四方田犬彦「石」(「LEIDEN」9、2016年03月05日発行)
四方田犬彦「石」は、何が書いてあるのか。「動詞」(肉体)は、どう動いているのか。
「お母さん(あなた)」と「ぼく」と「あの人たち(罪なき人たち)」がいる。
「石を投げる」は「非難する/断罪する」ということだろうか。「比喩」だろうか。「僕」は何かしらの「罪」を犯した。それは「非難/断罪」にあたいする。けれど「お母さん」が「非難しない/断罪しない」ので、ほかの人は「非難したい」のに「できない」ということだろうか。
具体的にどんな行為(罪)が問われているのか、ここからはわからないが、ある行為をめぐる非難/断罪と、非難するという「動詞」が「石を投げる」という形で書かれているということだけは、なんとなく、わかる。そして、「あの人たち」が、その「動詞」が実際に動くかどうか、「お母さん」が「石を投げる」かどうかを「窺っている」ということが、なんとなく、わかる。
で、この「窺う」という「動詞」。これが、ちょっとおもしろい。「窺う」という漢字のなかには「のぞいて見る/隠れて見る」の「見る」がひそんでいる。その「窺う」の直前の「僕たちの方を」の「方」ということばも、とてもおもしろい。「方」は「ぼんやりしている」。「僕たち」を「見ている」のに「僕たちを」と「限定」せずに、ぼかしている。「窺う」も「見ている」のに「見ている」とはっきりいわずに、ぼかしている。
「見ていただろう」と問われたら、「いや、見ていません」と答える用意をしている。それが「窺う」であり、「……の方を窺う」ということだろう。「ほかのものを見ていました」という「方便」のために、「方を」というのだ。
関心があるのに、かかわりたくない。
なぜ?
「安心」ということばが、出てくる。「あなたが僕に石を投げてくれたら/あの人たちも安心して/石を投げることができるでしょうに」。この「安心」は「不安」の裏返しである。自分で「石を投げる」こと、それを実行することに対する「不安」がある。だから、石を投げられない。
「安心/不安」はこころの「動き」。その「こころの動き」をあらわすことばが、「後悔」「希望」という「名詞」で言い直されている。「安心/不安」は同じ意味ではないし、「後悔」「希望」とも違うものだが、こころが「動く」という点では同じ。あるときは「安心」になり、あるときは「不安」になり、また「後悔」にもなれば「希望」にもなる。この、「こころの動き/動詞」の「不安定さ」はどこから来ているのか。
「待っている/待つ」という「動詞」が、「こころの動き」を不安定にしている。自分で「動かさない」。自分からは「動かない」。これが「待つ」。どこかで「他人まかせ」である。だから「安定させる」ということができない。
人を非難する/断罪するというのは、人の罪を「特定する」ということである。「決める」ということである。「特定する/決定する」。その「動詞」のなかに「定める」がある。「安心」と結びつけると「安定する」ということばになる。
「あの人たち」は「こころの動き」を「安定させたがっている」。「こころの動き」が「安定する」。そうすると、きっと「後悔」も「希望」も無関係になるんだろうなあ。
でも、そういうことを四方田は書きたいのではないような感じがする。
こうやって、ことばをあれこれ動かしていると、「直観の意見」が「それは、何か間違っている」と、これ以上書くことを、さえぎる。「何か、大事なものを見落としているぞ」と「直観」が言うのである。
一連目を読み返す。
そうすると、
と、この一行だけ「疑問文」になっていることに気がつく。「か」の音が、胸にぐいと突き刺さってくる。
これは、いったい、何なのだろう。
ぐいと胸に刺さったのは何なのだろう、と思いながら、詩を読み進む。
そうすると、三連目で「石を投げる」という動詞が、疑問形ではなく「事実」として出てくる。「事実」の形で「反芻」されているのに出合う。
人は大事なことは繰り返す(反芻する)。きっと、ここに四方田の書きたかったことの「核心」がある、と「直観の意見」が言う。
どう書かれているか。
ここから一連目へ引き返すと、お母さんが僕に石を投げないかぎり、こんどは再び、あの人たちがお母さんに石を投げることがわかる。そういうことは、すでにあったのだ。「僕のせいで石を投げられる」ということは、起きる。
それを「知っている」。
これだな、この詩のキーワードは。
「知っている」は「覚えている」でもある。過去に、そういうことがあった。それを「僕」は「覚えている/忘れられない」。「忘れられない」から、それはあるときは「後悔する」という形でよみがえることもあれば、「希望する」というこころの動きになるのだが……。
で、いちばん問題なのは。「知っている」がキーワードだ、と感じた理由……。
知っているのに、なぜ「どうして石を投げてくれないのですか」と「疑問形」にしたか、ということ。なぜ、質問したのか、ということ、これが問題なのだ。
