詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子「黒母神カーリー・マー」

2012-10-31 11:07:17 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「黒母神カーリー・マー」(「幻竜」16、2012年09月20日発行)

 「詩はどこにあるか」。ふつう話していることば(流通言語)が、そこから「流通」から逸脱する瞬間にある、と書いてしまうと簡単だ。でも、そのことばは「その詩ではどれ?」と見極めようとするとなかなかむずかしい。
 かっこいいことばがあるときは、あ、かっこいい、これが詩だ、と言えるのだけれど、そういうときばかりではない。ときにはそのことばは書かれないことがある。「流通言語」から逸脱しているのだから、「書いてみ見えない」。だから「書かない」という方法がとられることがある。「書いていない」ところに、「ことば」ではなく「肉体」がある。「肉体」がことばをのみこんで、それを見えなくしてしまって、さらに先へと突き進む。そういう瞬間がある。
 「書かれていない」のだから、それを指摘するのはむずかしい。どうやって、その書かれていないことばを「読む」か。補うしかない。「書かれていないことば」を「読む」わけだから、それは「誤読」である。
 で、きょうも「誤読」をしてみる。白井知子「黒母神カーリー・マー」の3連目。

恐るおそる昼休み 二階の動物学の教室にはいってみる
まぶたのない魚の標本の裏に
人間の胎児の瓶が集められていた
うす汚れたひとつの瓶にふれる
妙な温かさが指先に
この胎児は わたしの
妊娠四ヶ月で生まれてしまった子だとしたら
死んだ胎児をわたしには見せず
医師は走りさっていった
だるくてたまらず眠りこんでしまった わたしは あのとき
日本人の胎児ということで
他国に流れていった もしやそんな

 これは南インドチェンナイの女子大学で白井の体験を書いてる(らしい。)胎児の標本を見て、そこから「わたし」の過去、「わたし」と「胎児」のことを思い出している。胎児の標本を見て「記憶」が噴出してきた、ということだろう。
 私がこの詩にひかれるのは、その「意味・内容」ではない。というと、誤解を招いてしまうが、胎児の標本を見て、そこから動きはじめる白井のことばの運動にひかれるのだけれど、その「中心」は、そこに書かれている「記憶」と白井の関係そのものよりも、

妙な温かさが指先に

 この1行の力にひかれる。
 この1行は、わかりやすい形、つまり「流通言語」で書き直せば、

妙な温かさが指先に「ふれる」

 ということになる。その前に「ふれる」ということばがあったから、白井は「ふれる」を省略したのか。そうかもしれない。しかし、そうではない、と私はここから「誤読」するのである。
 ほんとうは「ふれていない」。
 もし指先が「ふれている」としたら、何にふれているのか。その前の行に書いてなるように「瓶」にしかふれることができない。その瓶の中の「胎児の標本」には直接ふれるわけではない。
 けれども、それは外見的な、「流通言語」でいう「肉体」、言い換えると「指先」がふれられないのであって、白井の「肉体のなかにある何か(こころ、でも、精神、でもいいのかもしれないが、私はそういうことばをつかいたくない)」は、「胎児の標本」に「ふれてしまっている」。
 「指先」がふれるのではない。「指先」ではない「肉体そのもの(思想)」が、胎児の標本にふれる。
 「ふれる」と書いてしまうと、「指先」が「主語」になってしまう。それでは白井の本当があらわせない。
 白井は「ふれる」という動詞が、かってに「主語」を「指先」に限定してしまうことについて抵抗している。「流通言語」に抵抗している。たしかに「ふれる」のだけれど、それは「指先」ではない。そういうことを明確にするために、「ふれる」ということばをここでは拒絶しているのだ。前の行と重なるから省略したのではなく、全身で「ふれる」を拒絶する。
 なぜなら、白井の「肉体(肉体のなかにあって、まだ肉体から分離できない思想)」は「胎児の標本」にふれるのではない。胎児にふれるのだ。「胎児の標本」は「死んでいる」が白井の「肉体(思想)」がふれるのは「死んでいる胎児」ではない。「胎児」にふれる。それから「いきている」にふれる。同時に「死んでいる」にふれる。「生きている」と「死んでいる」は矛盾している。同時には存在できない「あり方」だが、それは「流通言語」の定義に従うからそうなるのであって、詩のことばでは、その「胎児」は標本ではなく、死んでいて同時に生きている。言い換えると、「わたし(白井)」は、生きていると死んでいるを区別できない。胎児という「いのち」としか把握できない。その「いのち」と感じあっている。つまり、「肉体(思想)」そのものとしてふれあっている。
 こういうことは、書こうとすればするほど、ことばがうまく動いていかない。ことばにすると、少しずつ「思想」が乱れる。「肉体」がきしむ。その乱れ、きしみが、この連の最後の3行である。

だるくてたまらず眠りこんでしまった わたしは あのとき
日本人の胎児ということで
他国に流れていった もしやそんな

 これを正確な(?)、主語+述語(+補語)という形で「流通言語」にすくいとることはむずかしい。「わたし」は「日本人の胎児」が「他国に流れていった」ということを「うつらうつらと想像した」(述語を補ってみた)のか。
 あるいは「わたし」はあのときから「胎児」そのものとなり、他国に流れていったのであり、いまここにいる「わたし」は「わたしではない」のかもしれない。
 「もしやそんな」のあとにも、ことばにならないことばが動いている。それは「書けない」。だから「書かない」。そして「書かれていない」からこそ、白井の「肉体」を感じるとき、その「書かれていない」ことばが私(谷内、読者)のなかで、白井となって動く。
 こうなると、もう、そこに書かれていることばは白井が書いたものであっても、私は、それを無視する。それは私(谷内)のことばとして読みはじめる。完全に「誤読」しはじめる。
 で、次の連。

真裸を液体にさらしている生物の標本を畏れる
死んで 殺されて 死骸からとかれず
ひっそりと死につづけているのだから
標本に貼られた古い文字のラベル
インドの多民族たちの名称だろう
瓶の蓋をこじあけ 胎児をとりだした
すでに生の懊悩を秘めた顔立ち
ぬめった色斑のある皮膚
街でもとめた絹のスカーフにつつむ

 「わたし(白井)」がほんとうにそんなことをしたかどうかは知らない。それは「想像」の世界かもしれない。けれど、そのことばを読むとき私(谷内)は、白井の想像したことをしてしまうのである。そして、白井が感じていることを感じてしまうのである。標本の胎児は「生の懊悩を秘めた顔立ち」であると感じるのである。その肌が「ぬめって」いると感じるのである。思わず「絹のスカーフ」で胎児をつつんでしまうのである。
 こうしたことが私(谷内)におきるのは、最初に引用した詩の部分の、

妙な温かさが指先に

 という行に、「ふれる」が書かれていないからである。その書かれていないことばにこそ、白井がこの詩で書きたかった「肉体(思想)」が凝縮している。
 「ふれる」、つまり直接何かと自分を「接続させる」、何かと「断絶(切断)」することで自分を存在させるのではなく、常に何かと直接ふれることで、白井の肉体(思想)は動く。この直接性が白井のことばの特徴、つまり「思想」そのものである。
 白井はよく旅の詩を書いている。この詩も南インド・チェンナイでのことを書いているが、旅に出るのは、その土地、そこに生きている人間と「直接ふれる」ためである。
 「ふれる」が白井の詩の(思想の)キーワードである。キーワードであるから、それは「書かれない」。肉体になってしまっているから書かなくてもその「ふれる」をとおってことばは動く。キーワードは、書かれないことが多いのだ。




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