監督 アイラ・サックス 出演 ジョン・リスゴー、アルフレッド・モリーナ、マリサ・トメイ
これはとても風変わりな映画である。
初老の男のカップルが同性婚が認められたために結婚する。周辺のひとはみな祝福してくれる。ところがカトリック系(?)の学校は宗教上許されないとして、若い方の男を首にする。収入が激減し、住んでいるアパートを売って、新しい住まいを探さないといけない。アパートがみつかるまで、家族や友人の家にころがりこむのだが、二人分の部屋がない。ひとりずつしか受け入れられない。三十九年いっしょに暮らしていたのに、「新婚」になったとたんに別居生活が始まる。
予告編でわかっていたのは、そこまで。きっとコメディーだろうと勝手に予想していたのだが違った。
「現実」が淡々と描写される。家族、友人といっても「他人」。そこに新しいひとが入ってくるとぎくしゃくする。居候になるふたり(ひとりずつ)にしても、いままでの暮らしのようにはいかない。「他人」とうまく時間がすごせない。ただそれだけが淡々と描かれる。感情の爆発とか、劇的な展開というものはない。
ジョン・リスゴーが転がり込むマリサ・トメイの家は、マリサ・トメイが作家、夫が映画監督、息子がひとり。ジョン・リスゴーは息子の二段ベッドの下段を借りている。マリサ・トメイは作家だから当然執筆するのだが、ジョン・リスゴーが話しかけるので集中できない。ジョン・リスゴーが息子や夫なら、「話しかけないで、黙って」と言えるが、「他人」なので、きついことは言えない。欲求不満が高まる。ジョン・リスゴーは画家なので、彼に対して「絵を描いたらどうか」と提案するが、ジョン・リスゴーはジョン・リスゴーで「他人」がいると描けないと描けない、と言う。
アルフレッド・モリーナが世話になるのはゲイの警官のカップルの部屋。そこでは毎晩、パーティが開かれる。アルフレッド・モリーナはパーティーが開かれる部屋のソファを借りている。そこが、ベッドだ。パーティーが終わるまで、彼は眠ることもできない。「他人」の部屋に居候しているので、自己主張ができない。
「他人」を理解することと「他人」と暮らすことは別なのである。人間にはプライバシーがある。プライバシーと「同居」できるようになるまでには、とても時間がかかる。ひとりの人間が、いつでも自由に自分のなかにとじこもることが許されるようになるためには、何か、ことばで説明できな複雑な関係をくぐりぬけないといけないのだろう。「他人の自己主張」を「自己主張」のまま、いっしょに「共存」するまでには、「愛する」というだけではなく、「けんかをする/対立をする」ということもふくめて、ある種の「めんどう」をくぐりぬけなければならないのである。「無関心」、あるいは「知っていても知らない」という態度で「他人を許す」というところにたどり着くまでには、とても時間がかかるのだ。
そして、そういうことに気付いたあと(観客に気付かせたあと)。この映画は、予想外の展開をする。
アルフレッド・モリーナはパーティーで若い男と出会う。彼はメキシコに仕事をみつけ、ニューヨークを離れる予定である。その男から、アルフレッド・モリーナはアパートを借りることになる。しかし、ジョン・リスゴーといっしょに暮らすわけではない。ジョン・リスゴーと音楽会にいっしょに出かけ、感想を語り合う。音楽会の帰りには、なじみのバーで酒を飲む。そういうデートはするが、いっしょには暮らさない。
はっきりと描かれるわけではないが、アルフレッド・モリーナはアパートを貸してくれた若い男といっしょに暮らしている。
ジョン・リスゴーは、それを問い詰めはしない。ジョン・リスゴーも、昔は浮気(?)をしたことがある。ジョン・リスゴーは隠していたが、隠しても「知られてしまった」。「知った」けれどアルフレッド・モリーナは「知らない」顔をした。そうしたことがあったなあ、と二人はバーで話し、地下鉄の駅の入口で別れていく。
別居生活をすることで、ふたりは、何と言えばいいのか、一種の「プライバシー」をあらためて発見する。「プライバシー」が個人を支えているということを、せつない形で学びなおす。パートナーを「他人」として発見しなおすと言えるかもしれない。あるいは三十九年間、いっしょに暮らしているときは「自分が隠していたもの」を自分自身で発見したとも言えるかもしれない。
なんと言えばいいのか、とっても「めんどうくさい」映画なのである。そして、その「めんどうくささ」は、このあとさらに重たくなる。
