三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(現代詩文庫206 、2014年08月25日発行)
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』をふたたび開いた。いま、私は体調が悪いのだが、こういう体調が悪いときに、ふいに聞こえる呼び声があって、また手にしたのだった。
巻頭の「私を底辺として。」という作品。
「私」と「幾人ものおんな」が登場する。これは別人だろうか。私は「ひとり」と思って読んだ。「通過していく」の「主語」は「おんな」だろう。「底辺」、つまり「底」を踏みながら、「私」を踏みながら「おんな」が通過していく。「立ち止まる」も「主語」は「おんな」だろう。「底辺」である「私」は動かない。
その次の「歪んでいく」の「主語」は文法的には「輪郭」だが、だれの「輪郭」か。「おんな」か。「おんなの輪郭」が歪んでいく、と読むのが普通かもしれない。しかし「私の輪郭」と読むこともできるだろう。
五行目の「腐敗していく」は「主語」がはっきりと「私」と書かれている。
「歪んでいく」という「動詞」を通ることで、「おんな」と「私」が入れ替わった感じがする。たぶん、入れ替わりというよりも、重なり区別がなくなった、ということかもしれない。
この入り交じった感じから、最初にもどって読み返す。
「私を底辺として。」の「して」という「動詞」は何だろう。「する」が「原形(不定形)」か。「主語」は何か。「私を底辺として/幾人ものおんなが通過していく。」と読むと、「幾人ものおんなが」「私を底辺として」(私を踏みながら、私の上を)通過していく」という「意味」が浮かび上がる。倒置法の文章のように読むことができる。そのとき「おんなが私を底辺にする」ことになるのだが、その「おんな」と「私」の関係は? また、なぜ「おんな」なのだろう。「おとこ」ではないのだろう。あるいは、なぜ「通過していく」ものが「おんな」であると「私」にはわかったのか。
私には、「私」と「おんな」は同じ人間のように思えてしまう。「私」のなかに「おんな」として自覚されるものが「私」の上を通過していく。そして「立ち止まる」。「同一人物」だからこそ、それがわかる。
「私」と「おんな」は同じ人間なのに、「私」と呼ばれ、「おんな」と呼ばれる。ふたつに分かれている。分かれているけれど「底辺」でつながっている。「底辺」なしには存在しえないのが「おんな」である。この分裂と接続の不思議な関係を、「輪郭が歪む」ということばでとらえているように思う。「私」と「おんな」を別の人間として、それぞれに明確な「輪郭」で描かない。「輪郭」を描こうとすると、どうしても不自然になる。「歪む」。
この「歪む」を三角はさらに「腐敗していく」と言い直している。ほんとうは「明確」な「輪郭」をもとめる気持ちがどこかにある。その「明確」をもとめる気持ちが「歪み」を気づかせ、その「歪み」をさらに「腐敗」と感じさせる。
この一連の「動詞」の動きのなかに、もうひとつ見逃してならない「動詞」があると私は感じる。「通過していく」「歪んでいく」「腐敗していく」はそれぞれ「通過する+いく」「歪む+いく」「腐敗する+いく」である。動いている。「立ち止まることもある」のだが、それは「いく」という「動詞」がつねに意識されているからこそ「立ち止まる」が浮かびあがるということだろう。変化しているのである。
「私」と「おんな」は、三角の「肉体」のなかで「ひとつ」に固定化されていない、変化しつづけている。その「変化」を書こうとしているのだと私は思う。
最初に引用した「私は腐敗していく。」の直後に「腐敗」とは正反対(?)の「きれいな空」が登場する。これは「腐敗」ということばが呼び出した「イメージ」だろう。
もし、ここに「私を底辺として。」という一行を補うとどうなるのだろう。
