池井昌樹『明星』(思潮社、2012年10月01日発行)
「曲がり角」という作品を読んでみる。
この詩をもし「現代詩講座」で取り上げるならば。
私は意地悪ですねえ。答えられないよね。すぐには、何も思いつかない。それは、わからないではなく、わかるのだけれど、わかりすぎてことばにならない。「つま」ではなくたとえば母が洗濯物をしているのを見た記憶がだれにでもあると思う。(母を例にひくのは、講座の受講生に女性が多いから。「つま」が洗濯をしているのを見ることは、女性にはないからね。)あるいは自分が洗濯をしているとき、その水の反射が子どものほほに輝くのを見た記憶もあるかもしれない。いまは洗濯機をつかうのでそういう実体験は減っているが、そういう光景を映画とか本とか写真で見たことはだれにでもあると思う。それはほんとうに「みじかいじかん」?
あ、いい疑問だなあ。
変だね。
池井の書いている世界では「いまでも」風がそよそよ吹いて、つまは洗濯をしている。そんなことは、ありえないね。風が吹きつづけるということは絶対にありえないことではないだろうけれど、妻が洗濯物をしつづけるということはない。洗濯物は、洗うものがなくなれば終わる。
そうすると「いまでも」は現実の世界ではないね。
そして、それは「みじかいあいだ」とは矛盾するね。
そうだね。
問題は、たぶん、人間は「ありえないこと」もことばで考えてしまうということにあるのかもしれない。どんな楯でも突き破る矛というものを考えることができる。そしてどんな矛でも突き破れない楯というものも考えることができる。
ひとつひとつの考えには間違いはないけれど、それが出合うと「ありえない」ということがわかる。
「ありえないこと」なのに、なぜ、そんなことを人間は考えることができるのか。考えたいからというか、まあ、一種の「欲望」「本能」のようなものだね。
で、私はここからこんなふうに考える。
本能や欲望は絶対的に正しい。どんな楯でも突き破れる矛がほしい。どんな矛でも防げる楯がほしい。それは絶対的に正しい欲望。そして、それが絶対的にただしいからこそ、どこかに間違いがある。間違いがあるけれど、間違えるということのなかに、何かしら絶対的に正しい「願い」のようなものがある。
そう思ってこの詩を見つめなおすと。
そうだね。ここが、たぶん、この詩のいちばん重要なところ。
「みじかいじかん」と「いまでも」(言い換えると、この「いまでも」は「過去」から「いま」を結んでいるから「いつでも」だね。この言い換えはかなり強引なのだけれど)のあいだには変化がある。
「おさいないもの」は「ぼく」になっている。おとなになっている。おとなになってしまっている「ぼく」は「いまでも」の世界には入っていけない。
あ、鋭いねえ。
ようするに、私の読み方は間違えている。論理的ではない。
そうなんです。論理的には読まない。
飛躍する。飛躍というのは「説明」の省略なんだけれど、むりやり、説明をしてみると。
最初の方の光景は、妻と幼い子どものことを書いているけれど、それは単純に妻と幼い子どものことを書いているのではなく、そこに池井の幼い時代のことを重ねて書いている。重ねてみている。たらいで洗濯をして、そのそばにいる子どものほほに水が反射する光が輝くというのは、「いま」ではなありえない。池井の子ども時代なら、まあ、ある。ちょうど洗濯機が出回りはじめた時代だから。
そのときの母と子ども、さらにはまわりの自然、そんな親子を祝福するような輝かしい光景--それは「一瞬」のように見える。もう、過ぎ去った過去のように見える。
でも、「過去」というのはとても不思議。時間というのはとても不思議。
思い返すとき、その遠い過去の風景と、きのうの風景を思い返すとき、どっちが「遠い」? 時間に長さがあると仮定して、「いま」から「きのう」までの距離と、「いま」から「池井が子どもだった時代の過去」までの距離は、きちんと「長さ」で感じられる?
