監督 カルロス・ベルムト 出演 バルバラ・レニー、ルシア・ポシャン、ホセ・サクリスタン、ルイス・ベルメホ
奇妙な映画である。
少女が二人。ひとりは映画のなかでは少女時代は一瞬であり、おとなになっているのだが。そのふたりの少女にふりまわされるふたりの男。ふりまわされるといっても、男の方から勝手にふりまわされている。
と、書くと、少し違うかも。
娘が不治の病と知り、少女のために、少女の好きな日本のアニメのコスチュームを買おうとする失業教師が、もうひとりの主人公である女を脅迫する。女に誘われてセックスしたのだが、夫に知られたくなかったら金を出せ、という。アニメのコスチュームを買う金である。ここでは、男が女をふりまわしている。
けれど、その女は女で、もうひとりの男(小学生時代の、数学の教師)をつかって、失業教師を殺そうとする。
こんなストーリーは、しかし、書いてもしようがないかも。
奇妙なのは、こんなに「複雑」な話なのに、映像がとてもスタイリッシュ。色彩も、とても抑えてある。私は目が悪いので、映画を見ながら、一段と目が悪くなったのかと不安になったが、「情報」を極力抑えた映像を狙っているようだ。
印象的なのは、おとなの女が、鏡をつかって自分の顔に傷をつけるシーン。額を鏡に押し当てる。鏡が割れるまで押し当てる。その結果、血が流れる。とても痛いはずなのに、その痛みが隠されている。
この「痛みを隠している」というのが、この映画のテーマといえばテーマ。
不治の病の少女は自分で痛みを隠しているわけではないが、「痛み」は隠れている。その父親は、娘が死んでしまうという「痛み」を隠している。鏡で顔に傷をつける女は、どうも「被虐趣味」がある。それを隠している。数学の教師だった男は、少女への思いという「痛み」を抱えている。
で、隠されているもの、隠しているものって、見たいよねえ。
でも、この映画は、それを見せない。観客が見たいと思っているものを、ぜんぜん、見せない。
スケベ丸出しで言うと、たとえば失業教師と鏡の女がセックスをする。それは見せない。男が、ベッドからでて、ベッドの下に落ちているパンツを履くだけ。
女は金を稼ぐためにSM趣味の男の館へ出向く。どんなセックスが行われているのか、それを見せない。あとで女が裸になったとき、蚯蚓腫れのようなものが見えるだけである。それは、そのときできた傷なのか、ふるい傷なのかわからない。だから、ほんとうにSM行為があったかどうか、まあ、最初はわからない。さらに金を脅迫され、二度目に館へ行った帰りに、数学教師のアパートに倒れ込み、そのときの「肉体」の状態から、やっぱりSM趣味の、被虐者となることで金を稼いでいた、と想像できるだけである。
この映画では、殺人も行われる。数学教師は失業教師を銃で殺すし、それを目撃したバルのマスターと客も殺す。さらにはアニメ好きの少女も殺してしまう。これが、また、いまの映画とはぜんぜん違って、血が飛び散らない。額に穴が空いても、そこから血がたらりと流れるだけ。最小限だ。ただ銃声だけで表現されるときもある。
静かで、美しいのである。だれも取り乱さない。店内で銃が発射されたら、あるいは銃をつきつけられたら、だれでも驚いて逃げるが、殺されるひとはだれも逃げない。ただ、じっと相手を見つめる。真剣に、みつめる。恐怖が欠けているのか、恐怖をうわまわる何かが、それぞれのひとに内部にあるのか。
会話も同じである。常に何かを隠しつづけている。アニメ好きの少女の「不治の病」も、私は「不治の病」と書いたがほんとうかどうかは、よくわからない。廊下で父親と医師が話しているシーンがあるだけ。そこでは、何が語られたか、観客は知らない。鏡の女がSM館へ行くのも、そこで何が行われているかは語られない。「とかげ」の部屋が出てくるが、「とかげ」が何を意味するか、語られることはない。「真実」は、それぞれの「肉体」のなかに隠され、語られることはない。
そのSM館の主人が、少しだけ「意味」らしいことを言う。闘牛にかこつけて、スペイン人は理性と感情(激情)のせめぎ合いを闘牛に見る、というようなことを。他のヨーロッパ人は「理性」を優先する。アラブ人は「感情」を優先する。スペイン人は、その両方を闘わせる、というようなことを。
まあ、それを、この映画で実践しているということなのかも。スタイリッシュな映像と会話。その奥にある激情。それが闘っている。
闘った結果、どうなるか。鏡のシーンにもどる。顔に傷がつく。同時に鏡にも傷がつく。鏡が割れる。どちらかが無傷というわけではない。鏡は割れて、ジグソーパズルになる。このジグソーパズルは数学教師が楽しんでいるものである。ひとつひとつ理性で「予想図」の感性を目指すが、一個、ピースが足りない。
その一個は、理性? それとも感情?