「どうして石を投げてくれないのですか」は、文章の形は疑問形だが、疑問ではないのだ。「文法」では「疑問形」と呼ぶが、むしろ「確信」である。
「石を投げない」と「知っている/わかっている」。「知っている/わかっている」けれど、そういう形でことばを動かすしかないことが書かれているのだ。
最終連で、「疑問形」が再び出てくる。
「どうして石を投げてくれないのですか」は繰り返し。それがさらに「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という形で言い直される。
この「答え」も、「僕」は、ほんとうは「知っている/わかっている」。
そして、この詩を読む人もまた、きっと「知っている/わかっている」。「おかあさん」というのは、そういうものなのだ。それは「どうして石を投げてくれないのですか」「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という「問い」の形でしか言うことのできない「答え」なのだ。
そして、唐突に気づくのだが、ここで繰り返されている「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」、「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という「問い」は、別の形で言い直すと「お母さんとは何ですか/お母さんとは何者ですか」ということである。「理由」など、ほんとうは問われていない。問われているのは「お母さん」という「生き方」そのものである。
「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」は、「お母さんとは何ですか/何者ですか」という「問い」にぶつかると、「石を投げないのがお母さんです」という「答え」になるはずだ。
この「答え」は「ことば」にはならない。「ことば」にならないのは、「ことば」にする必要がないくらい、はっきりと「知っている/わかっている」からである。つまり「確信している」からである。この「確信」はけっしてゆらがない。あるいは、「問う」ことで、その「問い」そのものが「確信」になるのだとも言えるかもしれない。
「問い(疑問/……か)」ではじまり、それを繰り返すことで終わる。その「繰り返し」のなかに「確信」がある。「お母さんは、そういう存在である」という「確信」がある。
こういう「感想」では抽象になってしまうが……。
一連目について最初に書いた「窺う」とか「安心(する)/後悔(する)/希望(する)」「待つ」というような「動詞(名詞)」のなかで、いつも「問い」が繰り返されているのだろう。つまり、「お母さん」とは「窺う」「安心する」「後悔する」「希望する」「待つ」という「動詞」で「僕/息子」には接しない「生き方」をする存在なのだ。そういうことがことばにならないまま、そこに書かれている。隠されている。
そういうことを浮かび上がらせるために、「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」と、二人を見つめる「あの人たち」の「動詞」が、そこに書かれているのだ。そこに書かれているのは、ある意味では、私たちがすでに知っている/わかっていることである。
しかし「わかっている/知っている」からといって、それがすでに「ことば」になっているわけではない。このことがいちばん大事なのだと思う。
四方田が「ことば」にすることによって、私たちは、はじめて、そういうことを「わかっている/知っている」と気づく。それは、四方田が「ことば」にすることによって「わかっている/知っている」こととして、そこに「あらわれてきた/生み出された」。四方田が「ことば」にするまでは、それは「ことば」ではなかった。四方田が「ことば」にしたから、「ことば」になった。つまり、「詩」になった、ということである。
「……か」と問うことが、「……である」という「答え」として反復される。その「問い」と「答え」の「同義反復」の間に、「知っている/わかっている」ことが「ことば」として書かれ、それが「詩」になる。そういう「ことばの運動」が、ここにある。
*
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四方田犬彦「石」は、何が書いてあるのか。「動詞」(肉体)は、どう動いているのか。
お母さん
どうして石を投げてくれないのですか
あなたが遲(ためら)っているので
あの人たちはなにもできないのです
お母さん
あなたが僕に石を投げてくれたら
あの人たちも安心して
石を投げることができるでしょうに
遠くから僕たちの方を窺い
何やらひそひそ話をしている人たち
後悔も希望もなく
