詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(2)

2016-03-06 09:34:00 | 詩集
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(2)(現代詩文庫206 、2014年08月25日発行)

 「残像」という作品。

不眠症の男の
墓を掘りましょう
なるべく深く
私だけの為に
あなたの
声が笑っているから
とても痛い
傷つけるのが怖いんじゃなくて
きっと
傷つくのが怖いだけ
唄っている姿が
眼にやきついて
離れない
もっと笑って
私を痛くして
そして
優しく逝かせるまで
待ってて
もっと笑って
あなたの
唄っている姿が
目にやきついて
離れやしない
不眠症の男の
墓を掘りましょう
なるべく深く
誰の眼にも
さらされぬように

 この詩にも複数の人間(人称)が出てくる。「不眠症の男」「私」「あなた」。「不眠症の男」は「あなた」と言い換えられているように思える。そして、私には、それがまた「私」であるようにも感じられる。「私(三角)」が「三角のなかの誰か」を「不眠症の男/あなた」と呼んでいるように思える。
 なぜ、そう感じてしまうのか。
 五行目の「私だけの為に」が、そう思わせるのである。「不眠症の男のため」でも「あなた」のためでもなく「私だけの為に」。「だけ」が強く迫ってくる。(「私だけの為に」は次の「笑っている」につづいているとも読むことができるが、いまは「墓を掘る」という動詞につづけて読んでおく。)
 もし「不眠症の男/あなた」が「他人」であるなら、「私だけの為に」、その「男の墓を掘る」というのは「矛盾」するように、私には感じられる。
 「墓を掘る」とは、「死ぬ」こととつながっている。ただ「死ぬ」ではなく、「死を弔う」ということが「墓を掘る」だと思う。それは、他人のためにする行為である。それが「私だけの為に」とは、どういうことか。「死んだ人」を「安心させる」ことよりも、は生きている「私」が「安心する」ためということになる。より安心するために「深く」掘る。
 しかし、自分が安心するために、自分を葬る墓を掘るとはどういうことか。ちょっと、わからない。いや、「肉体」の奥で、ことばにできないままなにごとかを「わかる」のだが、それはうまくことばにならない。説明できる「論理」にならない。
 わからないことはわからないままにして、言い直せないことは言い直せないままにして、ほかのことを考えてみる。
 「あなたの/声が笑っているから/とても痛い」の「痛い/痛む」は「誰」が「痛い/痛む」のか。この行は「もっと笑って/私を痛くして」という形で繰り返されているから、「痛い/痛む」のは「私」だ。「不眠症の男/あなた」ではない。(この部分では先に読んだ「私だけの為に」を、「私だけの為に/もっと笑って」、そして「私を痛くして」と読み替えてみるのがいいのだろう。「ことば/行」をどの「ことば/行」と結びついているかは、その瞬間瞬間、読み替えていく必要があるのだろう。詩は「論理」ではないから、厳密に「ことば」と「ことば」の関係を追いかけて、決定しながら読むのではなく、一度できあがった関係を瞬間瞬間に組み立てなおして読むことがもとめられると思う。)
 でも「声が笑っている/笑う」が「痛い/痛む」とはどういうことか。
 「痛い/痛む」を三角は、「傷つけるのが怖いんじゃなくて/きっと/傷つくのが怖いだけ」と言い直している。「痛い/痛む」は「傷/傷つける/傷つく」である。「傷つく」のが怖くて「笑っている」。「笑わない」と「傷つく」。そこには何かしらの「無理」がある。そういう「無利」が「不眠症」につながるのだろう。
 「傷つきたくない」という一心で、無理をして「笑う」。そのことが、逆に「笑っている」本人(私)を傷つける。「無理」によって「私」が傷つき、その「傷」が「不眠症」ということになる。「傷」は「不眠症」とも重なるので、それは「肉体的な傷」というよりも「精神的な傷」と言えるだろう。
 「笑っている」は「唄っている」とも言い換えられている。傷つくのが怖くて、笑っている。笑うように、唄っている。その姿が「眼にやきついて/離れない」。この「離れない」は「接続」か。「接続」は「接触」であり、「接触」は「傷つける」につながる。「接触」することによって「傷」は発生する。
 しかし、それ以上だろう。
 「離れない」は「接触/接続」を通り越して「一体」になることである。
 「笑う」ことによって「傷つく」ことを避けようとして、逆に「傷つけてしまう」。自分を「傷つけまい」として逆に「傷つけてしまう」。
 これは「不眠症の男/あなた」と「私」が「一体」だから、「離れない」存在だから、必然的にそうなってしまうのである。

 ここには、どうすることもできない「矛盾」がある。あるいは強固すぎる結晶か。強固すぎる結晶をくぐるとことばがプリズムを潜り抜ける光のように屈折し、いくつもの色に分かれるのに似ているかもしれない。

 「墓を掘りましょう」は「優しく逝かせるまで」と言い直されている。「逝くかせる」は「私を逝かせる」だろう。「傷つける」のではなく「傷つく」のでもなく、ほんとうは「やさしく」「逝く(死ぬ)/全体的な傷そのものになる」のが理想である。こんなに苦しいのなら、「絶対的な傷」そのものになってしまいたい、という欲望(本能/思想)が動いている。
 「とても痛い」のに「もっと(笑って)/私を痛くして」と言いながら、他方で「優しく逝かせるまで」という。「痛み」こそが「優しい」何かとなって「私」に響いてくるのだ。「痛み」と「優しい」は本来は逆の概念だが、三角には「一体」のものである。
 最後の「誰の眼にも/さらされぬように」は、「痛み=優しい」と感じていることを「秘密」にしたいという三角の気持ちかもしれない。「墓を掘る」のは「死体」を隠すことでもある。
 そして、その「死体」とは「笑っている私」(無理をしている私)であり、「不眠症の男」でもある。「無理をして笑っている私」を「あなた」と「客観化」し、さらに第三社風に「不眠症の男」と呼ぶしか、自分を「守る」方法がない。
 そういう「苦しさ」のなかで、三角はことばを動かしている。
 「不眠症の男」を書くとき、三角は「不眠症の男」ではない。けれど、それは「残像」として、いまも三角から「離れない」。それとあらがいながら、ことばを動かしているのだろう。



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