私は感じられない。
遠いはずの「過去」の方がすぐ近くに感じられる。
そして、この「近い」は別のことばで言うと「長い」になる。「みじかいあいだ」なのだけれど、その「みじかいあいだ」は「いま」までずーっと池井の肉体のなかに生きている。「いまでも」生きている。「いつでも」(ということばを池井はここではつかっていいないが)生きている。
「いつでも」というのは「まいにち」ということでもある。
毎日、池井は、あの短い時間を、あの光景を自分の肉体のなかに感じる。
だからこそ、毎日帰る家への曲がり角で実際に見る光景が肉体のなかにある光景と違うことにとまどい、迷子になる。
私は関係があると思う。その「まいご」をだれかが夢に見れば、「まいご」は家に帰ることができる。
だれも「まいご」を夢に見ない。だから、池井は自分の詩のなかで「まいご」を書く。夢に見るのではなく、詩にする。ことばにする。池井は自分のことばで自分をみつめる。そのとき、幼いときの至福の一瞬、母が洗濯物をしていて、そのそばで自分が水の光と遊んでいた姿が見える。その姿は、いわば親子(家族)美しい理想のようなものだね。
そういう光景を描きながら、池井は、ここではもうひとつ大事なことを書いている。
ここでは「夢に見られる」という形にことばが動いている。「夢見る」という言い方もあるけれど、池井は「夢に見る(見られる)」という形で「夢」と「見る」わけている。わけながら結びつけている。
で、その「見る(見られる)が、とても重要。
ここには、ことばが省略されている。これらの行は、
ということなのだが、これはそこに書かれていることが「つま」と「おさないもの」だから。
でもこの「つま」と「おさないもの」は、池井にとっては「母」と「自分」だったね。
そうかもしれない。そう考えるのがいちばん自然かもしれないけれど。
私は池井の詩を長い間読んでいるので、それが「父」を超える存在に感じられる。「父」だけではなく、父の父、祖父、それらかずっと先の父の父の父の父の父……という具合につながる人間の「いのち」そのものに見える。
池井の詩は、「私小説」ではなく「私詩」のようにみえるけれど、じっくり読みつづけると「私」の世界を超えて、人間の「いのち」そのものにつながってみえる。「いのち」の視力がことばを動かしているようにみえる。
「いのちの視力」というのようなものは、まあ、抽象的で、そんなものはないとも言える。「ないもの」を書くから、ことばのどこかに奇妙なところ、矛盾したところ、わかるのだけれど論理的に説明できない部分がある。で、そういう部分こそ、ほんとうは大切。そういう部分と向き合って、池井のことばをほぐしていくのではなく、自分のことばを解きほぐしていく、池井(詩人)の力を借りながら自分のことばを新しくしていく、ということが詩を読むことだと思う。
「自分のことばを新しくしていく」というのは、少しずつだし、どう新しくしたかなんて、うまく言えるはずがないのだけれど、その少しずつが重なり、きっと変わっていく。だから、私は詩を読む。
「曲がり角」という作品を読んでみる。
みじかいあいだでしたけれども
つまはせんたくしておりました
みずがきらきらはねていました
みじかいあいだでしたけれども
おさないものがわらっていました
ほおにきらきらみずをうつして
みじかいあいだでしたけれども
かぜはそよそよふいていました
きぎはさやさやゆれていました
みじかいあいだそのひとときの
いつかどこかのかどをまがって
ぼくはまいにちかえってきました
まいにちかえりつづけてきたのに
どこでどうまちがえたのか
いつものかどがみつからない
いつまでもかぜはそよそよふいて
いつまでもきぎはさやさやそよぎ
いつまでもつまはせんたくをして
いつまでもみずはきらきらはねて
ぼくはまいにちかえってくるのに
まいにちかえりつづけているのに
みじかいあいだそのひとときの
いつかどこかのまがりかど
まいごのぼくがまだひとり
ゆめにみられることもなく
この詩をもし「現代詩講座」で取り上げるならば。
<質問>この詩にわからないことばはありますか?
<受講生>ありません。
<質問>では「みじかいあいだ」は、自分のことばで言いなおすとどうなるかな?
<受講生>……
私は意地悪ですねえ。答えられないよね。すぐには、何も思いつかない。それは、わからないではなく、わかるのだけれど、わかりすぎてことばにならない。「つま」ではなくたとえば母が洗濯物をしているのを見た記憶がだれにでもあると思う。(母を例にひくのは、講座の受講生に女性が多いから。「つま」が洗濯をしているのを見ることは、女性にはないからね。)あるいは自分が洗濯をしているとき、その水の反射が子どものほほに輝くのを見た記憶もあるかもしれない。いまは洗濯機をつかうのでそういう実体験は減っているが、そういう光景を映画とか本とか写真で見たことはだれにでもあると思う。それはほんとうに「みじかいじかん」?
