詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬の鎖はゆるくたわみ、/異聞

2016-03-26 23:59:59 | 
犬の鎖はゆるくたわみ、/異聞

犬の鎖はゆるくたわみ、春の光を反射していた。
泥は、とっくに乾いていた。
前脚の上に顎をのせて息を吐いている。
無害であることを恥じるようによわよわしく匂った。

遠いところからわけのわからないものをひきずってきたのだが、
ここで犬になってしまった。
棒で打たれて膝が折れ、震えているのを見たとき、
からだのなかで騒いでいたものがしいんとなった。



鎖は犬と杭の距離のあいだで、ぬるい重さを形にするかのように、たわんでいる。
互いの空洞に互いの腕をからめるという比喩がぶら下がって、
だらしないということばになろうかどうしようかと考えている。
(主語は、犬ではなく、鎖である。)



二つ目の文章で「主語」を犬から鎖にかえている理由について。
この文章を書いたとき、その男は(つまり私のことだが)、どこへ隠れようとしたのか。最初は、多くの人間のように犬に隠れようとした。犬を比喩として生きようとしたのだろう。しかし、それはあまりにも比喩の定型になりすぎると私は(つまり、その男のことだが)考え、鎖に隠れることはできないか考えてみたのだ。
(これは本心からではなく、その方が詩になると思ったからである。)

犬をつないだり、ひっぱったりする鎖は、実は犬につながれている。犬がつながれているのではなく、鎖の方がどこへも行けない、というのは、視点を入れ替えてみただけのことであって、比喩にもなっていない。
犬が動かないと、たわんだまま春の光を集めることしかできない。
錆びていないのは、みっともない話だが、それが鉄ではないからだ。





静物画/課題

石が縄に縛られたまま椅子の上にある。
縄は死んだ獣の尾となって、椅子から落ちている。
椅子は木のものから金属のものにかえられたあと、さらにガラス製にかえられた、
という仮説を挿入したまま
それを花の絵(鉛筆のみ使用)として描きだすという課題。

(灰色/四センチ×七センチ×九センチ)
(白/二・一メートル)
(三十五センチ四方、高さ四十五センチ)

肉が落ちてゆき、
骨が太くなる。

もしその下で
水栽培の球根の根がからみあい臭い息を吐いていたら。
泣いているのは、
まどろみだろうか。
目覚めだろうか。
あるいは、まだ夢のなかにあるのか。








*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4200円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野杏子「ハーメルン」

2016-03-26 09:30:46 | 現代詩講座
網野杏子「ハーメルン」(現代詩講座@リードカフェ、2016年03月23日)

ハーメルン   網野 杏子  

なんで並んでるの
知らない
みんななんでここにいるの
だってハーメルンはとても
素敵
細マッチョでイケボ
白い皮の靴はピカピカ
なにより
詩が書けるの!
うっとりさせるような
私の創るうたも
すごくイイネ!って誉めてくれる
その時だけ
嫌なこと忘れられる

ミートソース作ったフライパン
ペーパータオルで拭ってから
スポンジで洗う
(NHKのお作法番組でやってた)
私のスポンジはきれいなまま
汚れた油にまみれない
(私が食べたから汚れたんだけど)
油でぐちゃぐちゃになったペーバータオル
我が家からさよならして
遠い遠いゴミ焼却場で
燃やされるのか(知らない)
埋められるのか(知らない)
愛宕神社の高台から見えた
ひとつひとつの灯りから
スポンジをきれいに保つため
油まみれのペーパータオル達が集められ
(ミートソースを食べたから)
だけど私のスポンジはきれい
ベランダから見えてたマンションの外灯
消えて 点いて 消えて 
近づき過ぎたら見えないけど
愛宕山の高台からも見えない
ちいさな
私の欲しかった
正解の行方は

ハーメルンが笛を吹く
こっち
こっちです
これが公式です
ランキング一位
教科書で
マニュアルに
グーグル!