地下鉄の駅の入口で別れたあと、どうなったか。ジョン・リスゴーは病気で死んでしまう。その死後(その葬儀のあと)、ジョン・リスゴーが暮らしていた家の息子が、ジョン・リスゴーの描きかけの絵をアルフレッド・モリーナに届けに来る。その絵は、息子の家の屋上で描いたもので、そこには息子の友人が描かれている。息子は、友人とは交流がなくなっている。だから、その絵は、息子にとっては友人の貴重な「思い出」なのだが、それをアルフレッド・モリーナに渡してしまう。
渡してしまって、アルフレッド・モリーナの部屋を出る。階段をおりる。下から上がってくる老女に道を譲って、その踊り場で、少年は泣き出してしまう。理由は説明されない。ジョン・リスゴーを思い出したからか、会えなくなった友人を思い出したからか。わからないが、わからないからこそ、このシーンが、なんともいえずに美しい。明かり取りの窓があり、そこから街の風景がぼんやり見える。彼が泣いていることは、だれも知らない。彼は泣いたことを、これから先、だれにも言わないだろう。彼は、それを隠しつづけるだろう。「プライバシー」が、そこにある。「個人的な過去」が、そこにある。
ラストは、さらに奇妙で、涙をふいたあと、少年は少女と夕暮れの道をスケボーでデートしながら走りつづける。このシーンが、またまた無意味に美しい。夕陽がカメラのレンズに入り、少年も風景も光のなかに消える瞬間がある。少年は少女に、「自分の過去/プライバシー」を語ることがあるだろうか。語らなくても、それは「知られてしまう」だろうか。
何も答えのないまま、この映画は終わるのだが。
うーん、アメリカ映画で、こんなふうに「プライバシー」を描いたことがあっただろうか。思い出せない。いや、ほかの国の映画でも、こういう形の「プライバシー」の描き方はないなあ。
長い長い小説を、むりやり短篇にしたような、不思議な凝縮感のある映画だった。ストーリーだけを追ってみていると、とても物足りない(カタストロフィーがない)のだけれど、ストーリーではなく、「プライバシー」と「人間」の関係を描いた映画と思って、とらえなおすと、うーん、と考え込んでしまうのである。
(2016年03月27日、KBCシネマ2)
*
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これはとても風変わりな映画である。
初老の男のカップルが同性婚が認められたために結婚する。周辺のひとはみな祝福してくれる。ところがカトリック系(?)の学校は宗教上許されないとして、若い方の男を首にする。収入が激減し、住んでいるアパートを売って、新しい住まいを探さないといけない。アパートがみつかるまで、家族や友人の家にころがりこむのだが、二人分の部屋がない。ひとりずつしか受け入れられない。三十九年いっしょに暮らしていたのに、「新婚」になったとたんに別居生活が始まる。
予告編でわかっていたのは、そこまで。きっとコメディーだろうと勝手に予想していたのだが違った。
「現実」が淡々と描写される。家族、友人といっても「他人」。そこに新しいひとが入ってくるとぎくしゃくする。居候になるふたり(ひとりずつ)にしても、いままでの暮らしのようにはいかない。「他人」とうまく時間がすごせない。ただそれだけが淡々と描かれる。感情の爆発とか、劇的な展開というものはない。
ジョン・リスゴーが転がり込むマリサ・トメイの家は、マリサ・トメイが作家、夫が映画監督、息子がひとり。ジョン・リスゴーは息子の二段ベッドの下段を借りている。マリサ・トメイは作家だから当然執筆するのだが、ジョン・リスゴーが話しかけるので集中できない。ジョン・リスゴーが息子や夫なら、「話しかけないで、黙って」と言えるが、「他人」なので、きついことは言えない。欲求不満が高まる。ジョン・リスゴーは画家なので、彼に対して「絵を描いたらどうか」と提案するが、ジョン・リスゴーはジョン・リスゴーで「他人」がいると描けないと描けない、と言う。
アルフレッド・モリーナが世話になるのはゲイの警官のカップルの部屋。そこでは毎晩、パーティが開かれる。アルフレッド・モリーナはパーティーが開かれる部屋のソファを借りている。そこが、ベッドだ。パーティーが終わるまで、彼は眠ることもできない。「他人」の部屋に居候しているので、自己主張ができない。
