今井好子「雨が上がって」(「橄欖」101 、2016年03月20日発行)
今井好子「雨が上がって」は「遠くへ行った人」を思い出す詩。その二、三連目。
何とも不思議。どうしてこの二連が好きなのかなあ。私は何を書きたいと思っているのかなあ。
カマキリと剪定職人(?)が重なっているのだけれど。「よおっ よおっ」が人間的で、それが剪定職人につながっていくのだけれど。でもカマキリのカマと剪定鋏の鋏では、ちょっと違うねえ……。だから、その、どっちがどっちの「比喩」かというところを心底おもしろいと感じたわけではないなあ。
それよりも、
この行だな。
何とも、変。「カマキリを見ましたか?」なんて、剪定職人に「聞く」ということ、まあ、常識的には考えられない。だから、こんなことを「思う」ことが変なのだけれど、変なだけなら、詩にならない。「でたらめ」になる。
なぜ、この行が気になったのか。いや、気に入ったのか。
引用はしなかったが、一連目、一行目は
噂話かな? 「話が出る」ということばのなかには「聞く」という動詞はないが、隠れている。「話が出る」ということは「話を聞く」ということ。耳を傾けるというよりも、偶然「聞く」。この偶然は、カマキリを物干し竿の上に偶然見るのに通じる。
これが響いて来ているのだ。
この「聞く」は「問う/質問する」ということ。「質問する」は、偶然というような要素が少ない。だから、「話が出た」というときの「話を聞く」とは少し違う。けれど「問う」ということは「答えを聞き出す」ということ。相手からことばを「聞く」ということが含まれているから、「問うたことはありませんでした」ではなく、「聞いたことはありませんでした」ということばになる。この微妙なゆらぎ、「聞く」ということばの選び方が、全体をしずかな感じで動かしている。
でも、なぜ、聞かなかったのだろう。
聞かなくても「わかる」からだ。ただし、この「わかる」は、剪定職人がカマキリを見たかどうかということではなく、剪定職人が枝を切っているということが「わかる」から、もう、それ以上「聞く必要はない」と感じて「聞かない」。一生懸命仕事をしている。そのとき「よおっ よおっ」と力を込める声を実際に剪定職人が出していたかどうか「わからない」が、声に出していなくても肉体のなかで声がでていることが「わかる」。熱心な動きから「わかる」。
実際に、その「仕事」がわかるわけではないが、ひとのやっていることの「熱心さ」というものは「わかる」。それで十分である。どう剪定すれば木の形がととのうか、どの枝を切ればいいのかなんて、素人(今井)には「わからない」。だから剪定職人にまかせている。仕事そのものもまかせるとき、頼りになるのは「熱心さ」である。それが「わかる」から、それで十分。
こういうことは、世の中には、たくさんある。
剪定職人は剪定が仕事。それ以外は、まあ、そこに付随している何か。その付随しているすべての何かは、「わからない」ままでぜんぜんかまわない。これは逆に言えば、何か勘違いしていても、まったくかまわないということ。
つまり。
剪定している途中で、剪定職人が「カマキリを見る/カマキリを見た」ことがあってもいいし、なくてもいい。「一度位はカマキリに/出会っていたかもしれません」と想像してみたって、特に、何かさしさわりがあるわけではない。「高いところの木を切りながら/空も切っている手応えを/感じたことはあったのでしょうか」と思ってみて、それが正しいか間違っているか、問題になることは何もない。
それは「無意味」だからである。剪定の仕事、あるいは「熱心」とは無関係だからである。
ところが。
この「無意味/無関係」こそが、詩なのだ。
だいたいカマキリが木の枝を切るわけではないのだから、カマキリと剪定職人を重ねること自体が「無意味」である。
でも、もしカマキリが「空」を切っていたのだとしたら? 物干し竿でカマを動かしているカマキリは何を切っている? 「切られているものの姿はありません」。「空」を切っているのだ。
「空」という感じは「そら」とも「くう」とも読めるが、カマキリが切っているのは「くう」の方が意味合いとして強いかもしれない。
でも剪定職人の方はどうだろう。「くう」ではなく「そら」と読みたい。
で、「そら」と読むとき、ちょっと変なことが起きる。剪定職人と枝を切る。「そら」を切るわけではない。けれども「そらを切る」と「誤読」しても、そんなに違和感がない。(私の場合は。)なぜかというと、枝を切ってしまうと「そら」の見え方が違ってくる。だから剪定職人は枝をととのえていたのではなく「そら」の形をととのえていたとも感じることができるからである。(そうであるなら、またカマキリも「そら」を切っていたと読み直してもいいかもしれない。今井はカマキリは「そら」を切っていると感じたからこそ、剪定職人が「そら」を切っていたのだと思ったのかもしれない。))
だれかが何かをする。何をしたかは、本人の「意図」とは関係なく、別の見方でとらえなおすこともできる。
剪定職人は枝を切った。けれど、それを今井は「そらの形をととのえた/そらを切った」ととらえなおすことができる。