カーニバルがはじまるよ
楽しもう
孤独なんて
電車の中でスマホを
みてるふりしても
人生は容易に終わらないから
あなたと触れ合う手と手のぬくもりが
気持ち悪いから
話さなくても
人がいるとこにいるとなんだか
許可されてる気がして
はぐれないようにしなきゃ
あれ
正解ってなんだっけ
そういえば昨日
ミートソースのスパゲティを食べた


どこにいくんだろ
外れた観覧車の輪が追ってくる
(気づいてないの?)
きっとハーメルンだって
目的地を知らない

 受講者の感想。

<受講者1>ハーメルンの笛吹き男という素材をうまくつかっている。
      女の人の料理をしながらの感覚が伝わってくる。
      自分をスポンジになぞらえている。
      自分がかわらない。そのかわらない自分がスポンジになって動いていく。
      かっこのなかが気になった。かっこにしないといけないのか。
      二連目の(ミートソースを食べたから)はない方がいい。
      読者に想像させる方がいい。
<受講者2>「許可」とか「正解」ということばが気になる。
      自分自身のことばではなく「共通語」をつかっている。
      ただ、いろいろな世界が登場し、ふくらんでいくのがいい。
<受講者3>「イケボ(イケメンボイス)」というような現代性のあることばが、
      古い素材とまじっているのがおもしろい。
      世界が転がっていく感じがする。
<受講者4>ことばがポップ。いきいきしている。
      ミートソースを作った肉体にしかわからないやっかいさが書かれている。
      紙をつかうか、洗剤をつかうか、どっちが社会的・倫理的なのか。
      日常にまみれて生きていると、ハーメルンについて行きたくなる。
<受講者1>私は、三連目が好き。
<受講者5>私にはわかりにくい。
      「近づき過ぎたら見えないけど/愛宕山の高台からも見えない」など、
      矛盾が書いてあるからかなあ。
      フォーカスをあてても見えにくいものを書いてあるのかなあ。
      リアルな、生理的な感じがする。
      「あなたと触れあう手のぬくもりが/気持ち悪いから」からつづく行も、
      非常に印象に残る。
<網  野>二十代の女性を思い浮かべて書いた。腹が立って書いた。
      ミートソースをつくった汚れたフライパンを洗うとき、
      紙で拭き取ってから洗うと洗剤が少なくてすむ。
      汚れを流さないし、環境にやさしい。
      けれど一方で、紙をつかえば紙が消費される。
      どれが正しいのか、納得できない。それを書いた。
<受講者5>ハーメルンの意味は?
<網  野>教訓を書きたくない。
      「正解を求める気持ち」「ひとつの方向性」に対する疑問を書いた。

 ハーメルンの笛吹き男についていくだけの子供たち。だれかの言うがままに動いていくことに対する疑問ということだろう。ミートソースの汚れは紙で拭き取ってから洗う、というのが「現代の作法」(環境への配慮)。スポンジも汚れが少ない。一石二鳥ということだろうか。しかし、そういう行動は、また紙の大量消費という問題を含む。どれが「正しい作法」のか、わからない。
 「正解」ということばはには「お作法」ということばが含んでいる「正しい作法」の「正しい」という「意味」が反映されている。「正しい作法」「正しい答え」が響きあっている。
 「正解」はまた「公式」とか「教科書」ということばで言い直されているが、「目的地」という「到達する/ある方向に動く」という「動詞」を含むことばでも言い直されている。三連目の「こっち」は「目的地(の方向)」を指し示すことばだとも言える。
 この離れたところにあることばが呼応している感じ、「意味/イメージ」をぶつけ合いながら、言いたいことを探していく感じがおもしろい。世界を攪拌しながら、同時にととのえる感じ。かきまぜることで、濁るのではなく、透明になる感じ。
 そんなふうにして、ことばを探していくと、ほかにもいろいろなつながりが見えてくる。
 書き出しの「並んでる」というのも「方向」を示す。その「方向」の先には「正解」が「ある」とだれもが信じている。「正解」は「イイネ!」ということになる。

 何か「正解」を求めて、簡単に動いてしまう「現実」がある。「正解」は「時代」によって変化していく。
 ものをつくって食べるという昔からかわらない「暮らし」がある。そこに人間は深くかかわっている。つくって「食べる」一方、その「後片付けをする。そこに、強引に「正解」ということばを持ち込み、攪拌すると、どうなるか。
 「食べる」という「正解」と片づけるという「正解とは関係ないもの」という関係がそこにあるのか、あるいは「片づける」という「正解」と「食べる」という「正解とは無関係なもの」がそこにあるのか。
 「食べる」快感を「流行語(?)」で書き、後片付けをする方の台所仕事から見つめなおすようにして、二つを衝突させている詩ということになるかもしれない 。「後片付け」から、世界をとらえなおしていると言えるかもしれない。
 
 で。
 受講者の感想のなかに、「ポップ」という表現があった。
 「ことばがいきいきしている。ポップだ」
 その、ポップって、何だろう。何とか定義できないだろうか。