「他人」を理解することと「他人」と暮らすことは別なのである。人間にはプライバシーがある。プライバシーと「同居」できるようになるまでには、とても時間がかかる。ひとりの人間が、いつでも自由に自分のなかにとじこもることが許されるようになるためには、何か、ことばで説明できな複雑な関係をくぐりぬけないといけないのだろう。「他人の自己主張」を「自己主張」のまま、いっしょに「共存」するまでには、「愛する」というだけではなく、「けんかをする/対立をする」ということもふくめて、ある種の「めんどう」をくぐりぬけなければならないのである。「無関心」、あるいは「知っていても知らない」という態度で「他人を許す」というところにたどり着くまでには、とても時間がかかるのだ。
そして、そういうことに気付いたあと(観客に気付かせたあと)。この映画は、予想外の展開をする。
アルフレッド・モリーナはパーティーで若い男と出会う。彼はメキシコに仕事をみつけ、ニューヨークを離れる予定である。その男から、アルフレッド・モリーナはアパートを借りることになる。しかし、ジョン・リスゴーといっしょに暮らすわけではない。ジョン・リスゴーと音楽会にいっしょに出かけ、感想を語り合う。音楽会の帰りには、なじみのバーで酒を飲む。そういうデートはするが、いっしょには暮らさない。
はっきりと描かれるわけではないが、アルフレッド・モリーナはアパートを貸してくれた若い男といっしょに暮らしている。
ジョン・リスゴーは、それを問い詰めはしない。ジョン・リスゴーも、昔は浮気(?)をしたことがある。ジョン・リスゴーは隠していたが、隠しても「知られてしまった」。「知った」けれどアルフレッド・モリーナは「知らない」顔をした。そうしたことがあったなあ、と二人はバーで話し、地下鉄の駅の入口で別れていく。
別居生活をすることで、ふたりは、何と言えばいいのか、一種の「プライバシー」をあらためて発見する。「プライバシー」が個人を支えているということを、せつない形で学びなおす。パートナーを「他人」として発見しなおすと言えるかもしれない。あるいは三十九年間、いっしょに暮らしているときは「自分が隠していたもの」を自分自身で発見したとも言えるかもしれない。
なんと言えばいいのか、とっても「めんどうくさい」映画なのである。そして、その「めんどうくささ」は、このあとさらに重たくなる。
地下鉄の駅の入口で別れたあと、どうなったか。ジョン・リスゴーは病気で死んでしまう。その死後(その葬儀のあと)、ジョン・リスゴーが暮らしていた家の息子が、ジョン・リスゴーの描きかけの絵をアルフレッド・モリーナに届けに来る。その絵は、息子の家の屋上で描いたもので、そこには息子の友人が描かれている。息子は、友人とは交流がなくなっている。だから、その絵は、息子にとっては友人の貴重な「思い出」なのだが、それをアルフレッド・モリーナに渡してしまう。
渡してしまって、アルフレッド・モリーナの部屋を出る。階段をおりる。下から上がってくる老女に道を譲って、その踊り場で、少年は泣き出してしまう。理由は説明されない。ジョン・リスゴーを思い出したからか、会えなくなった友人を思い出したからか。わからないが、わからないからこそ、このシーンが、なんともいえずに美しい。明かり取りの窓があり、そこから街の風景がぼんやり見える。彼が泣いていることは、だれも知らない。彼は泣いたことを、これから先、だれにも言わないだろう。彼は、それを隠しつづけるだろう。「プライバシー」が、そこにある。「個人的な過去」が、そこにある。
ラストは、さらに奇妙で、涙をふいたあと、少年は少女と夕暮れの道をスケボーでデートしながら走りつづける。このシーンが、またまた無意味に美しい。夕陽がカメラのレンズに入り、少年も風景も光のなかに消える瞬間がある。少年は少女に、「自分の過去/プライバシー」を語ることがあるだろうか。語らなくても、それは「知られてしまう」だろうか。
何も答えのないまま、この映画は終わるのだが。
うーん、アメリカ映画で、こんなふうに「プライバシー」を描いたことがあっただろうか。思い出せない。いや、ほかの国の映画でも、こういう形の「プライバシー」の描き方はないなあ。
長い長い小説を、むりやり短篇にしたような、不思議な凝縮感のある映画だった。ストーリーだけを追ってみていると、とても物足りない(カタストロフィーがない)のだけれど、ストーリーではなく、「プライバシー」と「人間」の関係を描いた映画と思って、とらえなおすと、うーん、と考え込んでしまうのである。
(2016年03月27日、KBCシネマ2)
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