日笠芙美子『秋の腕』(思潮社、2012年10月20日発行)
日笠芙美子『秋の腕』は後半に収録されている「水の家」シリーズがとても気持ちがいい。その作品に触れる前に、「春のめまい」という作品。
「土は臨月のお腹を抱えている」に驚いた。あ、そうなのか、「臨月」の感覚か。あ、そうか、とは書いてみたが、ほんとうは「誤読」しているかもしれないのだが。
なぜ驚いたかというと、春の芽ぶきガ土のなかからはじまっている。それを「胎動」と結びつけることは、たぶんふつうの男にもできる。だが、そのとき男はそこから「胎児」「子宮」へと意識が動いていく。それ以前(?)の性器、セックスへと意識が動いていくこともある。まあ、しかし、これは意外と少数派かもしれない。
男というのはだいたい甘えん坊だから、「胎児」を連想したとき、その「胎児」を自分と勘違いし(胎児と自己同一化し)、いまから生まれていくのだと自己中心的に考える。そのとき、その子宮の持ち主(女)がどんな状態かは考えない。
でも、女は違うのだ。
「臨月」か。そうだなあ、たしかにそうなるのだろう。もちろん女も子宮の中の胎児の動きを感じるだろう。けれど、それは「別の生き物」(新しいいのち)、それよりもやはり自分の肉体をしっかりと感じるのだろう。それが臨月。
私の想像力が足りないのかもしれないが、男が土を見て、そこから「臨月」ということばで自然ということはないだろう。
人間の想像力というのは、不思議だ。どんなに自由(でたらめ)なことを想像できるようであっても、自分の肉体が基本になっている。で、そういう基本をしっかりとおって動いてくることばは、やはり、強い。
あ、このひとは私とは違う。その「違い」にひきこまれてしまう。
2連目。
三島由紀夫は自分が生まれたときの様子を、体を洗うときの金盥まで覚えているというけれど、男にできるのはせいぜいがそういうことくらいであって、そのとき母が「身をよじらせて/目じりに涙をためて」というところまでは見えないし、自分がくぐりぬけてくる狭い場所、狭かったなあ、ということは覚えていても、そのとき母の肉体のなかにどんな痛みが動いているかということは覚えていない。生まれてくるときから男は自己中心的なのである。
で、後半の「水の家」シリーズ。
ここに出てくる人間は「自己中心的」ではない。男も登場するが、この世界を統一しているのは「自己中心的」ではないいのちである。
「吊り橋」という作品。
「父(男)」は登場するのが、それは「声」であって、肉体ではない。(もちろん声も肉体なのだが、たとえばこの詩の母のように大根を切ったり葱を切ったりはできない。)その「父」は「声」であるが、その「声」とは「ことば」でもある。おもしろいのは、ことばを聞きながら「母」はそのことばの世界を「見る」ではなく「嗅いでいる」。「におい」を感じとり、それを自分のなかに取り込んでいる。
そして。
その「匂い」に「台所仕事」を重ねるのだ。「匂い」にあわせて、たとえば大根を切って、煮る。その「匂い」が「父」のからだのなかに入っていき、父が遠くで見てきた世界と混じり合うのだ。
「父」が遠くから「匂い」を運んでくるなら、「母」はその「匂い」に負けないくらいの「匂い」を「父」の体のなかにまぎれこませる。「父」にはそういうことは意識できないだろうけれど、そうやって男をしっかりと自分の肉体そのものにしてしまう。奇妙な言い方になるかもしれないが、この「家事」は女(母)にとっては男(子ども)を妊娠させるひとつの方法である。男(父も子どもも)は母の作ってくれるものを食べながら知らず知らずに育ち、その食べたものの影響を受けながら、なにごとかを生み出す。「道は/まっすぐではなかったけど/楽しかったよ」。ああ、そんなことは知っている。ことばをきかなくても、体にまといついている「匂い」を嗅げば、そんなことはすべてわかる。それが「母」なのだ。自分が生んだ生き物(男)が自分が生んだままの姿ではなく帰ってくるのだから、その違いに気がつかないはずがない。
さらに。
それはひとりの「母」の体験ではない。「あわせてその母も」「あわせてその母の母も」。これは、「くりかえし」のようであって「くりかえし」以上のような何かだ。母にとっては、あらゆるくりかえしは、何度くりかえしても「はじめて」のことなのである。きのう大根を切った、葱を刻んだ。そして、きょう大根を切り、葱を刻むとき、それはくりかえしのようにみえるけれど、くりかえしではない。はじめて大根を切り葱を刻むのだ。毎回「はじめて」の位置に、母も、その母も、さらにその母も、いっしょに立ち並ぶ。それが「あわせて」である。毎回、「あわせて」の母の人数が違ってくるから、それは同じに見えても「はじめて」である。きょうはあの母と、あすはあの母もくわわり、という具合に違うのである。
