詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柴田千晶『生家へ』

2012-10-13 10:46:07 | 詩集
柴田千晶『生家へ』(思潮社、2012年10月01日発行)

 柴田千晶『生家へ』は俳句と散文(帯には「散文詩」と書いてある)が組み合わさった詩集である。俳句を短歌(和歌)にすれば「歌物語」になる。そういう「形式」の作品である。
 「春の闇」の冒頭部分。

   春の闇バケツ一杯鶏の首

「食品加工原料・豚脂牛脂」とペイントされた室井商店のトラックが、早朝の駐
車場に並んでいる。青いフェンスの網目一面に獣たちの血や脂が染み付いた軍手
が差し込まれ、朝の陽に晒されている。室井商店の前を通りかかると、きまって
大きなバケツを提げた短躯の男が店の奥の暗がりから現れた。男が引きずるよう
に運搬しているバケツには豚や牛の臓物らしきものが入っている。男はいつもす
れ違う一瞬、私の顔を盗み見て店脇の路地に薄ぼんやりと消えてゆく。いつの頃
からか、出勤前にこの光景を見ることが私の日課となっている。いや、この一瞬、
男に見られることが私の日課となっているのかもしれない。

 この冒頭に俳句と散文の関係は?
 散文を読みはじめた瞬間、俳句のなかにある「詩」が「詩」ではなく「物語」になる。俳句は基本的に「一瞬=永遠」という構造をもっている。遠心・求心といいかえてもいいが、柴田のこの句と散文の場合は、「時間」を軸に見ると、関係がつかみやすくなる。
 「詩」が「物語」になるとき、そこに「時間」が浮かび上がる。柴田が書いているのは、朝の出勤という「一瞬」のつもりかもしれないが、「一瞬」というのは「詩」のなかにあっても「散文(柴田は映画のシナリオも書いているようだから、それを例にとればシナリオも--これは、あとで触れるかもしれない)」のなかには「一瞬」は存在しない。というか、散文というのは時間(期間)のなかで人間が動くとき、初めて散文になる。散文とは「ひと」そのものなのだ。「いきる」ことそのものなのだ。
 映画(芝居の方がもっと極端だが)では、ある存在がそこに登場するとき、その存在(人間でも、ものでも)は「過去」をもっている。この作品で言えば「室井商店」というのは「食品加工原料」をあつかっているという「過去」をもっている。その「過去」とは簡単に言えば食肉を解体することである。解体の過程で、牛や豚の血が流れる。解体の作業をするときひとは軍手をはめている。作業が終われば、軍手を洗って干すということが必要になる。フェンスの軍手はそういう「過去」をもっている。「過去」をもっているとは「過去」を説明するということでもある。
 この詩では、その「過去」とつながる男があらわれる。人間は出会うと、その瞬間に、それぞれの「過去」がぶつかりあう。自分とは違った「過去」を他人に見てしまう。柴田は、男が食肉の解体作業に従事している「過去」を、それが正しいかどうかは別にして、見てしまう。バケツのなかの鶏の頭。赤い鶏冠。
 「過去」を説明されると、「いま/ここ」がとてもわかりやすくなる。
 「散文」は柴田にとっては、いわば「過去」の説明なのである。

 で、これが、問題である--と私は思う。
 詩は「過去」の説明によって明確になるものなのか。明確にすべきものなのか。柴田の冒頭の俳句(詩)は「過去」の説明によって、「わかる」、とてもわかりやすくなる。
 春の朝、柴田はバケツに鶏の首がいっぱい入っているのを見た。それは食肉加工を商売とする店先であり、毎朝、そのバケツをもった男があらわれ、店の脇の薄くらがり(春の闇)に消えていく。そういう光景を書いていることが、とてもよくわかる。すべての存在が「時間」のなかで、一連の動きをもって(一連の動きだから、どうしてもそこに時間が登場する)、くっきりと見えてくる。
 問題は。
 そのときほんとうに見たのは何? 「時間」になってしまわないか。
 詩は時間を超える。時間を超えるというより、出合った瞬間に、実は「過去」が解体し、そこからいままでなかった時間が誕生するというのが詩である--これは私の定義だけれどね。
 柴田の詩では、それが正反対になる。
 俳句(詩)が、「過去」の時間によって説明される。「いま/ここ」がこういう状態であるのは、こんな「過去」があるからだ、と説明される。
 これでは詩の否定である。

