詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「ウラン、人形峠」

2016-03-22 09:54:26 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「ウラン、人形峠」(「飛脚」14、2016年03月11日発行)

 石毛拓郎「ウラン、人形峠」には注釈がついている。私はめんどくさいので注釈などは読まない。注釈は活字が小さいのは嫌いだ。石毛の注釈は、活字が偏平になっているのでなおさら読みにくいから、絶対に読まない。
 つもりだったが、なぜか目に入ってきてしまった。「構成した」という文字が。で、その注釈を端折って引用すると、

ジャーナリスト土井淑平氏の『原子力マフィア』等の著述を、参考に構成した。

 この「構成した(構成する)」という「動詞」が、なかなか、おもしろい。
 きのう和田まさ子の作品に触れて、和田は「他人」に触れることで、自分のなかに見落としていたものを発見する。「他人」に誘われるままに、自分ではなく「なる」、何かになってしまうという「特技」がある、と書いた。
 石毛は、和田とはまったく逆だ。
 「他人」に触れる。そして「他人/自分とは違う人間」を発見すると、その「他人」のなかに、自分の肉体が押さえこんでいたもの、「うさんくさいもの」をぶちこんでしまう。さらに別の「他人」の肉体が抱え込んでいる直接的な生理さえも投げ込む。ある原子と別の原子を組み合わせて(構成して)、新しい「物質」をつくりだすように。それはもう「他人」であって「他人」ではない。見たこともない「新しいだれか」である。「新しい人間/そこにいるのだけれど隠れている人間」だ。
 で、この「自分のなかにあるもの/しかし自分では背負いこみたくないもの/うさんくさいもの」、あるいは「自分が背負いこんでいたかもしれないもの」を「他人」にまかせてしまい、「他人」を「社会」として「構成」しながら「現実」を描く。
 だから石毛の詩は「私詩」というか「抒情詩」というセンチメンタルなものにはなりえない。
 
 乱暴を承知で言えば、そういう感じ。

 そういう感じと書いてしまえば、それで「感想」は終りなのだが、あまりにもいいかげんに、急いだ文章だなあと思い、少し言い直してみる。
 人形峠(鳥取県)ではウランが取れる。(社会科の教科書に書いてあったし、テストには必ずその問題が出た。)ウラン鉱が何かよくわからないが、まあ、貴重なもの、大事なものである、というのが、そのころの社会の教科書を読む子供の「知識」である。これは、たいがいの、そのあたりの大人の「知識」とかわりがない。
 そこで、どういうことが起きるか。

だれが、触れ歩いたか?
「ウラン鉱泉」
霊験、あらたか!
効能、バッチリとは
まったく、どうかしている。
ウラン鉱石を、湯の花に……
袋に詰めて、観光みやげの名物に
拍手喝采!
村おこし。
鉱石のクズを、ビニール袋につめこんで
売り出そう。
まったく、どうかしている。
鉱石ひとかけら、風呂湯のなかへ
「病、ふっとぶウランちゃん」
どうだ、このキャッチフレーズ!
「厄災魔を払う、ウランちゃん」
どうだ、このフレーズは!

 「まったく、どうかしている。」というのは、「いま」から言えることであって、はじめて「ウラン鉱石」というものに出会ったときは、そんなことは言えないなあ。「ともかく貴重なものらしい」「貴重なら、きっとクズでも金になる」。そんなことを考えるのが人間である。
 「正しい知識」というのは、何が金になり、何が金にならないか。つまり、何が「生活」の役に立つか、何が役に立たないか。役に立てるためには、そこにあるものをどうすればいいか。そういうことを「つくり出していく」のが「正しい知識」である。

「病、ふっとぶウランちゃん」
どうだ、このキャッチフレーズ!
「厄災魔を払う、ウランちゃん」
どうだ、このフレーズは!