「私=底辺」の「上」に「空」がある。「空」そのものは動かないが、空にある「雲」はどうだろうか。動かないだろうか。動いていく。言い換えると「通過していく」。そう考えると、最初に「おんな」と書かれていたものは、ここでは「空/雲」と言い直されていることになる。三角は、最初の五行をここで言い直しているのである。
「おんな」は「涙」と言い直されている。「涙」は水分なので、蒸発し、空では「雲」になる。「雲」が集まれば「雨」になる。現代の「雨」は「酸性雨」である。「酸性雨」はものを溶かす。ものを溶かし、ものの「輪郭」を溶かす。つまり「輪郭」を「歪める」。
この「輪郭を歪められる/輪郭を溶かされる」というときの「対象」が「我々」と呼ばれるのは、「私」と「おんな」が「おなじもの」だからである。「おんな」を溶かすだけではなく、「私」を溶かすだけでもない。「おんな」と「私」を「輪郭(区別)」がなくなるまで「溶かす/歪める」のである。
最初の部分には「いく」という動詞が他の動詞と重なりながら動いていたが、この部分では「いく」のかわりに「成る」が動いている。変化をあらわしている。変化をあらわしているが、その変化には「首尾一貫」したものがある。「輪郭を歪める/溶かす」。そして「腐敗する」という変わらない動きがある。
「おんな」は「君」にかわっている。「酸性雨=涙」に溶かされ「おんな/私」の区別をなくしてしまった存在が「君」である。「君」もまた「私」なのだが、「おんな」と書かれていたときよりも強く「おんな」が意識されているかもしれない。書かないことば(書かれないことば)の方が「肉体」にしみついて思想になっている。
「腐敗」は「堆肥」と言い換えられ、そう言い換えられた瞬間から、たとえば植物を「育てる」という肯定的なものが動くのだが、実際に、「育っていく」「太陽に手を伸ばす」という肯定的なことばも書かれるのだが、それを三角はもう一度「崩れる」ということばにしてしまう。「崩れる」は「腐敗する」に通じる。
哀しい、苦しい「おんな」としての体験(涙)を「堆肥」にして育っていくという言い方は「定型」のひとつだが、三角は、どうしてもその「定型」にはまりきれない。そういう「定型」があると知っているが(聞いているが)、そんな具合にはなれない。「いく」「なる」という「動詞」が詩のなかで動いているが、三角は「到達点」へは行けない、「実」にはなれない。逆に「崩れる/腐敗する」という方向へ逆戻りする。ただし、ただ逆戻りし、ほんとうに「腐敗する/崩れる」のかというと、そうでもない。
では、それを何と言うのか。
「立ち止まる」のである。「止まる」のである。「いく」「なる」をきわだたせるために書かれているという印象を与えてしまう一行だが、ほんとうは、ここに三角の思想(肉体)がある。この一行がなくても、「私」のなかの「おんな」が「私」を通過していく(いろいろなおんなの体験をしていく)、涙を流し、苦しみ、哀しみ、「自分」という「輪郭」をうしなうくらいにぼろぼろになる。腐敗する。腐敗しながら、そこからまた「明るく」生きようとして、また挫折する、という「おんなの人生」の「ストーリー」にかわりがあるわけではない。「立ち止まる」という「動詞」がない方が、「ストーリー」の悲劇性は強調されるかもしれない。その一行はなくてもいい。
けれども、三角は、書かずにはいられない。無意識に書いてしまう。なぜか。「立ち止まる」ことこそが「詩」を書くことだからだ。「ストーリー」に流されるのではなく、「ストーリー」を止める。それが三角の詩なのである。
どこで、どんなふうに立ち止まったか。そのとき、三角に世界はどう見えたか。そういうことを三角は書いているのだと、あらためて思った。
*
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三角みづ紀『三角みづ紀詩集』をふたたび開いた。いま、私は体調が悪いのだが、こういう体調が悪いときに、ふいに聞こえる呼び声があって、また手にしたのだった。
