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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』

2016-03-01 09:50:44 | 詩集
野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』(白水社、2015年11月30日発行)

 野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』の「あとがき」に次の文章がある。

ハイデガー、レヴィナス、アガンペンという哲学の文脈を石原吉郎の読み解きに導き入れるとき、何が見えてくるか、

 私は、石原吉郎をほとんど読んでいない。野村の文章もあまり読んでいない。ハイデガー、レヴィナスも読んでいないし、アガンペンにいたっては、この本ではじめて名前を知った。
 そういう私が、この本について何かを書くことは無謀を通り越しているかもしれない。けれども書きたいことがある。
 私は、野村が試みているような「読み解き」のあり方がまったく理解できない。なぜ他人の哲学を石原の詩の「読み解き」に導入しなければならないのか、さっぱりわからない。石原が彼らから影響を受けた、と言っているのなら、それもひとつの方法だろうけれど、石原が彼らとは無関係なところでことばを書いているのだとしたら、他人の哲学などを導入したって何にもならないだろう。彼らと石原の関係など、何も見えてこない。わかるのは、野村がハイデガー、レヴィナス、アガンペンを読んだ、ということだけである。
 そして、そのハイデガー、レヴィナス、アガンペンの読み方なのだが、それについても私は疑問に思うところがある。
 そのことをまず書いてみたい。「Ⅱ 変奏 六つの旋律 存在」という章(?)に、ハイデガー、レヴィナスが出てくる。そこで野村は「イリヤ(il y a)」というフランス語に注目している。「イリヤ」はフランス語で「ある」という「意味」。このフランス語の「ある」についてレヴィナスは「本質的な無名性」ということを言っている。非人称主語「il」をつかうこととに注目している。
 さらに英語と「there is」、ドイツ語(ハイデガーの言語)「es gibt」と比較している。そして、フランス語もドイツ語も、「存在する」という動詞をつかわないという点で共通しているのだが、「ある」というときに、

用いられている動詞がドイツ語では「与える」なのにフランス語では「持つ」であるところが、何とも意味深い。それはそのまま、たとえばハイデガーとレヴィナスにおける存在の捉え方のちがいに直結していくように思われるからである。

 と書き、

 レヴィナスの「実存者なき実存」「イリヤ」という名の剥き出しの存在である。この思想をレヴィナスはみずからの収容所体験から思いついたというが、まさしく同じその理由によって、この「イリヤ」を石原吉郎もまた体験させられたのではないか、そう私は考えたいのだ。

 とつないでゆく。「実存者なき実存」というのは「非人称」によって「実存」させられる、ということなのか。よくわからないが、私は、そんなふうに読んだ。
 問題は、このとき石原がレヴィナスを、あるいは「イリヤ」という構文を知っていたか、自分自身のものにしていたかということ。石原は「日本語」で「ある(実存する)」ということを考えなかったか。自分と他者との関係を考えなかったか、ということだ。
 当然、日本語で考えているはずだ。シベリアにいるのだからロシア語でも考えざるを得なかったかもしれない。そうであるなら、そういう「日本語」を石原の詩のなかにさがすことが先ではないか。「イリヤ」を借りてきても、石原の考えたことを説明できないのではないか。
 そして、そのうえで書くのだが、この「ある」をめぐる「考察」に野村自身の「日本語」が出て来ないのはなぜ? 「ある」という「日本語」は出てくるけれど、「ある」というのは「日本語」では、どうつかわれている? 野村は、どうつかってきた? それが省みられないまま、ドイツ語、フランス語、あるいは英語が出てくるのは、なぜ?
 野村は日本語で「ある」について考えないのか。「存在」について、「実存」について、「他者」について考えないのか。