ただ罪なき命数が尽きることだけを待っている人たちも
「お母さん(あなた)」と「ぼく」と「あの人たち(罪なき人たち)」がいる。
「石を投げる」は「非難する/断罪する」ということだろうか。「比喩」だろうか。「僕」は何かしらの「罪」を犯した。それは「非難/断罪」にあたいする。けれど「お母さん」が「非難しない/断罪しない」ので、ほかの人は「非難したい」のに「できない」ということだろうか。
具体的にどんな行為(罪)が問われているのか、ここからはわからないが、ある行為をめぐる非難/断罪と、非難するという「動詞」が「石を投げる」という形で書かれているということだけは、なんとなく、わかる。そして、「あの人たち」が、その「動詞」が実際に動くかどうか、「お母さん」が「石を投げる」かどうかを「窺っている」ということが、なんとなく、わかる。
で、この「窺う」という「動詞」。これが、ちょっとおもしろい。「窺う」という漢字のなかには「のぞいて見る/隠れて見る」の「見る」がひそんでいる。その「窺う」の直前の「僕たちの方を」の「方」ということばも、とてもおもしろい。「方」は「ぼんやりしている」。「僕たち」を「見ている」のに「僕たちを」と「限定」せずに、ぼかしている。「窺う」も「見ている」のに「見ている」とはっきりいわずに、ぼかしている。
「見ていただろう」と問われたら、「いや、見ていません」と答える用意をしている。それが「窺う」であり、「……の方を窺う」ということだろう。「ほかのものを見ていました」という「方便」のために、「方を」というのだ。
関心があるのに、かかわりたくない。
なぜ?
「安心」ということばが、出てくる。「あなたが僕に石を投げてくれたら/あの人たちも安心して/石を投げることができるでしょうに」。この「安心」は「不安」の裏返しである。自分で「石を投げる」こと、それを実行することに対する「不安」がある。だから、石を投げられない。
「安心/不安」はこころの「動き」。その「こころの動き」をあらわすことばが、「後悔」「希望」という「名詞」で言い直されている。「安心/不安」は同じ意味ではないし、「後悔」「希望」とも違うものだが、こころが「動く」という点では同じ。あるときは「安心」になり、あるときは「不安」になり、また「後悔」にもなれば「希望」にもなる。この、「こころの動き/動詞」の「不安定さ」はどこから来ているのか。
「待っている/待つ」という「動詞」が、「こころの動き」を不安定にしている。自分で「動かさない」。自分からは「動かない」。これが「待つ」。どこかで「他人まかせ」である。だから「安定させる」ということができない。
人を非難する/断罪するというのは、人の罪を「特定する」ということである。「決める」ということである。「特定する/決定する」。その「動詞」のなかに「定める」がある。「安心」と結びつけると「安定する」ということばになる。
「あの人たち」は「こころの動き」を「安定させたがっている」。「こころの動き」が「安定する」。そうすると、きっと「後悔」も「希望」も無関係になるんだろうなあ。
でも、そういうことを四方田は書きたいのではないような感じがする。
こうやって、ことばをあれこれ動かしていると、「直観の意見」が「それは、何か間違っている」と、これ以上書くことを、さえぎる。「何か、大事なものを見落としているぞ」と「直観」が言うのである。
一連目を読み返す。
そうすると、
どうして石を投げてくれないのですか
と、この一行だけ「疑問文」になっていることに気がつく。「か」の音が、胸にぐいと突き刺さってくる。
これは、いったい、何なのだろう。
ぐいと胸に刺さったのは何なのだろう、と思いながら、詩を読み進む。
そうすると、三連目で「石を投げる」という動詞が、疑問形ではなく「事実」として出てくる。「事実」の形で「反芻」されているのに出合う。
人は大事なことは繰り返す(反芻する)。きっと、ここに四方田の書きたかったことの「核心」がある、と「直観の意見」が言う。
どう書かれているか。
子供のときからずっと黙っていましたが
僕は (お母さん ごめんなさい)
ちゃんと知っているのです
あなたは僕のせいで 石を投げられた
ここから一連目へ引き返すと、お母さんが僕に石を投げないかぎり、こんどは再び、あの人たちがお母さんに石を投げることがわかる。そういうことは、すでにあったのだ。「僕のせいで石を投げられる」ということは、起きる。
それを「知っている」。
これだな、この詩のキーワードは。
「知っている」は「覚えている」でもある。過去に、そういうことがあった。それを「僕」は「覚えている/忘れられない」。「忘れられない」から、それはあるときは「後悔する」という形でよみがえることもあれば、「希望する」というこころの動きになるのだが……。
で、いちばん問題なのは。「知っている」がキーワードだ、と感じた理由……。