このとらえなおし(再定義)は「無意味」である。そして「無意味」だから詩である。「無意味」が動いて、世界をいままでとは違った形で生み出している。そういう「運動」が、ここに、とても自然な形で動いている。
「自然な」とは「無意識」の奥にあるものをそのまま揺さぶる形で、ということ。強引に何かを作り上げるという感じではないということ。
三連目。
「高枝鋏で切り裂かれた空も」の「空」は「そら」としか読めない。それは「青空」とも読めるだろう。雨上がりなのだから。
そこにふいに書かれている一行、
ということばも、とてもおもしろい。「文法(?)」的には、「あちらもこちらもみてきた雨上がりの滴」(雨降りと晴れとの、あちら、こちら)とつづくのだろうけれど、剪定職人さんの「暮らし」とも受けとめることができる。「あちら(の家の暮らし)もこちらの(家の暮らし)もみてきた」というふうに。いろいろな家に出入りするのだから。そして、そうとらえたとき、その「あちらもこちらもみる」という「行為/動詞」は、どこかで今井の「いま」そのものと重ならないか。カマキリ(あちら)も剪定職人(ことら)も見てきたからこそ、いま、こうしてことばが動いている。
今井は剪定職人さんの「暮らし」を直接見ているわけではない。家に来たとき、その制定作業を見ているだけだろう。けれど、どこからか「聞こえてくる」ものがある。「よおっ よおっ」という声にならない声、肉体の内側で響いている声が聞こえてくる。「生き方/思想」が聞こえてくる。その「暮らし/生き方」の延長にある「遠くへ行った」というのも、もしかしたら「聞こえてきた」噂かもしれない。何かはいつでも「聞こえてくる」ものなのだ。
そういうものを「聞き」ながら、今井は、どうするのか。
剪定職人さんが「空(そら)」をととのえたように、今井は今井の「暮らし」をととのえるのである。なんなとく、ふりかえるのである。身の回りをみつめなおすのである。そして、あ、カマキリがいる、というような、「無意味」を発見し、その「無意味」のなかでこころを揺さぶり、ときほぐす。
何が起きるわけではない。ただ「無意味」なものが、ぱっと輝く。その輝きが美しい。
*
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今井好子「雨が上がって」は「遠くへ行った人」を思い出す詩。その二、三連目。
窓の向こうでカマキリは
物干し竿の上でよおっ よおっ
鎌をふりおろしています
切られているものの姿はありません
遠くへ行った人は高枝鋏で
うちの庭の木を切ってくれました
聞いたことはありませんでしたが
一度位はカマキリに
出会っていたかもしれません
高いところの木を切りながら
空も切っている手応えを
感じたことはあったのでしょうか
何とも不思議。どうしてこの二連が好きなのかなあ。私は何を書きたいと思っているのかなあ。
カマキリと剪定職人(?)が重なっているのだけれど。「よおっ よおっ」が人間的で、それが剪定職人につながっていくのだけれど。でもカマキリのカマと剪定鋏の鋏では、ちょっと違うねえ……。だから、その、どっちがどっちの「比喩」かというところを心底おもしろいと感じたわけではないなあ。
それよりも、
聞いたことはありませんでしたが
この行だな。
何とも、変。「カマキリを見ましたか?」なんて、剪定職人に「聞く」ということ、まあ、常識的には考えられない。だから、こんなことを「思う」ことが変なのだけれど、変なだけなら、詩にならない。「でたらめ」になる。
なぜ、この行が気になったのか。いや、気に入ったのか。
引用はしなかったが、一連目、一行目は
遠くへいった人の話が出ました
噂話かな? 「話が出る」ということばのなかには「聞く」という動詞はないが、隠れている。「話が出る」ということは「話を聞く」ということ。耳を傾けるというよりも、偶然「聞く」。この偶然は、カマキリを物干し竿の上に偶然見るのに通じる。
これが響いて来ているのだ。
聞いたことはありませんでしたが
この「聞く」は「問う/質問する」ということ。「質問する」は、偶然というような要素が少ない。だから、「話が出た」というときの「話を聞く」とは少し違う。けれど「問う」ということは「答えを聞き出す」ということ。相手からことばを「聞く」ということが含まれているから、「問うたことはありませんでした」ではなく、「聞いたことはありませんでした」ということばになる。この微妙なゆらぎ、「聞く」ということばの選び方が、全体をしずかな感じで動かしている。
でも、なぜ、聞かなかったのだろう。
聞かなくても「わかる」からだ。ただし、この「わかる」は、剪定職人がカマキリを見たかどうかということではなく、剪定職人が枝を切っているということが「わかる」から、もう、それ以上「聞く必要はない」と感じて「聞かない」。一生懸命仕事をしている。そのとき「よおっ よおっ」と力を込める声を実際に剪定職人が出していたかどうか「わからない」が、声に出していなくても肉体のなかで声がでていることが「わかる」。熱心な動きから「わかる」。