<質問>いまはそういう光景は見ることがないから「過去の、ある一瞬」という意味の「みじかいじかん」?
<受講生>なつかしい光景という意味では「過去」かもしれないけれど、「過去」が短いという感じではないと思う。
<質問>逆に考えてみようか。「みじかいじかん」の反対のことばはこの詩のなかにはないだろうか。
<受講生>「ながいじかん」は書いていない。
<質問>「ながいじかん」に似たことばはない?
<受講生1>「まいにち」がそうかもしれない。
<受講生2>「いつも」もそうかもしれない。
<受講生3>「いまでも」というのは、何か変。「みじかいあいだ」かぜはそよそよふいていました、きぎはさやさやそよぎ、と最初の方に書いてあって、あとの方には「いまでもかぜはそよそよそよぎ/いまでもきぎはさやさやそよぎ」と書いてある。
あ、いい疑問だなあ。
変だね。
池井の書いている世界では「いまでも」風がそよそよ吹いて、つまは洗濯をしている。そんなことは、ありえないね。風が吹きつづけるということは絶対にありえないことではないだろうけれど、妻が洗濯物をしつづけるということはない。洗濯物は、洗うものがなくなれば終わる。
そうすると「いまでも」は現実の世界ではないね。
そして、それは「みじかいあいだ」とは矛盾するね。
<質問>「矛盾」というのは、どういこと?
<受講生1>えっ、矛盾は矛盾だけれど。
<受講生2>どんな楯でも突き破ることができる矛とどんな矛でも防ぐ楯がぶつかるとどうなるか。そんなことはありえない。
<質問>どちらかが間違っている?
<受講生3>うーん、間違っているということをいいたいんじゃないと思う。
そうだね。
問題は、たぶん、人間は「ありえないこと」もことばで考えてしまうということにあるのかもしれない。どんな楯でも突き破る矛というものを考えることができる。そしてどんな矛でも突き破れない楯というものも考えることができる。
ひとつひとつの考えには間違いはないけれど、それが出合うと「ありえない」ということがわかる。
「ありえないこと」なのに、なぜ、そんなことを人間は考えることができるのか。考えたいからというか、まあ、一種の「欲望」「本能」のようなものだね。
で、私はここからこんなふうに考える。
本能や欲望は絶対的に正しい。どんな楯でも突き破れる矛がほしい。どんな矛でも防げる楯がほしい。それは絶対的に正しい欲望。そして、それが絶対的にただしいからこそ、どこかに間違いがある。間違いがあるけれど、間違えるということのなかに、何かしら絶対的に正しい「願い」のようなものがある。
そう思ってこの詩を見つめなおすと。
<質問>池井が絶対的にあこがれている世界は何? どういう世界を「正しい」と感じている?
<受講生1>妻が洗濯物をしていて、子どもがそのまわりで水が反射する光を浴びていて、風はそよぎ、木々は揺れている、という世界。
<質問>それを何と言いなおしているかな?
<受講生2>「みじかいじかん」。
<質問>でも、「いまでも」その妻が洗濯をして風はそよいでいるんだよね。
<受講生3>あ、でも、その「いまでも」には子どもはいません。「おさないもの」は「いまでも」の部分には繰り返されていません。
そうだね。ここが、たぶん、この詩のいちばん重要なところ。
「みじかいじかん」と「いまでも」(言い換えると、この「いまでも」は「過去」から「いま」を結んでいるから「いつでも」だね。この言い換えはかなり強引なのだけれど)のあいだには変化がある。
「おさいないもの」は「ぼく」になっている。おとなになっている。おとなになってしまっている「ぼく」は「いまでも」の世界には入っていけない。
<受講生>でも、いまの説明は変だと思います。
<質問>どこが?
<受講生>最初の方には「つま」と書いています。「おさないもの」は池井と妻との子どもであって、「ぼく(池井)」の幼いときのことではありません。
あ、鋭いねえ。
ようするに、私の読み方は間違えている。論理的ではない。
そうなんです。論理的には読まない。
飛躍する。飛躍というのは「説明」の省略なんだけれど、むりやり、説明をしてみると。
最初の方の光景は、妻と幼い子どものことを書いているけれど、それは単純に妻と幼い子どものことを書いているのではなく、そこに池井の幼い時代のことを重ねて書いている。重ねてみている。たらいで洗濯をして、そのそばにいる子どものほほに水が反射する光が輝くというのは、「いま」ではなありえない。池井の子ども時代なら、まあ、ある。ちょうど洗濯機が出回りはじめた時代だから。
そのときの母と子ども、さらにはまわりの自然、そんな親子を祝福するような輝かしい光景--それは「一瞬」のように見える。もう、過ぎ去った過去のように見える。
でも、「過去」というのはとても不思議。時間というのはとても不思議。
思い返すとき、その遠い過去の風景と、きのうの風景を思い返すとき、どっちが「遠い」? 時間に長さがあると仮定して、「いま」から「きのう」までの距離と、「いま」から「池井が子どもだった時代の過去」までの距離は、きちんと「長さ」で感じられる?
