詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬『焼け跡』(2)

2012-10-03 15:24:28 | 詩集
望月遊馬『焼け跡』(2)(思潮社、2012年07月31日発行)

 望月遊馬『焼け跡』の活字の大きくなった部分、「目次」ではなく「本文」の最初を引用する。

「まずは、ヒトの動作と発言のところにテロップがないように。指をひとつひ
とつ切りおとしていく指揮のなかに、白い肌である金属質の繊維がいくつかた
ばねてある。そこに灯る灯のむこうには、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂
の骨のかたちで流れていく。骨と繊維との境界のあたりには、セピアの写真が
挟まれている。ふたつの人生について思った。白い冬季のオートミールのよう
な、それがハンカチの色であって、雑穀のないブラウンの帽子のような、一瞬
の友人が窓に浮かんでいる。手をのばして。ちいさな婚衣をくりかえす雨には、
乾いた友人の横顔が斜めに付着している。そこにいる。手をのばして、雨のな
かをベネチアへの逃避行をする。雨を受けて顔が、ぴらりとはがれてしまう。
手をのばして。白い胚芽のような体をした女が、切り布のところに浮かんでい
る。すらりとした背丈が、うすく景色を打った。「雨だ。」

 何が書いてあるのだろうか。よくわからない。よくわからないが、冒頭の「(カギ)の受けがない、というのは学校作文に反する。まあ、それは、いいかてんてん。でも、きになるねえ。なぜ、カギの受けがない? 最初のカギは何? で、このわからない、ということ、そしてそういうカギのつかい方に違和感があるということは、実は大切なことだと思う。わからない、や、違和感は、私(谷内)と望月との違いだからである。思想の、そして肉体の違いが、そこにある。でも、これは、どう接近すればいいのかわからないので、こういうことは私はほおっておく。
 で。

まずは、ヒトの動作と発言のところにテロップがないように。

 これは、何だろう。何かわからない。わからない原因は「テロップ」が突然出てくるからだろう。テロップというのは、たとえばテレビのモニターに映し出される「絵」ではなく「文字」のようなもののことだと思う。映像があって、それを補足する文字がある。世界は映像と文字(ことば?)がかみ合って、何らかの「意味」を明確にするものなのかもしれない。
 でも、「発言」はことばではない? ことばだろうと思う。それに「テロップ」の「文字(ことば)」が必要? テレビではときどき「発言」を「テロップ」でも紹介することがある。発言をテロップでくりかえす。くりかえすと、それは強調になるね。このひとはこんなことを言っているのだよ、と念押しをする。
 望月の「意図」もそういうところにあるのかな?
 という思いとは別に、この書き出しは、私の「肉体」に限定して言えば、「目」を刺激してくる。「肉体」に「見る」という動作を覚醒させる。
 1日の「日記」で、たしか私は望月の詩について「みえる/見える」ということばを取り上げた。私は私の書いたものを読み返さないので--目が悪いので、読み返すことをしないので、おぼろげだが、そんなふうに覚えている。どういうことを書いたかは、もう忘れてしまった。--でも「みえる/見える」が望月の思想・肉体と密接な関係にあるという印象が私の「肉体」に残っている。その印象が、この詩を読むと甦ってくる。そして、「見える」ということばをついつい補って読んでしまう。

まずは、ヒトの動作と発言のところにテロップがないように。指をひとつひとつ切りおとしていく指揮のなかに「見える」、白い肌である金属質の繊維がいくつかたばねてある「のが見える」。そこに灯る灯のむこうには、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂の骨のかたちで流れていく「のが見える」。骨と繊維との境界のあたりには、セピアの写真が挟まれている「のが見える」。ふたつの人生について思った。

 「ヒトの動作と発言のところにテロップがないように」配慮するのは、望月が何かを「見ている」。その「見ている」という行為の邪魔にならないようにする、ということだろう。ヒトの動作と発言のところにテロップが「重なら」ないように、に配慮する。
 「重なる」というのは、何らかの「意味」をかかえこんでいる。それを望月は排除し、「重なる」前の何かを見ようとしている。見たいと感じている、ということかもしれない。
 でも、「ふたつの人生について思った。」には「見える」は補えない。どうしてだろう。

