詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫「水仙」

2016-03-08 09:06:52 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「水仙」(「兆」169 、2016年02月05日発行)

 林嗣夫「水仙」にはわからないところがある。「徒然草」(第二四三段)について思いめぐらしている。

八歳の頃の兼好が父親に尋ねたのは
「人はどのようにして仏になることができるのか」
父親が答えるに
「それは仏の教えによって」と
「では順番に昔にさかのぼって
一番はじめに教えを授けた仏は
どんな仏だったのか」

この「仏」を
「ことば」、に置き換えてみたりしながら
わたしは庭にしゃがんでいる

 この「仏」をというが、どの「仏」だろうか。「仏」が何度も出てきて、どれのことかわからない。

「人はどのようにしてことば(仏)になることができるのか」
「それはことば(仏)の教えによって」と
「では順番に昔にさかのぼって
一番はじめに教えを授けたことば(仏)は
どんなことば(仏)だったのか」

 「仏になる」という言い方はあっても「ことばになる」という言い方はない。そこに、まず、私はつまずく。しかし、なんとなく、わかる気もする。そして「わかる」気持ちになっているとき、私は「ことばになる」の「なる」に対して何事かをつけくわえている。「正しいことば」「美しいことば」「強いことば」……そういう「肯定的」な何かをつけくわえて、ひとつのことばが、どうやって「正しい」「美しい」「強い」ことばに「なる」、つまり「ほんとう」のことば「かわる」のかと考えることで、その「ほんとう」が「仏」と重なると感じている。「人はどのようにして、ほんとう、になるのか」(「ひとはどのようにして、ほんとうのことば、になるのか」「ひとはどのようにして、ほんとうのことば、をかたるのか」……。)
 しかし、次の「ことばの教えによって」はむずかしいなあ。「教えを授けたことば」というのも、どうも、日本語(?)としてしっくりこない。
 それで、さらに書き換えてみる。

「では順番に昔にさかのぼって
一番はじめに授けられたことばは
どんなことばだったのか」

 これなら、「論理」として、なんとなくわかる。
 私たちはいったい「最初のことば」として「どんなことば」を授けられるのだろう。「最初に授けられたことば」にしたがって、あるいは導かれて「ことば」を少しずつ身につける。そして、それが「正しい」あるいは「ほんとう」になるのだろう。しかし、その「最初のことば」は「何か」(どんなことばか)、特定するのはむずかしい。きっとできないだろう。
 できないのだけれど、なんとなく、そうだなあ、それが「仏/ほんとう」かもしれないなあとも感じる。

 この、わからないのに、わかったような、変な感じはどこからくるのか。
 「授けた」を「授けられた」と言い換えたところに「原因」があるかもしれない。「さずけた」と「授けられた」は能動と受動、いわば「反対」のものだが、もしかすると「反対」のものではないのかもしれない。「授けた/授けられた」は、組み合わさることで「ひとつ」になっているのかもしれない。「授けた」と特定できない、また「授けられた」とも特定できないというか、特定しようとする、特定にこだわると、どうしようもなくなる何かかもしれない。

 これは、もしかすると、「人はどのようにして仏(ほんとうのことば)になる/ほんとうのことばにたどり着く/ほんとうのことばを手に入れることができるか」という「問い」そのものが、「答え」なのかもしれない。言い換えると、そう「問いかけた」とき、もう兼好は「答え」を知っているのだ。最初に「授け/授けられた」ことば、語り、語られる、つまり聞くことば、「語る/聞く」という切り離せない「ことば」、向き合った「ふたり」によって共有されることばのなかにこそ、「ことば」の「ほんとう」がある。
 それは「語り/聞く」(授ける/授けられる)を逆に見るときに、明確になるかもしれない。
 「聞く(質問する)/答える」という関係のなかに「ほんとう」がある。「聞く/質問する/疑問をもつ」ときの、その「質問」のなかに、「答え」がひそんでいる。

「人はどのようにして仏になることができるのか」

 よくみると、ここでは「仏とは何か」が問われていない。ここで問われているのは、「どのようにして/なるか」ということであり、それは「どのようにして」としか「問う」方法のない何かである。ほんとうは「そのようにして」(いま、問いを発したようにして)、仏(ほんとう)になるのだと言おうとしているのかもしれない。またこのとき「なる」も「ならない」もない。そこに「仏」が存在してしまっている。
 ただ、ここで父親が「そのようにして仏になるのだ/その問いのなかに仏が現れている」と答えてしまうと、それは「禅問答」になってしまうが、たぶん、そういう「答え」になるしかないのだと思う。
 しかし、父は禅問答を避け、一生懸命ことばを動かし、「そのようにして」のかわりに、別のことを言う。一種の「比喩」だ。これが「文学」だ。「詩」だ。

始原の仏について問い詰められ
答えに窮した父親は
ただ笑うしかなった
「空から降ったか 地から湧いたか」と
しかし
笑ってごまかしたようにみえて
意外と本当のことを言ったのかもしれない

 私も、わからないなりに、林のことばを追いかけながら、そんな気持ちになった。「本当のこと」がここでは語られているのではないか。
 私は先に「比喩」ということばをつかった。「比喩」というと「名詞/イメージ」を思い浮かべる。父のことばも「空」「地」という名詞を含んでいるが、私にはその名詞よりも「降る」「湧く」という動詞の方が「比喩」のように思える。
 「空から降ったか 地から湧いたか」ということばのなかには「矛盾」というか、逆向きの何かがある。「授ける/授けられる」「語る/聞く」「聞く(質問する)/答える」というような、何か固い結びつきがある。「美人」を「薔薇の花」と「比喩」にするとき以上の強い力が動いている。別のことなのに、ふたつの動詞が「ひとつ」になってつくりだす「真実」というものがあるような気がする。
 「授ける/授けられる」「語る/聞く」「聞く/答える」という動詞のなかに、「共有する」という別の動詞がある。
 父は兼好に聞かれながら(問いかけられながら)、実は答えを教えられている。答えを導き出されている。ほんとうの問いとは答えを必然的に導き出してしまうものなのだろう。そして、その導き出されたものは、「共有される」ことによって「真実」になる。
 この「共有する」ものは、実は最初から存在するものではなく、ふたつの動詞が出合うことで「生み出す」何かなのだ。
 「授ける/授けられる」「語る/聞く」「聞く/答える」とき、ことばは「生み出され/生まれる」のだ。それが「最初」(始原)なら、それは、絶対に特定できないものであり、特定できないからこそ、たしかに存在するという「矛盾」としてあらわれてくるように思える。

わたしは水仙の球根を
てのひらに乗せ
新しく植える場所を探した
天から振ってくる光と
大地の養分と
この球根こそが
始原の仏ではないだろうか

 最後の「ないだろうか」には「問い」があり、この「問い」は兼好の「問い」と同じようにすでに「答え」を含んでいる。「問う」とき「答える」という動きがすでにはじまっている。「仏」を考えるとき、そこに「仏」が存在するのである。「自覚」を超えて、「自然」にそこに生まれてくるのである。
 こういう「自然」そのものに到達するようなことばの運動に対しては、兼好の父親のように「笑って」、それと向き合うしかない。
 どのような問いも、問いである限り「ほんとう」に「なる」のである。「ほんとう」でない「問い」は、「ない」。

 うーん、何を書いているのか、よくわからない感想になってしまった。

風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス
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