詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岳こう『春 みちのく』

2012-10-21 12:01:37 | 詩集
清岳こう『春 みちのく』(思潮社、2012年08月31日発行)

 清岳こう『春 みちのく』は東日本大震災後に書かれたものである。清岳は『マグニチュード9・0』という詩集も出している。今回の詩集は、その後に書かれたものだろう。同時期に書かれたものも含まれているかもしれない。たとえば、巻頭の「ばらの芽に」。

毛虫が一匹

今年はそっとしておく
ともに生きのびたもの同士

 昨年の春に書かれたものか、今年の春に書かれたものか。判断できない。この、やっと3行だけことばにしたというところから、震災直後の、まだことばが動きだそうにも動きだせない状況を感じとることができる。そうすると、これは昨年の春に書かれたものだろうか。いや、今年2012年の春に書かれたものかもしれない。昨年はまだばらの毛虫にまで目が行き届かなかったかもしれない。今年になって、ようやく自分以外の自然(毛虫)にまで目が届くようになった。毛虫に気がつくようになった、ということかもしれない。そして、自分以外のもの、昔なら平気で殺していたものに対するこころが変わったことに気がついて、この3行が生まれたのかもしれない。
 そう思うと、この作品のなかの「今年」は実は2012年だけではなく、2013年、2014年の「今年」でもあるかもしれない。3月11日はいつまでたっても3月11日。そして、ばらはいつまでたってもばら。毛虫はいつまでたっても毛虫。繰り返されても、それは毎回新しい出会い、出来事なのだ。

ともに生きのびたもの同士

 この1行は繰り返しても繰り返しても、毎回、新しい気持ちなのだ。「生きのびた」は清岳とともに、毎年「今年」を迎え、毎年同じ出会いを生きるのだ。
 繰り返していると、ことばはどんどん変わっていく。いままで見えなかったものにまで目が届くようになる。「今年」は毛虫に気がついた。2013年の「今年」は葉っぱの穴に気がつくかもしれない。2014年の「今年」はその葉っぱの穴の向こうに蟻が見えるかもしれない。2015年の「今年」はその穴にぶら下がって落ちそうになっている雨の雫が見えるかもしれない。だんだん世界がひろがっていくだろう。
 そして、そのたびに「生きのびた」は新しく甦る。
 短い3行だけの詩だが、この詩集の巻頭にふさわしい詩だと思う。

 何度繰り返しても、そこに書かれていることは、毎回、最初の出来事なのだ。同じことしか書かれていなくても、それは毎回、「いま/ここ」で起きたことであり、それが「いま/ここ」で起きているのは、清岳が「生きのびた」からであり、また清岳のまわりのあらゆるものも「生きている」からである。
 「生きている」という動詞が、動詞でしかあらわせない「いま」が、ここにある。

 「梅の花」という作品。この詩も短い。

陽(はる)です
陽ですよ

つぶやきながら
ざわめきながら

 わかる。わかるなあ。わかるけれど、短すぎて、何を言っているか、わからない、とも言える。つまり、ここから、たとえばこの詩は再び春がめぐってきて、梅の花を見ることができるよろこび、生きるよろこびが書かれている、ということはできる。たぶん、だれもがそんなふうに「感想」を言うだろうと思う。
 でも、その「根拠」は? 詩に、「わかる」ための根拠などいらないのだけれど、たとえばそんな質問をしてみると、きっと質問されたひとは困る。
 私の現代詩講座の受講生ならどう答えるだろうか。
 陽と書いて「はる」と読ませる。その瞬間、太陽の光と春がいっしょにやってくる。梅の花ということばは書かれていないが、書かれていないことによって、逆に、春と太陽の光と梅の花がいっしょになっている感じがする。陽を「はる」と読ませているところに、清岳のよろこびを感じた、そう答えるかもしれない。
 そうだねえ、そこに、詩があるね。ふつうのことばでは言えない何かがあるね。ふつうのことばではいえないから、陽と書いて「はる」と読ませている。いつもと違うことばのなかには詩がある。
 でも、私は、もっと違うところにこの詩の魅力を感じている。