巻頭の「私を底辺として。」という作品。
私を底辺として。
幾人ものおんなが通過していく
たまに立ち止まることもある
輪郭が歪んでいく、
私は腐敗していく。
「私」と「幾人ものおんな」が登場する。これは別人だろうか。私は「ひとり」と思って読んだ。「通過していく」の「主語」は「おんな」だろう。「底辺」、つまり「底」を踏みながら、「私」を踏みながら「おんな」が通過していく。「立ち止まる」も「主語」は「おんな」だろう。「底辺」である「私」は動かない。
その次の「歪んでいく」の「主語」は文法的には「輪郭」だが、だれの「輪郭」か。「おんな」か。「おんなの輪郭」が歪んでいく、と読むのが普通かもしれない。しかし「私の輪郭」と読むこともできるだろう。
五行目の「腐敗していく」は「主語」がはっきりと「私」と書かれている。
「歪んでいく」という「動詞」を通ることで、「おんな」と「私」が入れ替わった感じがする。たぶん、入れ替わりというよりも、重なり区別がなくなった、ということかもしれない。
この入り交じった感じから、最初にもどって読み返す。
「私を底辺として。」の「して」という「動詞」は何だろう。「する」が「原形(不定形)」か。「主語」は何か。「私を底辺として/幾人ものおんなが通過していく。」と読むと、「幾人ものおんなが」「私を底辺として」(私を踏みながら、私の上を)通過していく」という「意味」が浮かび上がる。倒置法の文章のように読むことができる。そのとき「おんなが私を底辺にする」ことになるのだが、その「おんな」と「私」の関係は? また、なぜ「おんな」なのだろう。「おとこ」ではないのだろう。あるいは、なぜ「通過していく」ものが「おんな」であると「私」にはわかったのか。
私には、「私」と「おんな」は同じ人間のように思えてしまう。「私」のなかに「おんな」として自覚されるものが「私」の上を通過していく。そして「立ち止まる」。「同一人物」だからこそ、それがわかる。
「私」と「おんな」は同じ人間なのに、「私」と呼ばれ、「おんな」と呼ばれる。ふたつに分かれている。分かれているけれど「底辺」でつながっている。「底辺」なしには存在しえないのが「おんな」である。この分裂と接続の不思議な関係を、「輪郭が歪む」ということばでとらえているように思う。「私」と「おんな」を別の人間として、それぞれに明確な「輪郭」で描かない。「輪郭」を描こうとすると、どうしても不自然になる。「歪む」。
この「歪む」を三角はさらに「腐敗していく」と言い直している。ほんとうは「明確」な「輪郭」をもとめる気持ちがどこかにある。その「明確」をもとめる気持ちが「歪み」を気づかせ、その「歪み」をさらに「腐敗」と感じさせる。
この一連の「動詞」の動きのなかに、もうひとつ見逃してならない「動詞」があると私は感じる。「通過していく」「歪んでいく」「腐敗していく」はそれぞれ「通過する+いく」「歪む+いく」「腐敗する+いく」である。動いている。「立ち止まることもある」のだが、それは「いく」という「動詞」がつねに意識されているからこそ「立ち止まる」が浮かびあがるということだろう。変化しているのである。
「私」と「おんな」は、三角の「肉体」のなかで「ひとつ」に固定化されていない、変化しつづけている。その「変化」を書こうとしているのだと私は思う。
きれいな空だ
見たこともない青空だ
涙は蒸発し、
雲に成り
我々を溶かす酸性雨と成る
はじまりから終わりまで
首尾一貫している
私は腐敗していく。
最初に引用した「私は腐敗していく。」の直後に「腐敗」とは正反対(?)の「きれいな空」が登場する。これは「腐敗」ということばが呼び出した「イメージ」だろう。
もし、ここに「私を底辺として。」という一行を補うとどうなるのだろう。