私は感じられない。
遠いはずの「過去」の方がすぐ近くに感じられる。
そして、この「近い」は別のことばで言うと「長い」になる。「みじかいあいだ」なのだけれど、その「みじかいあいだ」は「いま」までずーっと池井の肉体のなかに生きている。「いまでも」生きている。「いつでも」(ということばを池井はここではつかっていいないが)生きている。
「いつでも」というのは「まいにち」ということでもある。
毎日、池井は、あの短い時間を、あの光景を自分の肉体のなかに感じる。
だからこそ、毎日帰る家への曲がり角で実際に見る光景が肉体のなかにある光景と違うことにとまどい、迷子になる。
<質問>この「まいご」をどうやったら、家に無事に届け返すことができるのかな?
<受講生>「ゆめにみられることもなく」と関係がありますか?
私は関係があると思う。その「まいご」をだれかが夢に見れば、「まいご」は家に帰ることができる。
だれも「まいご」を夢に見ない。だから、池井は自分の詩のなかで「まいご」を書く。夢に見るのではなく、詩にする。ことばにする。池井は自分のことばで自分をみつめる。そのとき、幼いときの至福の一瞬、母が洗濯物をしていて、そのそばで自分が水の光と遊んでいた姿が見える。その姿は、いわば親子(家族)美しい理想のようなものだね。
そういう光景を描きながら、池井は、ここではもうひとつ大事なことを書いている。
ゆめにみられることもなく
ここでは「夢に見られる」という形にことばが動いている。「夢見る」という言い方もあるけれど、池井は「夢に見る(見られる)」という形で「夢」と「見る」わけている。わけながら結びつけている。
で、その「見る(見られる)が、とても重要。
みじかいあいだでしたけれども
つまはせんたくしておりました
みずがきらきらはねていました
みじかいあいだでしたけれども
おさないものがわらっていました
ほおにきらきらみずをうつして
ここには、ことばが省略されている。これらの行は、
みじかいあいだでしたけれども
つまはせんたくしておりました
(それを私は見ました)
みずがきらきらはねていました
(それを私は見ました)
みじかいあいだでしたけれども
おさないものがわらっていました
(それを私は見ました)
ほおにきらきらみずをうつして
(それを私は見ました)
ということなのだが、これはそこに書かれていることが「つま」と「おさないもの」だから。
でもこの「つま」と「おさないもの」は、池井にとっては「母」と「自分」だったね。
<質問>そうすると、いま無理矢理補ってみた「それを私は見ました」の「私」はだれになるだろう。
<受講生>池井のお父さん?
そうかもしれない。そう考えるのがいちばん自然かもしれないけれど。
私は池井の詩を長い間読んでいるので、それが「父」を超える存在に感じられる。「父」だけではなく、父の父、祖父、それらかずっと先の父の父の父の父の父……という具合につながる人間の「いのち」そのものに見える。
池井の詩は、「私小説」ではなく「私詩」のようにみえるけれど、じっくり読みつづけると「私」の世界を超えて、人間の「いのち」そのものにつながってみえる。「いのち」の視力がことばを動かしているようにみえる。
「いのちの視力」というのようなものは、まあ、抽象的で、そんなものはないとも言える。「ないもの」を書くから、ことばのどこかに奇妙なところ、矛盾したところ、わかるのだけれど論理的に説明できない部分がある。で、そういう部分こそ、ほんとうは大切。そういう部分と向き合って、池井のことばをほぐしていくのではなく、自分のことばを解きほぐしていく、池井(詩人)の力を借りながら自分のことばを新しくしていく、ということが詩を読むことだと思う。
「自分のことばを新しくしていく」というのは、少しずつだし、どう新しくしたかなんて、うまく言えるはずがないのだけれど、その少しずつが重なり、きっと変わっていく。だから、私は詩を読む。
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