 これは、「正しい知識」なのである。「科学的」には間違っている、危険な知識であるが、「生活的」には「正しい」を通り越して、「それしかない」絶対的な知識である。「欲望の知識/本能の知識」と言ってもいいかもしれない。
 こういうものは、人間ならだれでも持っている。
 石毛は、「他人」を見つけると、「他人」に自分の「過去の間違い」を押しつけ、どうしようもなさを「客観化」する。自分も昔はウラン鉱石が危険なものとは知らなかった。原子力(放射能)がどれくらい危険なものか知らなかった、と書いても、それは何だか味気ない。いきいきとしない。間違っているときの方が、変な言い方だがいきいきしている。
 で、こういうことを書いて、どうなるのか。
 論理的に説明するのはむずかしいが、「感覚の意見」として書いておけば、「いきいきした間違い」の方が、「間違い」がくっきり見える。「間違い」を否定するには、それを「鎮静化した間違い/整理された間違い」ではなく、増殖していく力をもった間違いとして描きださないと効果がないのだ。
 「暮らしの知識」は往々にして「無知の知識」である。その「無知」を批判するには、「整理された無知」ではなく、「未整理の無知/無秩序の無知」としていきいきと動かさないかぎり、「危険」が浮かび上がらないのだ。「危険」が「生理反応」としてひびいてこないかぎり、ひとは危険に気がつかない。批判は「論理」だけでは力にならない。「生理反応」にならないと力にならない。
 そういう「生理反応」としての「批判」を育てるためには、「未整理の無知/無秩序の無知/無知な生理反応」のレベルで向き合う必要があるのだ。「危険」を「生理反応」にまで近づけなければ、批判は力にならない。
 「うさんくささ」がもっている「いきいき」をさらに「いきいき」させるために、石毛は「他人」を「構成する」。「隠れている人間」を浮かび上がらせる。これは「現実」を「うさんくささ/生理のレベル」で再現することと言い直していいかもしれない。自分の持っている「うさんくささ」を武器にして、その「うさんくささ」を批判させることによって、「権力の論理」を「うさんくささ」のレベルにひきおろし、それを不意打ちするようにたたきはじめる作戦と言えるかもしれない。

 ここで、とんでもない「飛躍」をすれば……。

 東京電力福島第一原発の事故があり、その問題が何一つ解決しないのに、原発が再稼働しはじめている。良識あるひとが、その危険性を指摘している。しかし、それは「論理的」すぎて、力にならない。「いきいき」した感じが欠けている。だから、おもしろくない。「批判/他人への攻撃」というのは、鬱憤晴らしとしてとてもおもしろいものであるはずなのに、「いきいき」がないと、おもしろくない。理屈をこえて、「生理的」に「こっちがいい」という判断につながらない。
 国が(安倍が)安全だと言っている。国の検査機関が「安全」を「論理的に証明している」という「論理」の前で、いま流通している批判は半分「無力化」している。
 「論理」なんて、どうにでもなる。「論理」はいつでも「自己完結」する。「危険だ」という「論理」は「危険」というなかで「自己完結」し、「安全」という「論理」は「安全」のなかで「自己完結」する。
 それは矛盾するにもかかわらず、衝突しない。ぶつかりあわない。離れて、並列して存在してしまう。
 「安全」という「論理」には、経済活動のためには電力がいる、という論理がぶら下がり、豊かな暮らしをするためには経済活動を優先しなければならないという論理がぶら下がり、ぶら下がりながら、「安全」を補強する。
 「頭の論理」に対して「頭の論理」で闘うのは大切なことだが、同時に「頭の論理」に対して「生理の論理」で闘うことも必要なのだ。「安全」と主張する「論理」を「生理のレベル」にまでひきおろし、「生理」と「生理」をぶつけあわないと、状況は「権力の論理」に押し切られてしまう。
 押し切られないようにするためには、「無知の力/生理の力/本能の力」を引き出さなければならない。「無知のなまなましさ」をさらけだし、それの「なまなましい」という場へ「権力の論理」をひきおろさなければならない。「権力(安倍)なんて、結局、自分さえ金がもうかれば他人なんかどうだっていいと思って原発を動かしている」という「なまの感じ/自己本位の欲望」にまでひきおろして、そこから反撃するしかない。「安倍がやっていることは、ウラン鉱石の危険性を知らずにおみやげをつくろうとした人間のやっていることと、同じ」ということを、「生理的」に感じさせ、それとぶつかりあわないといけない。
 しかし、そういうことはむずかしい。
 だから、開き直って、「暮らしの無知」をさらけだし、この無知に対して「権力の論理」はどう修正を施すことができるか、それを問いかける必要がある。
 ウラン鉱石の残土さえ危険なら、それをおみやげにできないくらい危険なら、どうして原子力発電が安全だといえるのか、そういう「ばかげた」質問から生まれてる「答え」もあるはずだ。「生理の正しい力」が何かを引き出すだろう。

 どうも、ごちゃごちゃするばかりで、うまくことばが動かない。
 また、「感覚の意見」で「飛躍」してしまおう。
 石毛は、書くこと(見聞きしたことばを「構成すること」)で、現実との向き合い方をととのえている。どこに現実と向き合える「場」があるか探している。その場がどういうものかわからないが、「論理」を「生理」にひきおろした場というのが、石毛のめざしている場なのだと思う。
 石毛の「他人」の書き方をみると、「まったく、どうかしている」と言いながらも、その「どうかしている」もののなかに動いている「力」に寄り添っている感じがする。「どうかしている」から否定するというのではなく、「どうかしている」からととのえなおせないかと、そこへ近付いていく感じがする。「生理」を信じる力を感じる。「まったく、どうかしている」ということばには、俗なことばで言えば(うさんくさいことばで言えば)、「愛」がある。

石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社

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