答えは観客次第。監督は自分では答えを出さない。
そういうところは、なんとも「おしゃれ」である。スペインから、こんな抑制のきいたスタイリッシュな映画が生まれてくるとはびっくりである。アルモドバル監督を思い出すからそう感じるのかもしれないが、エリセ監督だって、感情を隠さない。むしろ、感情が動いた瞬間をくっきりと描きだす。「蜜蜂のささやき」の懐中時計のオルゴールがなるシーン、はっと顔をあげるアナに父親が気づき、「おまえか……(あるいは、おまえが……)」という顔をするところなんかね。
あ、脱線しすぎないように、ここで終わる。
(KBCシネマ2、2016年03月30日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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奇妙な映画である。
少女が二人。ひとりは映画のなかでは少女時代は一瞬であり、おとなになっているのだが。そのふたりの少女にふりまわされるふたりの男。ふりまわされるといっても、男の方から勝手にふりまわされている。
と、書くと、少し違うかも。
娘が不治の病と知り、少女のために、少女の好きな日本のアニメのコスチュームを買おうとする失業教師が、もうひとりの主人公である女を脅迫する。女に誘われてセックスしたのだが、夫に知られたくなかったら金を出せ、という。アニメのコスチュームを買う金である。ここでは、男が女をふりまわしている。
けれど、その女は女で、もうひとりの男(小学生時代の、数学の教師)をつかって、失業教師を殺そうとする。
こんなストーリーは、しかし、書いてもしようがないかも。
奇妙なのは、こんなに「複雑」な話なのに、映像がとてもスタイリッシュ。色彩も、とても抑えてある。私は目が悪いので、映画を見ながら、一段と目が悪くなったのかと不安になったが、「情報」を極力抑えた映像を狙っているようだ。
印象的なのは、おとなの女が、鏡をつかって自分の顔に傷をつけるシーン。額を鏡に押し当てる。鏡が割れるまで押し当てる。その結果、血が流れる。とても痛いはずなのに、その痛みが隠されている。
この「痛みを隠している」というのが、この映画のテーマといえばテーマ。
不治の病の少女は自分で痛みを隠しているわけではないが、「痛み」は隠れている。その父親は、娘が死んでしまうという「痛み」を隠している。鏡で顔に傷をつける女は、どうも「被虐趣味」がある。それを隠している。数学の教師だった男は、少女への思いという「痛み」を抱えている。
で、隠されているもの、隠しているものって、見たいよねえ。
でも、この映画は、それを見せない。観客が見たいと思っているものを、ぜんぜん、見せない。
スケベ丸出しで言うと、たとえば失業教師と鏡の女がセックスをする。それは見せない。男が、ベッドからでて、ベッドの下に落ちているパンツを履くだけ。
女は金を稼ぐためにSM趣味の男の館へ出向く。どんなセックスが行われているのか、それを見せない。あとで女が裸になったとき、蚯蚓腫れのようなものが見えるだけである。それは、そのときできた傷なのか、ふるい傷なのかわからない。だから、ほんとうにSM行為があったかどうか、まあ、最初はわからない。さらに金を脅迫され、二度目に館へ行った帰りに、数学教師のアパートに倒れ込み、そのときの「肉体」の状態から、やっぱりSM趣味の、被虐者となることで金を稼いでいた、と想像できるだけである。
この映画では、殺人も行われる。数学教師は失業教師を銃で殺すし、それを目撃したバルのマスターと客も殺す。さらにはアニメ好きの少女も殺してしまう。これが、また、いまの映画とはぜんぜん違って、血が飛び散らない。額に穴が空いても、そこから血がたらりと流れるだけ。最小限だ。ただ銃声だけで表現されるときもある。
静かで、美しいのである。だれも取り乱さない。店内で銃が発射されたら、あるいは銃をつきつけられたら、だれでも驚いて逃げるが、殺されるひとはだれも逃げない。ただ、じっと相手を見つめる。真剣に、みつめる。恐怖が欠けているのか、恐怖をうわまわる何かが、それぞれのひとに内部にあるのか。
会話も同じである。常に何かを隠しつづけている。アニメ好きの少女の「不治の病」も、私は「不治の病」と書いたがほんとうかどうかは、よくわからない。廊下で父親と医師が話しているシーンがあるだけ。そこでは、何が語られたか、観客は知らない。鏡の女がSM館へ行くのも、そこで何が行われているかは語られない。「とかげ」の部屋が出てくるが、「とかげ」が何を意味するか、語られることはない。「真実」は、それぞれの「肉体」のなかに隠され、語られることはない。
そのSM館の主人が、少しだけ「意味」らしいことを言う。闘牛にかこつけて、スペイン人は理性と感情(激情)のせめぎ合いを闘牛に見る、というようなことを。他のヨーロッパ人は「理性」を優先する。アラブ人は「感情」を優先する。スペイン人は、その両方を闘わせる、というようなことを。
まあ、それを、この映画で実践しているということなのかも。スタイリッシュな映像と会話。その奥にある激情。それが闘っている。
闘った結果、どうなるか。鏡のシーンにもどる。顔に傷がつく。同時に鏡にも傷がつく。鏡が割れる。どちらかが無傷というわけではない。鏡は割れて、ジグソーパズルになる。このジグソーパズルは数学教師が楽しんでいるものである。ひとつひとつ理性で「予想図」の感性を目指すが、一個、ピースが足りない。
その一個は、理性? それとも感情?
答えは観客次第。監督は自分では答えを出さない。
そういうところは、なんとも「おしゃれ」である。スペインから、こんな抑制のきいたスタイリッシュな映画が生まれてくるとはびっくりである。アルモドバル監督を思い出すからそう感じるのかもしれないが、エリセ監督だって、感情を隠さない。むしろ、感情が動いた瞬間をくっきりと描きだす。「蜜蜂のささやき」の懐中時計のオルゴールがなるシーン、はっと顔をあげるアナに父親が気づき、「おまえか……(あるいは、おまえが……)」という顔をするところなんかね。
あ、脱線しすぎないように、ここで終わる。
(KBCシネマ2、2016年03月30日)
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