実際に、その「仕事」がわかるわけではないが、ひとのやっていることの「熱心さ」というものは「わかる」。それで十分である。どう剪定すれば木の形がととのうか、どの枝を切ればいいのかなんて、素人(今井)には「わからない」。だから剪定職人にまかせている。仕事そのものもまかせるとき、頼りになるのは「熱心さ」である。それが「わかる」から、それで十分。
こういうことは、世の中には、たくさんある。
剪定職人は剪定が仕事。それ以外は、まあ、そこに付随している何か。その付随しているすべての何かは、「わからない」ままでぜんぜんかまわない。これは逆に言えば、何か勘違いしていても、まったくかまわないということ。
つまり。
剪定している途中で、剪定職人が「カマキリを見る/カマキリを見た」ことがあってもいいし、なくてもいい。「一度位はカマキリに/出会っていたかもしれません」と想像してみたって、特に、何かさしさわりがあるわけではない。「高いところの木を切りながら/空も切っている手応えを/感じたことはあったのでしょうか」と思ってみて、それが正しいか間違っているか、問題になることは何もない。
それは「無意味」だからである。剪定の仕事、あるいは「熱心」とは無関係だからである。
ところが。
この「無意味/無関係」こそが、詩なのだ。
だいたいカマキリが木の枝を切るわけではないのだから、カマキリと剪定職人を重ねること自体が「無意味」である。
でも、もしカマキリが「空」を切っていたのだとしたら? 物干し竿でカマを動かしているカマキリは何を切っている? 「切られているものの姿はありません」。「空」を切っているのだ。
「空」という感じは「そら」とも「くう」とも読めるが、カマキリが切っているのは「くう」の方が意味合いとして強いかもしれない。
でも剪定職人の方はどうだろう。「くう」ではなく「そら」と読みたい。
で、「そら」と読むとき、ちょっと変なことが起きる。剪定職人と枝を切る。「そら」を切るわけではない。けれども「そらを切る」と「誤読」しても、そんなに違和感がない。(私の場合は。)なぜかというと、枝を切ってしまうと「そら」の見え方が違ってくる。だから剪定職人は枝をととのえていたのではなく「そら」の形をととのえていたとも感じることができるからである。(そうであるなら、またカマキリも「そら」を切っていたと読み直してもいいかもしれない。今井はカマキリは「そら」を切っていると感じたからこそ、剪定職人が「そら」を切っていたのだと思ったのかもしれない。))
だれかが何かをする。何をしたかは、本人の「意図」とは関係なく、別の見方でとらえなおすこともできる。
剪定職人は枝を切った。けれど、それを今井は「そらの形をととのえた/そらを切った」ととらえなおすことができる。
このとらえなおし(再定義)は「無意味」である。そして「無意味」だから詩である。「無意味」が動いて、世界をいままでとは違った形で生み出している。そういう「運動」が、ここに、とても自然な形で動いている。
「自然な」とは「無意識」の奥にあるものをそのまま揺さぶる形で、ということ。強引に何かを作り上げるという感じではないということ。
三連目。
遠くへ行った人の暮らしぶりも
カマキリの鎌のひとふりも
高枝鋏で切り裂かれた空も
あちらもこちらもみてきた
雨上がりの滴が
今
物干し竿のへりから
落ちていきます
「高枝鋏で切り裂かれた空も」の「空」は「そら」としか読めない。それは「青空」とも読めるだろう。雨上がりなのだから。
そこにふいに書かれている一行、
あちらもこちらもみてきた
ということばも、とてもおもしろい。「文法(?)」的には、「あちらもこちらもみてきた雨上がりの滴」(雨降りと晴れとの、あちら、こちら)とつづくのだろうけれど、剪定職人さんの「暮らし」とも受けとめることができる。「あちら(の家の暮らし)もこちらの(家の暮らし)もみてきた」というふうに。いろいろな家に出入りするのだから。そして、そうとらえたとき、その「あちらもこちらもみる」という「行為/動詞」は、どこかで今井の「いま」そのものと重ならないか。カマキリ(あちら)も剪定職人(ことら)も見てきたからこそ、いま、こうしてことばが動いている。
今井は剪定職人さんの「暮らし」を直接見ているわけではない。家に来たとき、その制定作業を見ているだけだろう。けれど、どこからか「聞こえてくる」ものがある。「よおっ よおっ」という声にならない声、肉体の内側で響いている声が聞こえてくる。「生き方/思想」が聞こえてくる。その「暮らし/生き方」の延長にある「遠くへ行った」というのも、もしかしたら「聞こえてきた」噂かもしれない。何かはいつでも「聞こえてくる」ものなのだ。
そういうものを「聞き」ながら、今井は、どうするのか。
剪定職人さんが「空(そら)」をととのえたように、今井は今井の「暮らし」をととのえるのである。なんなとく、ふりかえるのである。身の回りをみつめなおすのである。そして、あ、カマキリがいる、というような、「無意味」を発見し、その「無意味」のなかでこころを揺さぶり、ときほぐす。
何が起きるわけではない。ただ「無意味」なものが、ぱっと輝く。その輝きが美しい。
![]() | 佐藤君に会った日は |
今井 好子 | |
ミッドナイト・プレス |
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