言い換えると、くりかえしているようで、それはくりかえせない。別な「比喩」をつかっていえば、それは妊娠し出産するまでの過程に似ている。それはあらゆる母が体験してきたことのくりかえしなのだが、何度くりかえしても「一回かぎり」、そのときそのときでまったく違っている。
その違いは「臨月」そのものの違いでもある。--これが、男にはわからない。
私は「春のめまい」を読むまで、そういう違いがあるとは想像したことがなかった。
詩の最後。
「母の、その母の、その母の……」とつながる世界。それは何度くりかえしても「はじめて」だから、そこには「歴史(時間の幅)」はない。
というわけではないのだ。
そういうくりかえしを思い起こせるのは、母だけではなく、日笠には母の母、祖母と暮らした時間があるからだ。祖母-母-日笠というの「時間」を体験したことが、「歴史」ではなく、逆に「くりかえし」が毎回「はじめて」であるということに気づかせたのだ。
ここには一種の矛盾、祖母-母-日笠という時間を見ながら、意識するのは「いま(はじめて)」のことであるという矛盾がある。男から、ここから「歴史」へ入って行ってしまうのだが、日笠は歴史へ帰らずに、過去を「いま」に並列させる。「あわせて」という状態にする。この、矛盾というか、無理というか、なんと呼んでいいのかはっきりしないのだけれど、そういう運動のために、日笠のことばは、不思議な新しさをもっている。
毎年、間違えずに芽ぶいてくる春の草花のように。毎年なのに、毎年、新しい。間違えない、というのが新しいことの条件なのかもしれない。
日笠芙美子『秋の腕』は後半に収録されている「水の家」シリーズがとても気持ちがいい。その作品に触れる前に、「春のめまい」という作品。
芽ぶこうとするものが
這い出ようとするものが
かたちにあるものになろうとして
動きはじめている
土は臨月のお腹を抱えている
「土は臨月のお腹を抱えている」に驚いた。あ、そうなのか、「臨月」の感覚か。あ、そうか、とは書いてみたが、ほんとうは「誤読」しているかもしれないのだが。
なぜ驚いたかというと、春の芽ぶきガ土のなかからはじまっている。それを「胎動」と結びつけることは、たぶんふつうの男にもできる。だが、そのとき男はそこから「胎児」「子宮」へと意識が動いていく。それ以前(?)の性器、セックスへと意識が動いていくこともある。まあ、しかし、これは意外と少数派かもしれない。
男というのはだいたい甘えん坊だから、「胎児」を連想したとき、その「胎児」を自分と勘違いし(胎児と自己同一化し)、いまから生まれていくのだと自己中心的に考える。そのとき、その子宮の持ち主(女)がどんな状態かは考えない。
でも、女は違うのだ。
「臨月」か。そうだなあ、たしかにそうなるのだろう。もちろん女も子宮の中の胎児の動きを感じるだろう。けれど、それは「別の生き物」(新しいいのち)、それよりもやはり自分の肉体をしっかりと感じるのだろう。それが臨月。
私の想像力が足りないのかもしれないが、男が土を見て、そこから「臨月」ということばで自然ということはないだろう。
人間の想像力というのは、不思議だ。どんなに自由(でたらめ)なことを想像できるようであっても、自分の肉体が基本になっている。で、そういう基本をしっかりとおって動いてくることばは、やはり、強い。
あ、このひとは私とは違う。その「違い」にひきこまれてしまう。
2連目。
ふいにめまいに襲われる朝
身をよじらせて
目じりに涙をためて
吐いた
つぎつぎに吐いた
三島由紀夫は自分が生まれたときの様子を、体を洗うときの金盥まで覚えているというけれど、男にできるのはせいぜいがそういうことくらいであって、そのとき母が「身をよじらせて/目じりに涙をためて」というところまでは見えないし、自分がくぐりぬけてくる狭い場所、狭かったなあ、ということは覚えていても、そのとき母の肉体のなかにどんな痛みが動いているかということは覚えていない。生まれてくるときから男は自己中心的なのである。
で、後半の「水の家」シリーズ。
ここに出てくる人間は「自己中心的」ではない。男も登場するが、この世界を統一しているのは「自己中心的」ではないいのちである。
「吊り橋」という作品。
道は
まっすぐではなかったけれど
楽しかったよ