白い冬季のオートミールのような(ように見える)、それがハンカチの色であって、雑穀のないブラウンの帽子のような(ように見える)、一瞬の友人が窓に浮かんでいる「のが見える」。手をのばして「いるのが見える」。ちいさな婚衣をくりかえす雨には、乾いた友人の横顔が斜めに付着している「のが見える」。そこにいる「のが見える」。手をのばして、雨のなかをベネチアへの逃避行をする「のが見える」。雨を受けて顔が、ぴらりとはがれてしまう「のが見える」。手をのばして「いるのが見える」。白い胚芽のような体をした女が、切り布のところに浮かんでいる「のが見える」。すらりとした背丈が、うすく景色を打った「のが見える」。「雨だ。」

 後半も、「見える」を補うことができる。「雨だ。」というのはだれかの声なので、それは「見える」ではなく「聞こえる。いや、しかし、もしそれが「テロップ」だとしたら、これもまた「見える」ということばを補える。
 望月は「見える」世界を描いているのだということがわかる。分断され、「目次」のようにならべられている「こと」は、すべて「見える」である。
 ただ「思った」だけが、「見える」ではない。
 ここに、望月の「思想」がある。「肉体」を私は感じる。

 「思った」はほんとうに「見える」とは違う動詞なのか。そうではない。「思う」も「見える」である。
 「見える」を「思える(思った)」に書き直してみると、こんな具合になる。

指をひとつひとつ切りおとしていく指揮のなかに、白い肌である金属質の繊維がいくつかたばねてある「ように思える」。そこに灯る灯のむこうには、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂の骨のかたちで流れていく「ように思える」。骨と繊維との境界のあたりには、セピアの写真が挟まれている「ように見える」。ふたつの人生について思った。

 「……のように見える」ことを「……のように思える」と私たちは言い換えることができる。「見える」(見る)と「思える」(思う)は、私たちの肉体のなかで交錯し、重なり合っている。
 「思う」という精神(?)の働きは「頭(脳)」あるいは「こころ」ですることだろうか。「思う」のなかには「心」という感じが含まれているから、まあ、そうなんだろうねえ。
 「見る」は、まあ、基本的には「目」で「見る」だね。
 でも「味を見る」は「目」ではなく「舌」だね。
 「肉体」は、その器官はどこかで不思議な感じで融合している。重なり合っている。
 その「重なり」を意識しはじめるとき、そしてその「重なり」を剥がして(?)、そこにあるものを「純粋」にそれ自体としてとらえようとするとき、私たちは、何かを棄てなければならないのかもしれない。
 望月は、ここでは「見える」を捨て去っている。「見える」を棄てることが「思う」を純粋に突き詰めることだととらえているのかもしれない。そういう意識の動きが、ここからは感じられる。
 これは、私の得意な「感覚の意見」である。つまり、論理的には説明できないことがらなんだけれど、まあ、そう感じてしまう。
 でも、そうやって「棄てた感覚(見る)」は執拗に復讐してくる。反撃してくる。
 「手をのばして」が3回出てくるが、これはその「見える」が3回復讐してくるということだね。
 「写真」とか「白い」とか「ちいさな」とか「すらりとした」とか「うすく」とか、どれもこれも「見える/見る」の反撃だね。復讐だね。

 ここから、私は何を要約すべきか。何を望月の「思想」として要約すればいいか。そして、それについて意見を言うことができるか。
 なんてことは、しない。する必要がない。
 私はただ次のように言いたいのだ。
 もし望月の詩を読んでいて、何かわけがわからなくなったら、そこに「見える/見る」を補ってみるといい。そうすると、そこに書かれたことばが映画の映像のように動いていくのが「見える」。そして、その「見える/見る」という行為のなかで体験した「こと」を私たちは望月と共有すればいい。
 もっと簡便な「流通言語」で言いなおすと、望月の詩は「ことばで書かれた映画」なのである。「見える/見る」というとき、私たちは対象と離れている。目は接近しすぎると何も見えない。一定の距離がないと目は機能しない。「見える/見る」のつくりだす「距離感」、肉体と対象との「距離感」のなかに望月の思想、つまり「肉体」の立ち位置があるということになる。


焼け跡
望月 遊馬
思潮社
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