「私=底辺」の「上」に「空」がある。「空」そのものは動かないが、空にある「雲」はどうだろうか。動かないだろうか。動いていく。言い換えると「通過していく」。そう考えると、最初に「おんな」と書かれていたものは、ここでは「空/雲」と言い直されていることになる。三角は、最初の五行をここで言い直しているのである。
「おんな」は「涙」と言い直されている。「涙」は水分なので、蒸発し、空では「雲」になる。「雲」が集まれば「雨」になる。現代の「雨」は「酸性雨」である。「酸性雨」はものを溶かす。ものを溶かし、ものの「輪郭」を溶かす。つまり「輪郭」を「歪める」。
この「輪郭を歪められる/輪郭を溶かされる」というときの「対象」が「我々」と呼ばれるのは、「私」と「おんな」が「おなじもの」だからである。「おんな」を溶かすだけではなく、「私」を溶かすだけでもない。「おんな」と「私」を「輪郭(区別)」がなくなるまで「溶かす/歪める」のである。
最初の部分には「いく」という動詞が他の動詞と重なりながら動いていたが、この部分では「いく」のかわりに「成る」が動いている。変化をあらわしている。変化をあらわしているが、その変化には「首尾一貫」したものがある。「輪郭を歪める/溶かす」。そして「腐敗する」という変わらない動きがある。
どろどろになる
悪臭漂い
君の堆肥となる
君は私を底辺として。
育っていく
そっと太陽に手を伸ばす
腕、崩れる
「おんな」は「君」にかわっている。「酸性雨=涙」に溶かされ「おんな/私」の区別をなくしてしまった存在が「君」である。「君」もまた「私」なのだが、「おんな」と書かれていたときよりも強く「おんな」が意識されているかもしれない。書かないことば(書かれないことば)の方が「肉体」にしみついて思想になっている。
「腐敗」は「堆肥」と言い換えられ、そう言い換えられた瞬間から、たとえば植物を「育てる」という肯定的なものが動くのだが、実際に、「育っていく」「太陽に手を伸ばす」という肯定的なことばも書かれるのだが、それを三角はもう一度「崩れる」ということばにしてしまう。「崩れる」は「腐敗する」に通じる。
哀しい、苦しい「おんな」としての体験(涙)を「堆肥」にして育っていくという言い方は「定型」のひとつだが、三角は、どうしてもその「定型」にはまりきれない。そういう「定型」があると知っているが(聞いているが)、そんな具合にはなれない。「いく」「なる」という「動詞」が詩のなかで動いているが、三角は「到達点」へは行けない、「実」にはなれない。逆に「崩れる/腐敗する」という方向へ逆戻りする。ただし、ただ逆戻りし、ほんとうに「腐敗する/崩れる」のかというと、そうでもない。
では、それを何と言うのか。
たまに立ち止まることもある
「立ち止まる」のである。「止まる」のである。「いく」「なる」をきわだたせるために書かれているという印象を与えてしまう一行だが、ほんとうは、ここに三角の思想(肉体)がある。この一行がなくても、「私」のなかの「おんな」が「私」を通過していく(いろいろなおんなの体験をしていく)、涙を流し、苦しみ、哀しみ、「自分」という「輪郭」をうしなうくらいにぼろぼろになる。腐敗する。腐敗しながら、そこからまた「明るく」生きようとして、また挫折する、という「おんなの人生」の「ストーリー」にかわりがあるわけではない。「立ち止まる」という「動詞」がない方が、「ストーリー」の悲劇性は強調されるかもしれない。その一行はなくてもいい。
けれども、三角は、書かずにはいられない。無意識に書いてしまう。なぜか。「立ち止まる」ことこそが「詩」を書くことだからだ。「ストーリー」に流されるのではなく、「ストーリー」を止める。それが三角の詩なのである。
どこで、どんなふうに立ち止まったか。そのとき、三角に世界はどう見えたか。そういうことを三角は書いているのだと、あらためて思った。
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