森や川の匂いをさせて
長い散歩から
父の声が帰ってくる
古びた戸口をがたがたさせて
台所で母が
コトコト大根を切っている
あわせてその母も
人参を切っている
あわせてその母の母も
葱を切っている
色とりどりの野菜や母たちで
コトコトコトコト お帰りなさい
「父(男)」は登場するのが、それは「声」であって、肉体ではない。(もちろん声も肉体なのだが、たとえばこの詩の母のように大根を切ったり葱を切ったりはできない。)その「父」は「声」であるが、その「声」とは「ことば」でもある。おもしろいのは、ことばを聞きながら「母」はそのことばの世界を「見る」ではなく「嗅いでいる」。「におい」を感じとり、それを自分のなかに取り込んでいる。
そして。
その「匂い」に「台所仕事」を重ねるのだ。「匂い」にあわせて、たとえば大根を切って、煮る。その「匂い」が「父」のからだのなかに入っていき、父が遠くで見てきた世界と混じり合うのだ。
「父」が遠くから「匂い」を運んでくるなら、「母」はその「匂い」に負けないくらいの「匂い」を「父」の体のなかにまぎれこませる。「父」にはそういうことは意識できないだろうけれど、そうやって男をしっかりと自分の肉体そのものにしてしまう。奇妙な言い方になるかもしれないが、この「家事」は女(母)にとっては男(子ども)を妊娠させるひとつの方法である。男(父も子どもも)は母の作ってくれるものを食べながら知らず知らずに育ち、その食べたものの影響を受けながら、なにごとかを生み出す。「道は/まっすぐではなかったけど/楽しかったよ」。ああ、そんなことは知っている。ことばをきかなくても、体にまといついている「匂い」を嗅げば、そんなことはすべてわかる。それが「母」なのだ。自分が生んだ生き物(男)が自分が生んだままの姿ではなく帰ってくるのだから、その違いに気がつかないはずがない。
さらに。
それはひとりの「母」の体験ではない。「あわせてその母も」「あわせてその母の母も」。これは、「くりかえし」のようであって「くりかえし」以上のような何かだ。母にとっては、あらゆるくりかえしは、何度くりかえしても「はじめて」のことなのである。きのう大根を切った、葱を刻んだ。そして、きょう大根を切り、葱を刻むとき、それはくりかえしのようにみえるけれど、くりかえしではない。はじめて大根を切り葱を刻むのだ。毎回「はじめて」の位置に、母も、その母も、さらにその母も、いっしょに立ち並ぶ。それが「あわせて」である。毎回、「あわせて」の母の人数が違ってくるから、それは同じに見えても「はじめて」である。きょうはあの母と、あすはあの母もくわわり、という具合に違うのである。
言い換えると、くりかえしているようで、それはくりかえせない。別な「比喩」をつかっていえば、それは妊娠し出産するまでの過程に似ている。それはあらゆる母が体験してきたことのくりかえしなのだが、何度くりかえしても「一回かぎり」、そのときそのときでまったく違っている。
その違いは「臨月」そのものの違いでもある。--これが、男にはわからない。
私は「春のめまい」を読むまで、そういう違いがあるとは想像したことがなかった。
詩の最後。
あおい山のあいだ
揺れる吊り橋をわたる
遠く近く水音がして
胸までいっぱいになってくる
水の家がある
ひんやりと祖母の乳房が揺れている
「母の、その母の、その母の……」とつながる世界。それは何度くりかえしても「はじめて」だから、そこには「歴史(時間の幅)」はない。
というわけではないのだ。
そういうくりかえしを思い起こせるのは、母だけではなく、日笠には母の母、祖母と暮らした時間があるからだ。祖母-母-日笠というの「時間」を体験したことが、「歴史」ではなく、逆に「くりかえし」が毎回「はじめて」であるということに気づかせたのだ。
ここには一種の矛盾、祖母-母-日笠という時間を見ながら、意識するのは「いま(はじめて)」のことであるという矛盾がある。男から、ここから「歴史」へ入って行ってしまうのだが、日笠は歴史へ帰らずに、過去を「いま」に並列させる。「あわせて」という状態にする。この、矛盾というか、無理というか、なんと呼んでいいのかはっきりしないのだけれど、そういう運動のために、日笠のことばは、不思議な新しさをもっている。
毎年、間違えずに芽ぶいてくる春の草花のように。毎年なのに、毎年、新しい。間違えない、というのが新しいことの条件なのかもしれない。
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