知っているのに、なぜ「どうして石を投げてくれないのですか」と「疑問形」にしたか、ということ。なぜ、質問したのか、ということ、これが問題なのだ。
「どうして石を投げてくれないのですか」は、文章の形は疑問形だが、疑問ではないのだ。「文法」では「疑問形」と呼ぶが、むしろ「確信」である。
「石を投げない」と「知っている/わかっている」。「知っている/わかっている」けれど、そういう形でことばを動かすしかないことが書かれているのだ。
最終連で、「疑問形」が再び出てくる。
どうして石を投げてくれないのですか
僕たちをこわごわ眺めている あの人たちを笑うことができるのは
お母さん あなただけなのです
あなたを押し留めているものは いったい何なのですか
「どうして石を投げてくれないのですか」は繰り返し。それがさらに「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という形で言い直される。
この「答え」も、「僕」は、ほんとうは「知っている/わかっている」。
そして、この詩を読む人もまた、きっと「知っている/わかっている」。「おかあさん」というのは、そういうものなのだ。それは「どうして石を投げてくれないのですか」「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という「問い」の形でしか言うことのできない「答え」なのだ。
そして、唐突に気づくのだが、ここで繰り返されている「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」、「あなたを押し留めているものは いったい何なのですか」という「問い」は、別の形で言い直すと「お母さんとは何ですか/お母さんとは何者ですか」ということである。「理由」など、ほんとうは問われていない。問われているのは「お母さん」という「生き方」そのものである。
「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」は、「お母さんとは何ですか/何者ですか」という「問い」にぶつかると、「石を投げないのがお母さんです」という「答え」になるはずだ。
この「答え」は「ことば」にはならない。「ことば」にならないのは、「ことば」にする必要がないくらい、はっきりと「知っている/わかっている」からである。つまり「確信している」からである。この「確信」はけっしてゆらがない。あるいは、「問う」ことで、その「問い」そのものが「確信」になるのだとも言えるかもしれない。
「問い(疑問/……か)」ではじまり、それを繰り返すことで終わる。その「繰り返し」のなかに「確信」がある。「お母さんは、そういう存在である」という「確信」がある。
こういう「感想」では抽象になってしまうが……。
一連目について最初に書いた「窺う」とか「安心(する)/後悔(する)/希望(する)」「待つ」というような「動詞(名詞)」のなかで、いつも「問い」が繰り返されているのだろう。つまり、「お母さん」とは「窺う」「安心する」「後悔する」「希望する」「待つ」という「動詞」で「僕/息子」には接しない「生き方」をする存在なのだ。そういうことがことばにならないまま、そこに書かれている。隠されている。
そういうことを浮かび上がらせるために、「どうして石を投げてくれないのですか」という「問い」と、二人を見つめる「あの人たち」の「動詞」が、そこに書かれているのだ。そこに書かれているのは、ある意味では、私たちがすでに知っている/わかっていることである。
しかし「わかっている/知っている」からといって、それがすでに「ことば」になっているわけではない。このことがいちばん大事なのだと思う。
四方田が「ことば」にすることによって、私たちは、はじめて、そういうことを「わかっている/知っている」と気づく。それは、四方田が「ことば」にすることによって「わかっている/知っている」こととして、そこに「あらわれてきた/生み出された」。四方田が「ことば」にするまでは、それは「ことば」ではなかった。四方田が「ことば」にしたから、「ことば」になった。つまり、「詩」になった、ということである。
「……か」と問うことが、「……である」という「答え」として反復される。その「問い」と「答え」の「同義反復」の間に、「知っている/わかっている」ことが「ことば」として書かれ、それが「詩」になる。そういう「ことばの運動」が、ここにある。
母の母、その彼方に | |
四方田 犬彦 | |
新潮社 |
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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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