<質問>「つぶやきながら」はだれが、なんとつぶやいているのかな?
<受講生1>梅の花が「はるですよ」とつぶやいている。
<質問>だれに?
<受講生1>私に、清岳に。
<受講生2>清岳が梅の花につぶやいているのかもしれないし、太陽の光が梅の花に「は
    るですよ」とつぶやいているのかもしれない。
<受講生3>そよ風が、まわりのものすべてにつぶやいているかもしれない。
<受講生1>あ、それいいなあ。
<質問>そうだねえ、いまの見方はいいなあ。何もかもがとけあっていっしょになってい
    る。ことばはとりあえず、「もの」を区別するけれど、その区別にとらわれてい
    ると、ほんとうに書かれていることを見落とすのかもしれない。
    で、つぎに「ざわめきながら」は、どういうこと?
<受講生2>いっしょになって区別のつかない、太陽の光、梅の花、それから風などが、
    ざわざわしている。
<質問>なんて言っている? ざわざわしているとき、その内容は?
<受講生3>はるですよ、かな。
<質問>そうだね。私も、そう思う。で、これからさらに意地悪な質問をしてみるね。
    なぜ「つぶやく」なのだろう。なぜ「ささやいている」ではないのだろう。
    なぜ「ざわめく」なのだろう。
<受講生1>質問の意味が、ちょっとわからない。
<質問>どういうときに、「つぶやく」? どういうときに「ざわめく」ということばを
    つかう? たとえば私が何か変なことを言う。わけのわからないことを言う。そ
    うしたら、あれ、いま何を言った?と思わず声がもれる。それが「つぶやく」と
    いうことじゃないかな? そして、「何か変なことを言っていない?」と隣のひ
    とに話したりする。それが「ざわめく」じゃないかなあ。
    もし太陽の光や梅の花や風がよろこんでいるのなら、「つぶやく」「ざわめく」
    ではなく、語り合っているとか、語りかけているとか、そうならないかなあ。
<受講生2>そうか……。
<受講生3>ささやきながら、なら、ざわめくにつながる。
<質問>「つぶやく」と「ささやく」はどんなふうに、ふつうはつかいわけている?
<受講生1>つぶやくは、ひとりで。ささやくは、だれかに向かって。

 そうだね。「つぶやく」はひとりでするもの。だれかに向かってつぶやくということはあっても、それはひとりごと。面と向かっていうことではなく、自分自身に向かって言う。もちろん、わざと相手に聞こえるように不満を「つぶやく」というようなこともあるけれど、この詩のなかの「つぶやく」はそういうことじゃない。よろこびで、思わず「つぶやく」ということもあるけれど、それだって聞かせる相手は自分だね。「うれしい」とつぶやくとき、それは自分に向かっていっている。相手に言うときは「うれしい」とはっきり言う。感謝をする。「つぶやく」とは言わないね。
 「ざわめく」も、相手に向かってはっきりものを言う状態じゃないね。だれに対して言っていいかわからない、あるいはどんな具合に言っていいかわからないとき、わからないまま何かことばにする。それが集まって「ざわめき」になる。
 で、こんなふうに読んでくると、ほら、最初に感じたことと何か違っていない? 最初、太陽の光、梅の花、風が、春がきたよろこびを声に出している。それは「主語」をはっきりさせることができない。まじりあっている。一体になっている、と感じていたね。もしそうなら、それは「つぶやき」や「ざわめき」とは違うものじゃないかなあ。
 でも、清岳は、それを「つぶやきながら」「ざわめきながら」と書く。
 このことばを書かずにはいられない何かが清岳の肉体のなかにあるということだね。まだ、みんな「ひとり」。孤独の状態。一体になっているはずなのに、どこかに「ひとり」「ひとり」にしてしまう何かが残っている。
 それを震災の悲しみ、という具合に言ってしまうのは、たぶん何か違うのだろうけれど。「生きのびた」という意識、一方に亡くなったひとがいるのに自分は「生きのびた」という意識があって、それが「生きる」という単独のことばになれない。「生きる」はどうしても「生きのびた」になってしまう。そういう意識が動いているのかもしれない。
 そういう苦しみをかかえながら、それでも「つぶやきながら/ざわめきながら」のなかには、不思議な力がある。「ざわめく」のは「ひとり」ではない。ひとりではないということは、「つぶやき」「ざわめき」を、つぶやきやざわめきで終わらせない可能性があるということだね。つぶやきやざわめきは、きっと美しい声になる。「生きのびた」声ではなく、「生きる」声にかわる。それを、清岳は感じているのかもしれない。

 どんな声もすぐには「ことば」にはならない。そして「ことば」はいつでも「主張」とは限らない。主張以前というと誤解を招くかもしれないが、明確にはことばにして説明できない「いのり」(願い)のようなものを含んでいると思う。ことばにできないことを、自分の知っていることばのなかにつつみこむようにして守りながら生きる。そういう生き方がある。そういう生き方をするのが、あたりまえの人間だと思う。
 その「あたりまえ」に寄り添う清岳の思想(肉体のあたたかさ)を私は、たとえば「出席簿」に感じる。

慶長十六年 明治二十九年 昭和八年
家を舟を命を根こそぎかっさらわれぶんどられ

七海(ななみ) 夏海(なつみ) 真海(まみ) 帆波(ほなみ) 好海(よしみ)
海人(かいと) 拓海(たくみ) 広海(ひろみ) 海生(かいせい) 千洋(ちひろ)

それでも
こんなにも海を愛しつづけた親たちがいて
こんなにも海にだかれて育った子どもたちがいて

 「それでも」なのだ。「理由」(根拠)は説明できない。それは、それぞれの「肉体」のなかにある。「思想」とは、こういう「肉体」になってしまった「祈り・願い」のことばなのだ。ふつう、思想は「つぶやかれ」、そうして「ざわめかれる」。つぶやきや、ざわめきのなかにこそ、ことばにしなければならないものがある。清岳は、それに耳をすましている。「生きのびた」を「生きる」に変える力を育てている。

春―みちのく
清岳 こう
思潮社
コメント
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