 私はフランス語もドイツ語も知らないが、たとえば、

あ、富士山だ。富士山が見える。

 と日本語でいうとき、それは「富士山がある」という意味である。「見える」は「可能性」をあらわすこともあるが、この場合は「可能性」ではない。こういうとき、フランス語では「イリヤ 富士山」というのではないだろうか。(英語では、「ルック・アト・富士山」と、突然「命令形」でいう方がぴったりくるかな? 「富士山がある」とは言わないだろうなあ……。)
 机の上に一冊の本があるはフランス語では「イリヤ アン リーブル スール ラ ターブル」らしいが、このフランス語を「テーブルの上に一冊の本が見える」と言い換えることはできると思う。
 で、こういうときの日本語の「見える」は、やっぱり「非人称」なのではないだろうか。「主語」を「私は」と補うこともできるが、「富士山が見える」というとき「私は」と補う日本人はいないだろう。「ほら、見て。(君にも、誰にも、みんなに)見える」ということになる。
 フランス語の「イリヤ」をつかわなくても「非人称」の「ある」という表現は、すでに日本語にある。日本語にあるはずのものを、わざわざフランス語をもってきて説明することが、私には、わからない。
 だいたい「文法」というのは、あとから説明するためのものであって、そんなものを意識せずにことばをつかうのが人間である。ドイツ語では「与える」、フランス語では「持つ」という違いがあると言っても、何か「屁理屈」いう感じが私にはする。
 「ある」のかわりに「持つ」、あるいは「与える」をつかって、日本語で文章を考えてみようか。「彼の目は青い」をさまざまに言い換えてみよう。「ある」を動かしてみようか。

「ある」をつかえば、彼の目は青で「ある」。
「持つ」をつかえば、彼は青い目を持っている。
「与える」をつかえば、彼は両親から青い目を「与えられた」。
「見る」をつかえば、彼の目は青い色に「見える」(青く「見える」)。

 これでは「存在(実存)」について日本語の例をあげたことにはならないと言われそうだが、野村があげている「動詞」はそんなふうにつかわれている。これは特別なことではない。日本人なら、どの文章を聞いても、「彼(男)」と「青い目」を思い浮かべる。そこから「人間関係」がはじまる。
 「彼の目は青い」を、フランス語、ドイツ語、英語でどう訳すかは、そのときの「状況」によって違うが、どう訳そうと「彼の目が青い」という「事実」はかわらない。
 ここから「イリヤ」というフランス語だけを特化して、それが石原の体験と重なるというのは、かなり無理があると思う。レヴィナスの収容所体験と石原の捕虜体験が、他者によって「非人間的」なあつかいを受けた、人間であるのに「間(非人称)」として扱われたという点で共通するにしても、それを「イリヤ」と結びつけるのは、かなり強引ではないだろうか。
 レヴィナスの側から石原へではなく、石原からレヴィナスの方への「言語的接近」が説明できない限り、「イリヤ」で石原を説明するのは、私には「暴力」に思える。石原のことばは、石原のつかっている「日本語」でつかみとらないといけないのではないのか。

 さらに、日本語では、

彼は青い目をしている。

 と表現することもある。この「している」は、他の外国語ではどうなるのだろう。
 「目」ではなく、顔の場合は、

おい、そんな青い顔して、どうしたんだ。

 というときもある。このときの「して」は、やはり「ある」に通じる。
 「ある」というのは、いろいろに言い換えうるのだ。
 「実存」そのものを「定義」しなくても、そこに「実際にあるもの(生きている人間)」と向き合い、私たちはいろいろなことば(動詞)をつかって、「生きている」ことを確認し、あらわしている。
 「実存」あるいは「存在」というようなことばをつかわないからといって、ふつうの人が、「生きていること」や「他者との関係」について考えていない、「哲学」をもっていないことにはならない。むしろ、そんなめんどうくさいことばをつかわずに、「哲学」しているのだろう。「思想」を深めているのだろう。
 「哲学」にしろ「思想」にしろ、直接向き合っている人とのあいだで動くものであって、(それこそ「実存」であって)、あったこともない人や、話してもいないことばで語られるのは「哲学知識」というもの、空想のものにすぎないと私は思う。「現実」と向き合い、その場その場で、つくり出していく(その場その場を生き抜いていく)のが、「哲学」や「思想」だろう。
 「イリヤ」についてふれながらレヴィナスが収容所について言及しているからといって、それだけで石原吉郎の詩をレヴィナスの哲学に結びつけることは、とても危険であると思う。
 もっと「日本語」のなかで石原をとらえなおす必要があるだろう。野村自身がいつもつかっていることばで石原に接近していかないと、野村が石原を読んでいるのか、レヴィナスが石原を読んでいるのかわからない。野村は、レヴィナスになって石原を読んでいる、というかもしれないけれど……。でも、レヴィナス自身が石原について直接語っているのではないのだとしたら、それは野村がレヴィナスの威を借りて石原を読むことにならないか。

