詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中郁子「雨の影」

2016-03-16 08:33:09 | 詩(雑誌・同人誌)
田中郁子「雨の影」(「緑」35、2016年02月15日発行)

 田中郁子「雨の影」の書き出し。

部屋の暗さからのがれて外へ向かった
それは自分の暗さからのがれることであった
雨足がはげしく路上をたたいてはねかえっていた
誰だろうこんな日に
ためらうことなく水を踏んで歩かせていくものは

 ここで、私は立ち止まった。
 「歩かせていく」をどう読むか。
 「歩いていく」ではなく「歩かせていく」。
 ぼんやり読むと、「自分」(田中)は、部屋から外へ出た。外ははげしい雨。誰かが歩いている。その「誰か」を見て、こんなはげしい雨の日に「歩いていくのは誰だろう」と思った、という意味になるかもしれない。
 しかし、違うだろう。
 「部屋の暗さからのがれて」を「自分の暗さからのがれる」と言い直している。そこに誰かがいるとしても、田中はその誰かを気にしていない。「自分」だけをしっかりと見つめている。
 一行目と二行目は、ことばを入れ替えて、

自分の暗さからのがれて外へ向かった
それは部屋の暗さからのがれることであった

 と言っても、たぶん、同じなのだ。「部屋」は「自分」の「比喩」である。「自分の暗さ」は「部屋の暗さ」と同格である。「自分の暗さ」がなければ、「のがれる」という「動詞」も動かなかったはずだ。
 「自分」というもののなかに「暗さ」がある。その「暗さ」は「自分」からはみだして「部屋」に満ちている。「自分の内部」と「部屋の内部(室内)」が「等価/比喩」になり、入れ替わっている。そこから「のがれる」。
 このとき田中には「のがれる自分」とは別に「自分を描写する自分」がいる。どこかに「自分」を「客観視」する人間がいることになる。
 さらには「のがれる自分」のほかに「のがれる」ことを「勧める自分」というものがいるかもしれない。さらには「のがれさせる」という具合に田中に「強いる/強制する自分」がいるかもしれない。
 「自分」が「ふたり」、あるいは「三人」いるなら、何人いてもいいだろう。
 その「何人目かの自分」が、田中を、

ためらうことなく水を踏んで歩かせていく

 のである。
 「ためらう自分」がどこかにいる。はげしい雨だから。しかし、その「ためらう」という「動詞」を否定して、「歩かせていく誰か」がいる。そこには田中しかいないのだから、それは田中でしかない。
 この「歩かせていく田中」は「暗さに気づいた田中」である。「暗さに気づいた田中」は、

自分の暗さからのがれる/のがれて外へ向かった

 のだけれど、これは

自分のくらさからのがれさせる/のがれて外へ向かわかせた

 でもある。
 「のがれる」「外に向かう」は「自発」の行為であると同時に、「のがれさせる」「外に向かわせる」という「使役」の行為でもある。
 「のがれる/外へ向かう」も「意思」だろうが、「のがれさせる/外に向かわせる」という「使役」の方が「意思」を強調しているように思える。
 ここでは「意思」が動いている。その「意思の動き」の「強さ」が「歩かせていく」という「動詞」にこもっている。

 このあと、田中は石材店のガラス越しに店員(老人)と会釈を交わす。そのあと、

すると傘をもった路上のわたしが
同時にわたしに会釈している

 これは店のなかが暗いためにガラスが鏡になり、その鏡に「会釈するわたし」が映っているので、「わたしが/わたしに会釈する」という形になっている。
 これは偶然起きたできごとのようにもみえるが、最初から、そうなるようにことばは動いているだ。
 「暗さ」に映った「わたし」を、田中は最初から見つめている。「暗さ」が背後(奥)にあって、はじめてみえてくる「わたし」。それは「暗さ」に比べると「明るい」が、それは「見かけ」にすぎないだろう。

あいまいな苦痛をかくした貌だった
光と闇はわたしの生存にも
ほんとうの貌を与える時があるだろうか
わたしは外へ向かったのだが
傘をもったまま闇の奥に立っている
一刻もはやくその影からのがれて
外に向かわなければならない気がした

 「傘をもったまま闇の奥に立っている」はガラスに映った「わたし」。それは「物理的」にはガラスの表面に存在している「影」なのだが、「わたし」にはガラスの向こう側、部屋のなかにいるように見える。「像/イメージ」なのだが、「実在」のように見える。
 これは、いわば書き出しの反復。
 「暗さからのがれて」は「影からのがれて」と言い直されている。「影/イメージ」には「暗さ」がつきまとう。その「暗さ」を自分を限定する「枠」ととらえなおし、その「枠」を突き破って「外」へ行こうとしている。
 「影/イメージ」を「自分の内部(の問題)」と把握し、「外部」ヘ向かおうとしている。

 とは言っても。
 ほんとうに「外部」に向かう、自己の「枠」を破壊することを田中が願ってるかどうかは、わからない。
 むしろ、そういう「内/外」という構造のなかに生きている自分を発見したということが書かれているのだと思う。
 「歩かせていくもの」という「動詞」のなかにある「強い意思」の確認が、この詩のことばを動かしているように思える。

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