詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤久也「ゴムの木」、小川三郎「噴水」

2016-03-11 11:51:40 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「ゴムの木」、小川三郎「噴水」(「ぶーわー」36、2016年03月10日発行)

 詩は、よくわからない。「わかった」つもりのことを自分のことばでは言い直せない。まあ、自分のことばでは言い直せないから、そこに書かれていることばをそのまま丸飲みにするしかないから、それを「詩」と呼ぶのかもしれないけれど。

 近藤久也「ゴムの木」は「なんにもしない」詩。

窓辺に
ゴムの木
毎日ながめてる
幹には触れない
葉にも触れない
水もあげない
ながめてる

おんなが
葉っぱのぶつぶつ、病気だから
とってあげなよって
黙ってきいていると
みここともない馬来(マレー)のおんなが
目のまえに
嫋嫋(しなしな)やってきて
幹に小刀
傷つけた
どこかへ運ばれていく白い器の樹液

いやだなあ役に立つのは
(終わりの時に焼かれてしまったゴムの匂い)
窓の日に向かってのびる枝葉
意志のように尖った芽
(いやだなあ)

なんにもしないで
来る日を
ながめてる
窓辺の
ゴムの木

 「どこかへ……」と「いやだなあ……」の間は、一行空きかどうかよくわからないのだが、四連構成と思って引用した。(「ぶーわー」では上段から下段へと行が動いている。)
 私がいいなあ、と感じるのは、その三連目。
 「いやだなあ役に立つのは」というのは、まあ、自堕落な人間が考えることであって、建設的な人は「役に立つのはいいことだ。うれしいなあ役に立つのは」と考えるのかもしれないが、「いやだなあ」の方が、いまの私にはぴったり来る。
 ただ何もしたくないだけのことなのかもしれないけれど。
 そういうことは、脇に置いておいて……。

 この三連目、ちょっと変だよねえ。
 最初の「いやだなあ役に立つのは」というのは近藤の思い。
 では、最終行の(いやだなあ)は何?
 やっぱり近藤の思い?
 かっこ( )のなかに入れたのはなぜ?
 わからないねえ。
 わからないけれど、この「いやだなあ」が繰り返されているところがいちばん私の気持ちに迫ってくる。ゴムの木は見たことがないから葉っぱも幹もよくわからない。幹に傷をつけて白い樹液をとり、それからゴムがつくられるというのは「知識」として知っているが実際に触れたこともないので、身近には感じられない。それなのに「いやだなあ」はわかる。
 そうかな?
 私は疑り深い人間なので、自分の考えたことをあまり信じない。
 ほんとうに「いやだなあ」が、わかったのか。
 近藤が「いやだなあ」と感じていること、「役に立つこと」が「いやだなあ」というときの「役に立つ」が何の役に立つのかわからないし、それがどうして「いや」なのかも実はわからない。
 わかるのは、

いやだなあ役に立つのは

(いやだなあ)
 
 繰り返していることだ。繰り返すというのは、それだけ、「いやだなあ」が近藤にとって重要なことだからだ。それが、わかる。
 そして、その繰り返しは単純な繰り返しではない。一回目は「いやだなあ」とはっきり声に出している。二回目は(いやだなあ)とかっこのなかに隠している。隠しながら繰り返している。
 こういうものの言い方はしたことがある。ほんとうは何度も何度も口に出して言いたいけれど、隠してしまう。声に出さずに、自分にだけ、言ってしまう。それ(不満を隠していること)は他人にわかってしまうものかもしれないけれど、とりあえず、言わない。
 こういうことは「肉体」のなかで蓄積される。そして、そういう「肉体」のなかの蓄積があるから、誰かが「声に出さずに、肉体のなかだけで言っていることば」というものが聞こえたりする。

 そういうことがあって、四連目。
 これは、とってもおもしろい。
 「見かけ」は一連目と同じ。
 主語は書かれていないが、日本語は主語(特に「私」)が省略されることが多いから、「私=近藤」がゴムの木をながめているのだと思って読んでしまうが。
 一連目は「幹には触れない/葉にも触れない/水もあげない」と書かれているので、人間(私)が「主語」だとわかる。近藤(私)はゴムの木の「幹には触れない/葉にも触れない」し、また「水もあげない」。
 けれど四連目は?
 近藤(私)が「ながめてる」という意味に取るのが自然なのかもしれないが、これが倒置法で書かれているのだとしたらどうなるか。
 「窓辺の/ゴムの木」は「なんにもしないで/来る日を/ながめてる」にならないか。
 もちろん「木」が「来る日をながめてる」というのは「比喩」になってしまう。「比喩」だけれど、「木」を「主語」にしてそういう文章がなりたつ。そして、そのとき近藤は「比喩」をつかうことで「近藤/私/人間」ではなく、「木」そのものになっている。木になって声を発している。
 というようなことを思うのは。
 実は三連目と関係している。
 「いやだなあ」繰り返している。一度は声に出して言っている。二回目は声を隠している。この繰り返しと隠すということに、「比喩」として何かを語るという行為が重なる。
 「比喩」というのは、ある「対象」を言い直したもの。繰り返したもの。ただし、同じことばではなく別のことばで、ほんとうに言いたいことを隠しながら言うこと。隠すことで、よりいっそう「意味」を強めること。
 そうすると、ほら。
 「いやだなあ」と一度は口にして、そのあとは無言で「いやだなあ」と思いながら仕事をしていると、その言わなかった「いやだなあ」が言ったときよりも露骨に人に知られてしまうことってあるでしょ? そういうふうに仕事をしている人っているなあ、と思い出すでしょ?
 うーん、近藤がゴムの木になのか、ゴムの木がこんどうなのか、と考えながら、そういうことを思うのだった。