 柴田は、このことにうすうす勘づいているかもしれない。だから、そうやって説明される「過去」を否定すようとする。

    出勤前にこの光景を見ることが私の日課となっている。いや、この一瞬、
男に見られることが私の日課となっているのかもしれない。

 「私が見る」という「構図」を「私が見られる」という構図に瞬時に置き換える。そうすると、「私が見ていた時間(男の過去)」が消え、そこに「私の時間(私の過去)」が突然噴出する。
 物語の逆転の大トリックみたいなものだ。映画の大逆転のようなものだ。
 ここには正確には書かれていないが(というか、説明はされていないが)、柴田はなぜ様々な風景のなかから、朝の光景として食肉加工商店に目を止めたのか。なぜバケツのなかのものが「鶏の首」であるということに気づき、それを書くことになったのか--その「根拠」というか「理由」のようなものが、ほんとうはこの作品のテーマ(?)であり、そういうものをこそ柴田は物語として「未来」の方向へ投げ出していくことになる。
 「未来」というのは、まあ、ことばの進む方向なのだが、その「未来」は実はこれまでの体験(過去)を語るのだから、この「散文」の動きは、一種の「逆向き」の動きである。「謎解き」といえばいいのかも。
 作品のつづきを引いて説明するとわかりやすくなるかな?

   夜の梅鋏のごとくひらく足

かつて京急黄金町の線路沿線の路地には「ちょんの間」と呼ばれるショートプレ
イが出来る店が建ち並んでいた。

 「かつて」が明確にしているように、ここから始まるのは「過去」のことである。「過去」の記憶があって、それがバケツのなかの鶏の首を浮かび上がらせるのである。柴田が、「かつて」を知らなければ、柴田はバケツの鶏の首を見なかった。見たとしても、それは意識に残らないか、あるいは意識から締め出してしまっていただろう。朝からそんなむごたらしいものを見て、気分がいいわけがないからね。でも、柴田はそれを意識から追い出さない。逆に意識にしっかり組み込む。
 詩(俳句)にして、特別な意識として屹立させる。

 で、この「過去」は、さらに解体された肉、血からセックス、殺人へと「物語」を展開していくことになる。(これは、もう書かなくてもいいね。)

 こうした「構造」の読んでいると、私はなんだかいやな気持ちになる。
 うまく言えないが、詩が消えていくのを感じる。
 俳句は、解説された瞬間、「要約」になってしまう。「意味」になってしまう。それが「物語」のなかに組み込まれた瞬間、それは「象徴」ということになるのかもしれないが、これって、いやだなあ。
 柴田は映画のシナリオも書いているから映画もたくさん見ていると思うけれど、何といえばいいのか、俳句は、フラッシュバックの一瞬の映像、しかもストーリーの凝縮した瞬間のスチール写真のようになってしまう。
 こういうのは、私は嫌いだ。古くさい--というか、なんだか「教科書」のように見えてしまう。「教科書」は読みたくないなあ。
 映画で私が見たいのは、もっと「不安定」な「いま/ここ」そのものである。「過去」を失って、どう動いていいかわからない。わからないのに、肉体があるために動いてしまう。存在してしまう。そのとまどいのなかから始まる何かである。
 散文(小説でも哲学でもいいけれど)は、そういうものだと思う。これからどうなるの? わけがわからない。でも、ことばは動いていく。それが散文。
 その散文を俳句はある瞬間へと「要約」する。俳句を「要約」するかたちで散文が動いている。

 きっと別な言い方をすると、この詩集は俳句と散文が競合するように互いを補いながらことばの世界を豊饒にする、ということなんだろうなあ。
 でも、私はそういうふうには言いたくないなあ。
 で、ケチだけをつけてみた。



 作品全体としてではなく、気に入った「行」や「部分」をあげておくと。

無念だ無念だとつぶやきながら嬰児は遅い春へと流れ落ちてゆく。
                                  (「顔」)

 「無念だ無念だとつぶやきながら」は「なみあむだぶつ」(なんまいだ)の音を含んでいて、遠いところから情念が復讐してくるような感じがあり、とてもおもしろい。あとの方にも「無念だ」の繰り返しはあるが、「無念だ、無念だ」と読点「、」で区切られてしまったうえに「つぶやく」とつながらないので、暗い情念が消えてしまって残念だ。
 「斑猫」の「足の親指を丹念に口に含まれていると、」から始まるセックス描写も、「男の声のようにも、私の声のようにも聞こえる」までのことばが大好きである。「含まれていると」の「いる」がおもしろい。そうか、「持続」か、と私はそこから「深読み」というか「誤読」を楽しむことができる。「聞こえる」というところにセックスが落ち着くのも、とても気に入っている。セックスは聴覚である、と私は思う。肉体の遠近感だと思う。
 まあ、これは余談だから、ここまで。



生家へ
柴田 千晶
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする