渡辺松男「旅じたくのためのスクリブル」(「ほんのひとさじ」2016年03月01日発行)
渡辺松男「旅じたくのためのスクリブル」を読んで、あ、一元論の詩だ、俳句みたいだ、と思ったら、渡辺松男は俳句のひとだった。いや、歌集が多く、迢空賞を受賞しているから(略歴で知った)短歌のひとということになるのだろうけれど、詩を読むかぎりは俳句を読みたくなることばの運動である。
「旅じたくのためのスクリブル」は三篇から構成されているが、そのうちの「手」。
ぼくの手がすーっと伸びてゆき、木となり、枝となり、こずえとなり、
ぱっと開いて、それから先、小鳥になってとびたった。
どこからぼくがぼくでなくなったのか、わからないが小鳥は元気。
しばらくたつと雪がふってきた。
雪が消えると、ふたたび手が現れた。ぼくの手。
「ぼくの手が」「木となり、枝となり、こずえとなり、」の「なる」という「動詞」がおもしろい。二行目では「小鳥になって」という形でつかわれている。
「なる」というのは、何だろう。
五行目に「ふたたび手が現れた」と「現れる」という「動詞」がつかわれている。これは、たぶん「なる」と言い換えることができる。「手」は「木/枝/こずえ/小鳥」に「った」。しかし、ふたたび「手」に「なった」(もどった)。
これを「現れる」というのなら、一行目は、
ぼくの手がすーっと伸びてゆき、そこに木が「現れ」、枝が「現れ」、梢が「現れ」、
と言い換えることができるだろう。単に「現れる」ではなく、それは言外に「戻る」を含む。もともと「手」は「木/枝/こずえ」であったのだ。
二行目も、
ぱっと開いて、それから先、小鳥が「現れ」とびたった。
と言い換えうる。
手が木に「なる」よりも、手を伸ばした先に(先ということばは二行目につかわれている)、木が「現れる」の方が現実的に見える。現実として想像しやすいかもしれない。何かが「出現する」。これは、「常識」として「わかる」。
でも、これは「わかりやすい」だけに、何か違っているなあ、とも感じる。
「現れる」は、ほかに言い換えがきかないか。
ぱっと開いて、
このことばが「現れる」に近いかも。「ぱっと現れる」(突然、現れる)。
で、この「ぱっと開いて」の「開いて」。「開く」という「動詞」が「現れる」なのかもしれない。いままで何かが閉ざされていた。その閉ざした向こうに何かが隠されていた。それが「開かれ」、隠されていたものが「現れ」る。
扉(カーテン)が「開かれ」、奥から美女が「現れた」。そんな感じで、何かが「現れる」。そういうことは、だれもが見聞きすることだ。
「なる」とは、隠れていたものが「開かれ」、そこに「現れる」こと、と読み直すことができる。「ぼく」のなかに「あった」もの、「ある」もの、つまり「木/枝/こずえ/小鳥」が、「ぼく」という「枠」が「開かれ」、そこに「現れる」と読み直すことができる。
でも、「隠れている」というのは、どういうことだろうか。美女は扉の向こう、カーテンの向こうに隠れているということができるが、「木/枝/こずえ/小鳥」は「ぼく」の「どこ」に隠れている? 手の中に? これは、まあ、「常識」として、ありえない。
どこに隠れているか。その「どこ」を考えるとき、三行目の「どこからぼくがぼくでなくなったのか、わからない」ということばが手がかりになる。
「どこからぼくがぼくでなくなったのか、わからない」とは「区別」が「わからない」ということでもある。「どこに隠れていたか」は「わからない」としか言いようがないのである。強いて言えば「どこからぼくがぼくでなくなったのか」の「か」という疑問、問いかけるときの、その「問い」が区別を生み出そうとしているということになる。
この「区別」を、いまはやりの「分節」ということばで言い直すと、「一元論」がぐっと近付く。
「ぼく」には「手」がある。その「手」はいろいろな呼び方がある。「腕」であったり「掌」だったり「指」だったりする。状況に応じて、そう呼んでいる。そのとき、状況を「分節し」、その状況にあわせて「手」も「分節しなおしている」。そういうことにならないだろうか。
「手」を「腕」という形でとらえなおす(分節する)、「掌」ということばで説明しなおす(分節する)。その「分節の仕方」の違いというのは、いちいち説明するのはめんどうくさいから、 私たちはそういうめんどうを無意識にまかせてしまう。意識化しない。けれど、「どこか」で、そういうことをやっている。
この「どこか」を「閾」ということばであらわすと、現代思想の「一元論」がさらに近づくが、私は「聞きかじり派」なので、これは省略。
省略するけれど、まあ、渡辺は、そういう「閾」を何度もとおって、木になったり、枝になったり、こずえになったり、小鳥になったりする。もちろんふたたび手になる。手に戻る。
そのとき、そこに浮かび上がるのは、そういうことを可能にする「閾」がある、ということ。「手」は「閾」を超えて、あるいは「手」という「分節」を捨てて、「無」になり、そこから「閾」を超えて/「閾」を「開いて」、「木」に「なる」。「木」として「現れる」。そういう「一連の動き」が見える。
さらにつけくわえると、「ぼくの手がすーっと伸びてゆき」の「伸びる」という「動詞」もおもしろい。手がすーっと伸びて、ふたたび手にすーっともどってくる。この広がりを含む往復運動は「遠心/求心」という俳句の「核心」につながる。「伸びる」(拡張する)だけではなく、もう一度「戻る」。そのときの「戻る」は「もと」に戻るというよりも、もっと「深いところ」に戻るのかもしれない。「核」に戻る。その一瞬の往復運動のなかに、世界が「ばっと開く」。
ほら、俳句でしょ?
詩を読むかぎり、俳句はきっとおもしろいだろうなあ、と感じさせてくれるのだが、渡辺が、歌人としての方が有名(すぐれている?)とするなら、渡辺のことばのなかに俳句とは違う「要素」が濃く存在しているということなのかな? それをこの詩に探してみると「ぼく」という「自意識」かもしれない。
「ぼく」ということばを消し、三行目を、
どこから「手」が「手」でなくなったのか、わからないが小鳥は元気。
とすると、「肉体」がぐっとなまなましくなる。「ぼく」ということばにじゃまされずに、そのことばが私(読者)のものになる。渡辺のことばではなく、私(読者)自信のことばの体験になる。
うーん、渡辺の俳句を読んでみたい。
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