 で、次のような部分にも私はつまずく。「事実」という作品を引いて語っている。

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている

 これに対して野村は、

 誰の「手」や「足」であるかが問題なのではない。誰のものでもないような、誰でもない誰かに所有されているような--仮にフランス語に訳すとするなら、まさにil y aという非人称の提示表現であらわすしかない「手」や「足」。

 と書いている。
 「見ろ」という表現(動詞)に注目するなら、「あ、富士山が見える」の「見える」に通じるものがそこにある。「ある」は「見える」であって、それはたしかに「非人称(主語が特定されない)」になるが、こんなことはフランス語を借りなくても、日本語で説明できる。
 また「そこにそうして/ある」という言い回しに注目するなら、これはフランス哲学、ドイツ哲学など借りてこなくても、古くからある「日本の哲学」である。「そこに/そうして」としか言いようなのない状態で「ある」。「そこに/そうして」は言い換えがきかない「そこに/そうして」であり、同義反復するしかないもの。
 「どのようにしてあるか」「そのようにしてある」という問答。
 これは「禅問答」である。説明を拒絶して(?)、「そのように」としか言わない禅問答を何度か聞いたことがある。(時代劇なんかで、だけれど。)そのとき「どのようにして」というのは問いでありながら「答え」そのものなのだと思う。「どのようにして」は「そのようにして」と向き合って完結する。そういう「哲学」が日本にはある。そう私は感じている。フランスの哲学など、まったく関係がない。もし関係があるとすればと、フランスの哲学はやっと日本の禅の哲学に追いついたということだろう。
 レヴィナスと石原の関係にあてはめれば、レヴィナスが石原に追いついた。レヴィナスに石原の詩を導入することで、レヴィナスの思想が明確になる、というのでないと「日本語」を起点にした「思想」として受けとめにくい。
 脱線した。詩に戻る。
 この詩については、「ある」のところでふれた

して

 もと登場してきている。「青い目をしている」の「して」と同じ「して」である。
 「して」は「した」に通じる。「青い目をしたお人形」という童謡の歌詞がある。この「した」は「する」でもある。「する」は「なす」でもある。
 で、そうすると、それは英語の「be」にも通じるなあ。「to be or not to be」は「死すべきか、生きるべきか」であると同時に「なすべきか、なさざるべきか」。「let it be」の「be」もこれかもしれないし、「ケ・セ・セラ・セラ」の「セラ」も、これだろうなあ。だからといって、石原が英語で考えたとは言えないし、ラテン語で考えたとも言えない。私がかってに英語や聞きかじりのラテン語をひっぱり出して、テキトウなことを書いているだけである。石原の詩とは無関係である。
 「そうして/ある」は「そのようにある」という反復のかたちでしか表現できない「絶対的」な存在のあり方、受け入れるしかない「あり方」とも言えるかも……。

 そして、「事実」は先の引用のあと

見たものは
見たといえ

 とつづいているが、これはどうしたって「絶対無」から見た世界だなあ。この「絶対無」というのもフランス哲学(あるいはドイツ哲学)というよりも禅に源流をさがした方が早そうである。
 私は禅も何も知らない。胡座がかけないから座禅もしたことがないのだが、どこからか聞きかじった「日本語」が、私にそう語りかけてくる。
 日本語の詩なのだから、外国のことば(哲学)ではなく、日本語の肉体を動かしながら読むことが大切なのではないだろうか、と思った。石原の詩を読みながら、野村の「肉体」がどう動いたかを読みたい。「頭」がどう動いたかは、読んでもおもしろくないというよりも……そうだなあ、「頭」がどう動いたかを読むよりも、自分でレビィナスを読んだ方がレヴィナスと対話できるだろうなあと思う。野村の「頭」のなかで、きっと野村とレヴィナスは融合している(野村はレヴィナスを消化しているというかもしれないが)。そういう文章を読むと、野村を読んでいるのかレヴィナスを読まされているのか、私はわからなくなる。レヴィナスを知っているという野村を語るために、石原の詩がつかわれているという感じがして、石原の詩を読んでいる気持ちになれないのである。私には、石原の詩を読んで興奮している野村が見えてこない。
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野村 喜和夫
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