたげていく
いきなり「魂」ということばが出てくる。大西は何を魂と呼んでいるのだろう。魂をどんなふうに定義しているのだろう。わかることは、大西にとって魂は「のびあがる」ことができるもの、運動するものということである。そして、その運動は「つぼみ」という小さな世界にも「宇宙」を見てしまう運動である。また「透明な空気」を好んでいるらしい。透明な空気の中で動くものらしい。さらにいえば、それは「つぼみ」という「未完成」のもののなかでこそ動くことに「意味」があるらしい。魂の動く「場」として「つぼみ」を選んだことに、大西の「思想(肉体)」がある。
そして、ここから先がさらに大西の特徴かもしれない。詩はつづく。
静まり返った林道をひとりの男が
とある意図を忍ばせ登ってくる
「主語」は魂から「男」に変わってしまう。魂はどこかへ消えてしまう。
「主語」は男でもなく魂でもなく、ここには明確には書かれていないが、つまり「登場人物」として登場しないが、この1連のことばを書いた「私(大西)」が、作者が「主語」なのかもしれない。
詩は、ここから「物語」になる。
そのとき、その物語のなかでは、つぼみという宇宙でのびあがる魂は、どんな運動をするのか。実は描かれない。そのかわりに、男が椿を絵を描くということが描かれる。
この、ねじれ。
詩なのだから、論理はどうでもいい。ねじれにはねじれの、無意識な論理があり、そのねじれの方にことばが動いていくなら動いていけばいい。それが好きか嫌いかは読者次第である。
私は、好きでも嫌いでもなく、あ、ねじれている、とだけ感じる。
何かをつかみかけて、それが何かわからない。はっきりと名づけることができないできないので、ねじれていくのだ。
花を描くことは、花と対話することである。だから、好意的(?)に考えれば(読めば)、後半は、男と花との対話、男が花のなかから魂を抽出しようとした時間を描いているとも言える。まあ、そんなふうなことを書きたかったんだろうなあ、と思う
そうだと仮定して。
大西はどうしてつぼみのなかで動き、つぼみを花として開かせるものを、その運動のエネルギー(?)を「魂」と簡単に(?)呼ぶことができたのだろうか。
最初の「びっくり」に私は戻ってしまう。
「魂」か。大西が「魂」を書きたいのだ、男が椿の絵を描いたという「物語」よりも、きっと魂そのものが存在するということを書きたいのだと、なんとなく感じるのだが、その肝心の魂が、この詩たけではわからない。
奇妙に、もどかしい。
「魂」は「初雪草」という作品にも出てくる。
魂は還ってくる
求めればくるものでもなく
さりげなく男の褥に忍び寄っては
ないことの頼りなさをよびさます
咲いていること
陽を浴びて風に揺れていること
視線の先で光るものをぬぐい
隔たりを確認する
「ないことの頼りなさをよびさます」が印象に残る。「魂」は「ある」けれど「ない」のだ。それは、大胆に言ってしまえば、「ある」とか「ない」とか断言できない。決めてしまうことはできない。決めてしまうと「間違い」になってしまうような何かなのだ。ただ、「いま/ここ」に「私」がいて(ある)、他のものがあるということをありのまま受けいれる運動なのである。
「神椿」にもどると、たとえば「つぼみという宇宙で魂はのびあがる」ということばがあらわすものを、つぼみのなかで花の命がのびあがり、そののびあがる運動よってつぼみの宇宙は開かれ、世界と一体になる、そののびあがってくる魂(いのち)と交流しながら男は絵を描いた、といストーリーを読みとったとする。それはそれでいいのだが、だからといって「神椿」をそういうストーリーとして決めつけてしまうと、その瞬間に魂はきっと消えてしまう。
その瞬間その瞬間、ふっと何かが動く--その動きには「ひとりの男が」というような突然の異質なものの乱入があるのだが、それはそれで「一期一会」の出会いである。その出会いのなかで何かが動いている。それを動きのまま、ありのまま「よし」とする。それが「ある」でも「ない」でもあるということかもしれない。
あ、なんだか、やふこしくなってきたなあ。
詩のさらにつづき。
男の海が干上がっても
地におちた小さな黒い粒は
時を恐れず満ちてくる
男もまかひもとくだけの刻の綾に身を浸し
今や夏の陽に溶け合っている
「時を恐れずに満ちてくる」。これが「ある」も「ない」もひっくりめて「ありのまま」なのだろう。「満ちてくる」のは「粒」のなかの「潮(いのちの動き)」かもしれないし、「時」そのものかもしれない。「時を恐れずに満ちてくる」の「満ちてくる」の主語が「時」というのは、まあ、文法としてはおかしいのだけれど、「ある」も「ない」もありのままなのだから、そういう「矛盾」のなかでは、そういうことが起きたってかまわない。矛盾のなかではあらゆるものが対立しているのではなく「溶け合っている」。そして、それはどのようにも言い換えることができるが、言い換えて、これはこういう意味だと「断言」すると、それは間違いになる。「断言」を回避しながら、ことばを動かす。
こんなふうにことばを動かしてくると、また、詩は暗記するだけのもの、ということばを思い出してしまう。「時は恐れず満ちてくる」。このことばは、いつか、私の目の前にまたふいにあらわれるだろう、という予感がする。
こういう不思議な予感をかかえこんでいることばが詩なのだと思う。
「魂」は「ある」けれど「ない」、つまり(?)「ない」ところに「ある」ということになるのだが、それはどういうことかというと、
と、私は、いつものようにここで「飛躍」してしまう。
「魂」は「ない」ところに「ある」のだから、魂ではないものを書くと、それが魂になるということなのだ。
たとえば「芹ものがたり」。
水音が高鳴って
盛り土が崩れはじめるころ
水辺を埋めた芹が鮮やかに濡れて
朝のひかりに輝きをます
この「芹」は「魂」なのである。「魂」が「芹」となって目の前にあらわれている。大西には魂が「芹」に見えたということである。
芹は春をくりかえします
冷たい芹は食卓のうえで
生きいきと香ります
登場するたびに「芹」を「魂」と置き換えてみると、大西の「肉体(思想)」がふいに目の前にあらわれてくる。その瞬間に、大西の肉体が見えてくる。でも、それは、やっぱり「断言」してはいけないことなのだ。
「ものがたり」とは言いえて妙であると思う。「断言」するとき、私たちはそこに「物語」を読むというか、「物語」に頼ってしまう。「理解する」とは何事かを「物語」として受け止めることなのだが、その「物語」を解体し(解放し)、「ある」を「ない」に変えてしまう一瞬の、定義できない何かが詩なのだろう。
そういうことばにならないものを大西は「魂」ということばで呼び出そうとしているのかもしれない。
「パオーッ、パオーッ」は「魂」のかわりに「象」ということばがつかわれている。「象」が「魂」として動いている。とてもいい詩だ。ぜひ詩集で読んでください。
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