詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沢田敏子『からだかなしむひと』

2016-03-03 09:43:04 | 詩集
沢田敏子『からだかなしむひと』(編集工房ノア、2016年03月01日発行)

 沢田敏子『からだかなしむひと』の「最終講義 二月のうた」の前半。

退任する教授の最後の講義を聴くために
小糠雨の降り出した路を歩いてきた
教授のゼミに 行き来した構内のその道を
ただ 好きだった
教授を敬愛していたように
--さて、とうとうこの日がきました。
教授がこう話し出すと
さっき通ってきたばかりの道の敷石に積もった
落ち葉のやわらかさがよぎった

 ふいにフィードバックする二行が美しい。「ほんとう」がそこにある。通ってきた道も落ち葉も教授の最終講義とは直接関係がないのだが、沢田には関係がある。その沢田に関係があるということがいいのだ。いま、こうして沢田が書かなければ、それは存在しないものなのだ。「落ち葉のやわらかさ」はほかの人には書けない。沢田が実感した「事実」だからである。「事実」はことばによって「真実」になる。その瞬間が、ここに書かれている。

 詩集のタイトルにもなっている「からだかなしむひと」も印象的だ。

痛い、とは言わず
哀しい、と言った

こころが哀しいのではなく
からだのそこが哀しい、のだと
遠い日の祖母は少女のわたしに
半裸の背中を向けて。
          (谷内注・「からだのそこ」の「そこ」には傍点がついている)

 「そこ」は「底」だろう。だが「からだの底」とはどこか。「こころの底」の場合、「こころ」そのものが「どこ」にあるかわからない抽象的なものだから「底」も抽象的になる。けれど「からだの底」になると「からだ」が具体的なだけに、気になる。まさか「足の裏」にいちばん近いところではないだろう。「足の裏」が立ったときにいちばん低い部分、底にあたるけれど。「底」は「からだの奥」という感じになるのか。ならない。
 後半に「どんな哀しみが祖母のからだの奥処を/通り抜けていったのかを知らない」という行がある。「からだのそこ(底)」は「からだの奥処」と言い直されている。「奥処」ならば、なんとなく「内臓」とか「背骨」とか、そういう「部位」を思い浮かべるが、やっぱりよくわからない。
 きっと「特定」せずに、「そこ」と思えばいいのだ。「底」ではなく「そこ」としか言いようのない、どこか、「奥」につながる「そこ」を。
 厳密に言おうとしても言えないことがある。
 「痛い」とは言わずに「哀しい」と言った。その「哀しい」もまた「特定」できないなにかである。一般的に「哀しい」は感情であって、それは「こころ」が感じるもの。「からだ」が感じるときは「痛い」がふつう。けれど、祖母はその「ふつう」をはねのけて「哀しい」と言った。それは、祖母が「からだのそこが哀しい」と言ったときにだけ、そこに「あらわれてくる」何かである。「ほんとう」である。「からだのそこ」といっしょになって、一回だけあらわれてくる「ほんとう」である。
 それは「最終講義」で沢田が思い出した「さっき通ってきたばかりの道の敷石に積もった/落ち葉のやわらかさ」と同じである。ほかの人には言えない「ほんとう」である。そのときだけ、そのことばといっしょに生まれ出てくる「真実」である。

 「からだのそこ」の「そこ」に似たことばが「葉書」のなかにも出てくる。

書き足りなかったのでも 書きすぎたのでもない
そうとしか
そのときには わたしに書けなかった

 この「そうとしか」は説明できない。「そうとしか」とは「どうとしかなのか」と問うても答えは「そうとしか」しか返って来ないだろう。それでいいのだ。「そうとしか」といえないあれこれがきっと誰にでもある。そういう「こと/もの」を自分で思い出すだけでいいのである。
 「からだのそこ」って、「どこ」?
 答えはない。「からだのそこ」は「そこ」なのだ。自分が感じる「そこ」。「からだのそこ」ということばにふれた瞬間、「肉体」の「どこか」が動く。反応する。それが「そこ」。「そこ」としか、言いようがない。
 そういう「そこ」としかいいようのないもの/ことのまわりを、ほかのことばがとてもていねいに動いている詩集だ。
 最後に「からだかなしむひと」の全行を引いておく。

痛い、とは言わず
哀しい、と言った

こころが哀しいのではなく
からだのそこが哀しい、のだと
遠い日の祖母は少女のわたしに
半裸の背中を向けて。

家族のなかのほかの誰に言うのでもなく
ただ 潮がざわつく前の少女のわたしに
老骨のからださらして
哀しい。
と言った

その向こうには彎曲の半島があり
海が眺(み)える

どんな痛みが祖母のこころの領分を
占めていたのかを知らないように
どんな哀しみが祖母のからだの奥処を
通り抜けていったのかを知らない
わたしだった

少女のわたしはいつでもかってくるけれど
祖母はわたしにはもうかえってこない
不覚だった

からだのそこが哀しい、と言って

彎曲した世界のそこが哀しい、と言って。


詩集 ねいろがひびく
沢田 敏子
砂子屋書房


*

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