 小川三郎「噴水」にも、近藤の作品と通じる「繰り返し」がある。「あなた」と二人で公園へ噴水を見に行ったときのことを書いている。

あなたは微笑もうとして
それができないでいた。

私も微笑もうとして
ふいに押し寄せてきた気持ちの流れに
とまどう。

 この二連も、上下二段に分かれているので、ほんとうは一連かもしれない。近藤の作品のとき連にわけて引用したので、小川の作品も連にわけて引用しておく。
 ここでは「微笑もうとする」という「動詞」が繰り返されている。「微笑もうとして/できない」という「動詞」が繰り返されている。
 繰り返すから「わかる」のである。あるいは、繰り返してみて、そうかもしれないと思っていたことが「確信」にかわる。
 この変化を、近藤も小川もことばにしている。二篇あわせて読むと、そのことがよくわかる。二人はほんとうは違うことを書いているのかもしれないが、二篇あわせて読むと、そう感じてしまう。


オープン・ザ・ドア
近藤久也
思潮社
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秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」(2)

2016-03-11 10:34:46 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」(2)(「朝日新聞」2016年03月08日夕刊)

 秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」について、少しだけ補足。
 私は詩を読むとき、動詞に注目しながら読む。「名詞」には、それぞれの思いがある。人によって「イメージ」が違うことがある。「水」なら、「冷たい」「透明」とか。ところが、「水を飲む」「水で洗う」と「動詞」といっしょに見つめなおすと「イメージ」は「共有」されることが多い。
 コップに入っている液体。「水かな? 飲めるかな? 飲んで大丈夫かな?」わからない。けれど、誰かがそれを飲む。「肉体」で「水」そのものとの関係をつくりだすと、安心して、それを「肉体」で「真似る」ことができる。同じ「動詞」を生きることができる。
 「水で手を洗う」も同じだね。
 「肉体」を動かして、「もの」との関係を生きる。そのときの「動詞」は何語であろうが、「共有される」。
 これが、私の、詩を読むときの「基本」。詩にかぎらず、ことばを読むときの基本。「動詞」がないときは、「名詞」を「動詞」にしてみる、というのも、他人が書いたことを理解するのに役だつ。
 「挨拶」だったら「挨拶する」。「わかれ」だったら「わかれる」。

 で、そんなふうに読んでいくとき、たとえば次の連。

どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできない
と寺山修司はいった

 ここには「飛ぶ」(二行目)という「動詞」と「言う(いった)」(三行目)という「動詞」がある。「鳥だって」(一行目)のなかに「鳥で/ある」の「ある」という動詞もあるが、この三行の「意味」の核心は「飛ぶ」という「動詞」といっしょに動いているようにみえる。「飛ぶ」ということばを中心に、詩が動いているなあ、と感じ、ここに書かれていることも、簡単に「わかる」感じがするのだが……。
 でも、「飛ぶ」というのは、人間にはできない。「動詞」として「肉体」で確かめるわけにはいかない。「水を飲む」という具合にはいかない。
 それこそ鳥が飛んでいるのを見ながら、「想像力」で何かを感じているのだが。
 その「ぼんやり」と感じること、そこに詩があるのかもしれないのだが。

 これをどうやって「肉体」で確かめなおすか、自分の「肉体」に組み込んでつかみとることができるか、ここから、私は、少し考え直すのである。「こころ」とか「精神」を信じていないように、私は「想像力」というものも、簡単に「存在している」とは考えないのである。「想像力」って何? それは、どこにある? 簡単に「定義」できないから、そういうものが、どこかに「ある」とは簡単に判断できないと思うのである。
 「想像力」というものがあったにしろ、その「想像力」は私と秋亜綺羅ではまったく違っているだろう。宇宙工学をやっているひとの「想像力」とマラソンを走っているひとの「想像力」が違うように、東日本大震災を体験した人の「想像力」と体験していないひとの「想像力」はきっと違う。だから「想像力」という「ことば」を安易に、共有できるキーワードとはできないと、私は考える。
 私が、どのことばに「反応」しているのか、確かめなおす。

高く

 ということばに気がつく。「高く」は「副詞」。原形(?)は「高い」という「形容詞」かもしれない。
 「高い」は「形容詞」だから「用言」。つまり、「活用」する。「変化」する。「動詞」の一種と考えてみる。
 「高い」という「状態」はどういうことか。「低い」があって、「高い」がある。「低い」から「高い」への変化は「高くなる」。ここに、先日みた「なる」という「動詞」が隠れている。

高く飛ぶ

 これは、「高い(ところを)飛ぶ」であり、「飛ぶことによって/高くなる」ということでもある。「飛ぶ」という「動詞」は人間の「肉体」そのものでは反復できないが、「高くなる」なら「肉体」で反復できる。「高くなる」は「高くする」という形で「高く」を「肉体」にしっかりと組み込むことができる。
 箱を積む。箱が「高くなる」。ここには「高くする」が「積む」という「動詞」の形で隠れている。箱の上に立つ。そのとき自分の背が「高くなる」。(もちろん、これは見かけだが。)箱をふたつ積む。さらに「高くなる」。
 木に登る。屋根に登る。地上にいるひとよりも「高いところにいる」。それは、地上から木や屋根に登ることによって、自分の「位置(いるところ)」を「高くする」ということである。
 「する/なる」は、そういう形で結びついている。

 前回、この詩を読んだとき、書かれている「なる(なった)」という「動詞」だけに焦点をあてたのだが、

高く飛ぶ

 という短いことばのなかに「なる」が隠れていると思って読むと、秋亜綺羅が、この詩で寺山修司のことばを引用している「必然性」のようなものもわかってくる。
 寺山が隠す形で書いている「なる」と秋亜綺羅の書いている「なる」は呼応しているのである。響きあっているのである。



透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
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