<質  問>どこが、ポップ? ポップということばで感じることは?
<受講者3>いきいきしたことば。「細マッチョ」とか「イケボ」とか。
      一連目がポップ。カタカナのことばに、そういうものを感じる。
<受講者2>私も一連目がポップ。軽さがポップ。
<受講者4>二連目のおわり。
      「ちいさな/私の欲しかった/正解の行方は」は、せつない。
<受講者5>三連目が、ポップ。ことばが大きくて速い。歯切れがいい。軽快。
      ことばが日常と離れている感じ。
<受講者1>三連目が好き。音楽的。ことばが、はねる。
<受講者2>音楽はつながっていくのもだけれど、ことばはつながらない。
      ことばに横のつながりがない。
<網  野>私はポップについて思ったことがない。

 うーん。
 私がポップということば(感想)におどろいたのは、そのときポップということばをつかったひと(受講者4)が「肉体にしかわからないやっかいさ」ということと平行する感じで語ったからである。
 肉体とポップはどういう関係にあるか。
 その受講者は、「せつない」ということばとポップスをつないで語りなおしてくれているが、そういうこととも関係がある。(この「せつないポップ/ポップのせつなさ」という感想は、網野の作品を深くとらえ、はげしく揺さぶる力を持っている。大変刺戟的である。)
 ポップは確かに軽快なのだが、その軽快さというのは「肉体」を突き破っていく感じと、私なら言い直す。自分の「肉体」のなかにある、まだ「ことば」にならない欲望や本能のようなものが、ことば(形)にならないまま、不定形のまま、あふれていく。あふれて行って、それが自分の外から自分を導く、誘う感じ。
 知らないものに対する興奮。初めてみるものに対する興奮。それはある意味では、自分自身の否定。自分が知っているものを否定すること。だから、それは、別な角度からみれば「せつない」という気持ちも引き起こすことがある。(これは、受講者が言った「せつない」と重なるのかどうかわからないが、私は、そう感じた。)
 筆者の網野と、「せつない」という感想を言ったひとは、受講者のなかでは年齢が近いこともあって、響きあうものがあったのかもしれない。

 私は、網野とは年代も違うし、この詩に書かれている台所仕事とも深いかかわりはもたないのだが……。
 私の感覚では、

燃やされるのか(知らない)
埋められるのか(知らない)

 この部分がいちばんポップである。読んだ瞬間、いちばん興奮したのが、ここ。
 汚れを拭き取った紙は燃やされるのか、埋められるのか。燃やすにしろ、埋めるにしろ、そこには「ごみ」を「処理する」という「意味」がある。ひとつの「正解」がある。
 そういう「正解」を拒否している。
 どちらが「正しい」という答えを出さない。「答え」を出すということ、それ自体を否定している。放棄している。「答え」に「正しい」も「間違っている」もつけない。「知らない」と拒絶すること、切断することで「無意味」にしてしまう。
 この瞬間が、ポップだと私は思う。興奮する。
 「知らない」ということばは書き出しの二行目にも登場している。
 この詩では、この「知らない」がいちばん重要だと私は感じている。「知らない」に私は網野の「肉体/思想」を感じたのである。
 「知らない」とことばにすることで、そこにあるものを「拒絶」する。そして、同時に自分のなかにある、ことばにならないものを発見する。何を発見したか。それは「知らない」ということばでしか表現できない。「知らない」というしかない。
 「ことば」では「知らない」。けれど「肉体」では、知っている。こっちが、好き。こっちが、嫌い。「本能」が何かをつかんでいる。
 これが「ポップ」だと思う。
 この「知らない」は、ちょっと控えめに言うと

(私が食べたから汚れたんだけど)
(ミートソースを食べたから)

 というような、中途半端ないい方になる。「断言」しない。途中で省略してしまう。何が省略されているか「ことば」ではなく、私たちは「肉体」でわかってしまう。そういうものがあるのだ。
 そういうものをもっとていねいに追うと、この詩はいっそう強くなるかなあと感じだ。私は二連目が好きで、「細マッチョ」や「ランキング」などのことばが出てくる部分はポップというよりも風俗の上滑りと感じてしまう。
 でも、これは私が古い人間だからだね。

(次回は4月13日水曜日18時から)
あたしと一緒の墓に入ろう―網野杏子詩集 (鮮烈デビュー詩集シリーズ)
網野 杏子
草原詩社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする